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にくゑ-本編-  作者: 匿名希望
第三章 村の日々
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 朝になれば子どもたちの声が道に溢れ、昼は畑に立ち上る土の匂い、夜はどの家からも同じように灯りがもれてくる。慣れれば便利なことも多く、日々の生活は滑らかに回っているように見えた。


 それでも梓の胸の奥には、どうしても拭えない影があった。

 通学路の脇にしゃがんでいた、あの小さな影。全身が濡れたまま動かない体。

 最初に見た夜だけじゃない。その後も何度か、同じ場所に同じ姿を見かけた。

 通りすぎるたび、視界の端に冷たい水滴がしたたり落ちる気配がして、心臓が縮む。

 清音は決して振り向かず、子どもたちも素通りする。まるで最初から存在しなかったかのように。


 ――私だけが見えているのだろうか。


 朝、家まで迎えに来てくれる清音と二人並んで学校への道を歩く。

 清音はまるで姉のように甲斐甲斐しく梓の世話を焼いてくれた。

 言葉少ない清音だったが、梓には彼女の静かな優しさが心地よかった。


 その朝も二人で並んで進み、村の中央、商店がポツポツと立ち並ぶ一番賑やかな通りへ出た。

 朝方のことで、通りには学校に向かう子供たちや、買い出しに出ている村人の姿がちらほら見えた。


 と、見覚えのある老婆が梓に笑みをかける。

 胡瓜をくれたあの老婆――お福さんだ。


「慣れたかねぇ。よう歩いとるのを見ると安心するじゃ」


 そして当たり前みたいに続ける。


「夜道は中央を歩きんさい。端に寄ったらいけんよ。挨拶は三度な。それから、笑顔を忘れちゃあいけん」


 その言葉に、近くを歩いていた村人たちも頷きながら同じ調子で繰り返した。

 「夜道は中央」「笑顔は三度」「笑顔を絶やさず」

 声が重なり、調子が揃っていく。まるで事前に示し合わせたかのように。


 そして、最後にひとりの老人が低く付け加えた。


「忘れたら……にくゑ様が目を覚ますけぇな」


 にこやかな顔が一斉にこちらを向いたとき、梓は気づいた。

 全員の笑顔の角度が、まったく同じだった。


 (みんな同じ……仮面みたいに)


 顔を上げると、清音の視線とぶつかった。深い黒の瞳。その奥が読めない。

 けれどそのまなざしに触れると、怖さと同時に、妙な安心感が胸に差しこんでくるのを梓は否定できなかった。


 じっとお福が見つめる。張り付いたような微笑を浮かべて。梓は何故だか言葉に詰まり声が出ない。

 答えを探せずに息を詰めた梓の前で、清音がそっと一歩前に出た。まるで梓を庇うように。


「この子には、教えてあります。守らせますから」


 お福はうなずき、にこやかな表情を崩さなかった。梓はうなずくほかなく、膝の裏に冷や汗を感じていた。


「清音様がおっしゃるなら、大丈夫じゃ」


 お福の背負った籠の中、小さな芋がこつりと当たる。

 梓はポケットのノートを指先で探り、紙の縁を撫でながら歩幅を合わせた。

 清音の声に守られた気がする。

 けれど頭の中では、あの言葉が離れなかった。


「……ねえ、さっきのにくゑ様って、何?」


 横を歩く清音のまなざしがわずかに揺れる。


「……まだ知らんでいい。知らん方が、楽だから」


「でも、みんな普通に言ってた。村を守ってるものなんでしょ?」


 梓は食い下がる。

 清音の歩みが一瞬止まり、声が硬くなる。


「梓……だめ」


 そして、深呼吸をして言い直した。


「……あなたはまだ、この村の人じゃない。知らん方がいいことがあるの。だからね――他の誰にも聞いちゃだめ」


 その声音には拒絶と同時に、守ろうとする必死さが混じっていた。

 梓は頷くしかなく、ノートの片隅に小さく書き残した。

 ――にくゑ 聞くな、と言われた。



 その週、学校は少しばかり騒がしかった。

 初等部の先生が休みになったせいで、一週間だけ高等部との合同授業が組まれた。狭い教室に机と椅子を詰め込み、年の違う子どもたちが肩を寄せ合って座っている。鉛筆の音や椅子を引く音がいつもより近くて、耳の奥にちくちく刺さるようだった。


