掟
朝になれば子どもたちの声が道に溢れ、昼は畑に立ち上る土の匂い、夜はどの家からも同じように灯りがもれてくる。慣れれば便利なことも多く、日々の生活は滑らかに回っているように見えた。
それでも梓の胸の奥には、どうしても拭えない影があった。
通学路の脇にしゃがんでいた、あの小さな影。全身が濡れたまま動かない体。
最初に見た夜だけじゃない。その後も何度か、同じ場所に同じ姿を見かけた。
通りすぎるたび、視界の端に冷たい水滴がしたたり落ちる気配がして、心臓が縮む。
清音は決して振り向かず、子どもたちも素通りする。まるで最初から存在しなかったかのように。
――私だけが見えているのだろうか。
朝、家まで迎えに来てくれる清音と二人並んで学校への道を歩く。
清音はまるで姉のように甲斐甲斐しく梓の世話を焼いてくれた。
言葉少ない清音だったが、梓には彼女の静かな優しさが心地よかった。
その朝も二人で並んで進み、村の中央、商店がポツポツと立ち並ぶ一番賑やかな通りへ出た。
朝方のことで、通りには学校に向かう子供たちや、買い出しに出ている村人の姿がちらほら見えた。
と、見覚えのある老婆が梓に笑みをかける。
胡瓜をくれたあの老婆――お福さんだ。
「慣れたかねぇ。よう歩いとるのを見ると安心するじゃ」
そして当たり前みたいに続ける。
「夜道は中央を歩きんさい。端に寄ったらいけんよ。挨拶は三度な。それから、笑顔を忘れちゃあいけん」
その言葉に、近くを歩いていた村人たちも頷きながら同じ調子で繰り返した。
「夜道は中央」「笑顔は三度」「笑顔を絶やさず」
声が重なり、調子が揃っていく。まるで事前に示し合わせたかのように。
そして、最後にひとりの老人が低く付け加えた。
「忘れたら……にくゑ様が目を覚ますけぇな」
にこやかな顔が一斉にこちらを向いたとき、梓は気づいた。
全員の笑顔の角度が、まったく同じだった。
(みんな同じ……仮面みたいに)
顔を上げると、清音の視線とぶつかった。深い黒の瞳。その奥が読めない。
けれどそのまなざしに触れると、怖さと同時に、妙な安心感が胸に差しこんでくるのを梓は否定できなかった。
じっとお福が見つめる。張り付いたような微笑を浮かべて。梓は何故だか言葉に詰まり声が出ない。
答えを探せずに息を詰めた梓の前で、清音がそっと一歩前に出た。まるで梓を庇うように。
「この子には、教えてあります。守らせますから」
お福はうなずき、にこやかな表情を崩さなかった。梓はうなずくほかなく、膝の裏に冷や汗を感じていた。
「清音様がおっしゃるなら、大丈夫じゃ」
お福の背負った籠の中、小さな芋がこつりと当たる。
梓はポケットのノートを指先で探り、紙の縁を撫でながら歩幅を合わせた。
清音の声に守られた気がする。
けれど頭の中では、あの言葉が離れなかった。
「……ねえ、さっきのにくゑ様って、何?」
横を歩く清音のまなざしがわずかに揺れる。
「……まだ知らんでいい。知らん方が、楽だから」
「でも、みんな普通に言ってた。村を守ってるものなんでしょ?」
梓は食い下がる。
清音の歩みが一瞬止まり、声が硬くなる。
「梓……だめ」
そして、深呼吸をして言い直した。
「……あなたはまだ、この村の人じゃない。知らん方がいいことがあるの。だからね――他の誰にも聞いちゃだめ」
その声音には拒絶と同時に、守ろうとする必死さが混じっていた。
梓は頷くしかなく、ノートの片隅に小さく書き残した。
――にくゑ 聞くな、と言われた。
◆
その週、学校は少しばかり騒がしかった。