 梓は清音の隣に腰を下ろし、周りを見渡す。

 前の席の美穂が、にっこり笑って振り返った。


「梓ちゃん、もう慣れたと? この教室、ぎゅうぎゅうじゃろ」


 梓もつられて笑った。


「うん。でも、東京の学校ももっと狭かったよ。朝の電車なんて、押しつぶされそうになるくらい」


 健太が目を丸くして身を乗り出す。手にした文庫本を膝に置いて。


「えっ、電車!? ほんとに押しつぶされるんか!」


 梓は頷いて、ちょっと肩をすくめた。


「立ったまま動けないくらい。駅員さんが後ろから押して、やっと乗れるの」


「すごかなぁ」


 健太は感心したように口を開けた。

 その横から、あゆみが身を寄せてきて、瞳を輝かせる。


「東京って、原宿ってとこあるんやろ? 雑誌で見たとよ! カラフルな服とか、かわいいカフェとか」


 梓は一瞬戸惑ったが、笑顔で返した。


「うん、あるよ。駅前はすごい人だらけ。歩くのも大変なくらい」

「行ってみたかねぇ」


 あゆみは頬を赤らめ、夢見るように言った。その顔はごく普通の同年代の女の子で、梓の胸の緊張が少しほどけた。


 だが次の瞬間、あゆみの表情は変わらないまま、声の調子だけが少し低くなった。


「でも、夜道は中央を歩かんとね」


 美穂が続ける。


「笑顔は三度じゃ。忘れちゃいけんとよ」


 健太も微笑を浮かべて大きく頷いた。


「笑顔を絶やさんことが一番大事なんじゃ。ま迷信のたぐいじゃけどな」


 三人とも同じ表情を浮かべて、当たり前のことのように口にする。

 そして、美穂が最後に小さく付け足した。


「……にくゑ様がおるけぇ」

「にくゑ様?」

「この村の守り神様、みたいなもんやね」


 神様、なんだと梓は思う。掟を決めたのもその神様なんだろうか?

 清音がちらりとこちらに視線をよこす。

 だが、すぐに元に戻った。この程度なら、にくゑ様について知っていてもいい、ということだろうか?


「もうすぐお祭りもあるんだよ。にくゑ様をたたえるお祭り」

「そうじゃ、そうじゃ、なんもないこの村じゃけんど、祭りはええよ」


 健太とあゆみが三回笑顔を浮かべながら話しかける。


「お祭り、あるんだね」

「そうじゃ、成人の祭りで一七の子供が主役じゃ。ちょうど僕らが主役じゃけん」


 得意げな顔で健太が胸を張った。


「この祭りが終わると、村の中では一人前ってされるんよ。そしたら外に出て行けるけん」

「それじゃ、皆村の外には出たことないの?」


 梓が聞くと、三人は少し寂しげに頷いた。


「じゃから、外から来た梓ちゃんには、色々聞きたいことがいっぱいあるとうよ」


 親しげによってくるあゆみに、少し戸惑う。

 梓は曖昧に笑い返しながら、ノートの端に書き込んだ。

 ――笑顔=掟。

 ――東京≠村。

 ――"にくゑ"?

 胸の奥に、ひやりとしたものが沈んでいく。


 その時、隣に座る清音が梓のノートを覗き込んだ。


「メモを取ってるのね」


 清音の声は小さく、でも興味深そうだった。


「うん……忘れないように」


 梓が答えると、清音は微かに微笑んだ。


「几帳面なのね。私は覚えてるだけだから」


 二人のやり取りを、斜め前に座るあゆみがじっと見つめていた。清音が梓にだけ見せる、特別な表情を見逃さずに。

 あゆみは自分のノートを開くと、鉛筆を握った。そして、梓の真似をするように、何かを書き始めた。

 でも、書いているのは文字ではなかった。

 それは名前。

 あゆみは「清音」という名前を、ただそれだけを何度も何度も繰り返し書いていた。

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