初等部の先生が休みになったせいで、一週間だけ高等部との合同授業が組まれた。狭い教室に机と椅子を詰め込み、年の違う子どもたちが肩を寄せ合って座っている。鉛筆の音や椅子を引く音がいつもより近くて、耳の奥にちくちく刺さるようだった。
梓は清音の隣に腰を下ろし、周りを見渡す。
前の席の美穂が、にっこり笑って振り返った。
「梓ちゃん、もう慣れたと? この教室、ぎゅうぎゅうじゃろ」
梓もつられて笑った。
「うん。でも、東京の学校ももっと狭かったよ。朝の電車なんて、押しつぶされそうになるくらい」
健太が目を丸くして身を乗り出す。手にした文庫本を膝に置いて。
「えっ、電車!? ほんとに押しつぶされるんか!」
梓は頷いて、ちょっと肩をすくめた。
「立ったまま動けないくらい。駅員さんが後ろから押して、やっと乗れるの」
「すごかなぁ」
健太は感心したように口を開けた。
その横から、あゆみが身を寄せてきて、瞳を輝かせる。
「東京って、原宿ってとこあるんやろ? 雑誌で見たとよ! カラフルな服とか、かわいいカフェとか」
梓は一瞬戸惑ったが、笑顔で返した。
「うん、あるよ。駅前はすごい人だらけ。歩くのも大変なくらい」
「行ってみたかねぇ」
あゆみは頬を赤らめ、夢見るように言った。その顔はごく普通の同年代の女の子で、梓の胸の緊張が少しほどけた。
だが次の瞬間、あゆみの表情は変わらないまま、声の調子だけが少し低くなった。
「でも、夜道は中央を歩かんとね」
美穂が続ける。
「笑顔は三度じゃ。忘れちゃいけんとよ」
健太も微笑を浮かべて大きく頷いた。
「笑顔を絶やさんことが一番大事なんじゃ。ま迷信のたぐいじゃけどな」
三人とも同じ表情を浮かべて、当たり前のことのように口にする。
そして、美穂が最後に小さく付け足した。
「……にくゑ様がおるけぇ」
「にくゑ様?」
「この村の守り神様、みたいなもんやね」
神様、なんだと梓は思う。掟を決めたのもその神様なんだろうか?
清音がちらりとこちらに視線をよこす。
だが、すぐに元に戻った。この程度なら、にくゑ様について知っていてもいい、ということだろうか?
「もうすぐお祭りもあるんだよ。にくゑ様をたたえるお祭り」
「そうじゃ、そうじゃ、なんもないこの村じゃけんど、祭りはええよ」
健太とあゆみが三回笑顔を浮かべながら話しかける。
「お祭り、あるんだね」
「そうじゃ、成人の祭りで一七の子供が主役じゃ。ちょうど僕らが主役じゃけん」
得意げな顔で健太が胸を張った。
「この祭りが終わると、村の中では一人前ってされるんよ。そしたら外に出て行けるけん」
「それじゃ、皆村の外には出たことないの?」
梓が聞くと、三人は少し寂しげに頷いた。
「じゃから、外から来た梓ちゃんには、色々聞きたいことがいっぱいあるとうよ」
親しげによってくるあゆみに、少し戸惑う。
梓は曖昧に笑い返しながら、ノートの端に書き込んだ。
――笑顔=掟。
――東京≠村。
――"にくゑ"?
胸の奥に、ひやりとしたものが沈んでいく。
その時、隣に座る清音が梓のノートを覗き込んだ。
「メモを取ってるのね」
清音の声は小さく、でも興味深そうだった。
「うん……忘れないように」
梓が答えると、清音は微かに微笑んだ。
「几帳面なのね。私は覚えてるだけだから」
二人のやり取りを、斜め前に座るあゆみがじっと見つめていた。清音が梓にだけ見せる、特別な表情を見逃さずに。
あゆみは自分のノートを開くと、鉛筆を握った。そして、梓の真似をするように、何かを書き始めた。
でも、書いているのは文字ではなかった。
それは名前。
あゆみは「清音」という名前を、ただそれだけを何度も何度も繰り返し書いていた。