笑顔の輪郭
下校の時間。子どもたちの声でにぎやかな道を歩きながら、梓の心は温かかった。初等部の子どもたちが列をなして歩く。大きなカバンを背負い、背丈に合わない長靴をぱたぱた鳴らしながら。ひとりが転べば、周りがすぐに手を差し伸べる。笑い声が絶えない。
――自分もようやく、この輪の中に入れたのかもしれない。
学校からの帰り道、畑の脇のコンクリート縁に小さな影を見つけた。
子どもだった。小学生くらいの年頃だろうか。紺色のシャツに白いランドセル。膝を抱えて、しゃがみこんでいる。
「どうしたと? 矢野」
健太が声をかけてくる。彼にはこの子どもが見えていないのだろうか。周りを見ると、美穂もあゆみも子どもに気づいている様子はない。だが、子どもは確かにそこにしゃがんでいる。
「そこに……子どもが……」
「おらんじゃろ? 初等部の子は先に帰っとったやろ?」
梓の言葉に美穂が小首をかしげながら答えた。見えていない? 梓はしゃがんでいる子どもに目を凝らす。
――何かがおかしかった。
背中の形が、人の骨格とは違っていた。肩甲骨が肩よりも上に突き出しているように見える。それに、全身が濡れていた。空は晴れているのに、服の裾から水がぽたぽたと落ちている。
「……大丈夫?」
声をかけそうになって、梓ははっとした。子どもは動かない。胸も上下せず、息をしている気配がない。それでも水滴だけが途切れなく地面に落ちていた。
顔を上げさせてはいけない。
――そう直感した。人間の顔ではない気がしてならなかった。
凍り付いたように目が離せない。と、その時背後から暖かな声がかかった。
「よぉ、今日は学校で畑仕事じゃったそうじゃな、お疲れさま!」
通りの角にある小さな商店の店主。がっしりした顔に似合わない細い体の中年男性だ。笑みを湛えて梓に手を振っている。
反射的に店主に振り返り頭を下げる。そして振り返ると、そこにはもう子どもはいない。ただ濡れた跡だけが、道に残っていた。
「今日はようけ働いたのう。えらいえらい」
籠を抱えた年配の女性も声をかけてくる。
「梓ちゃん、顔色がよくなったじゃろ。村の空気が合っとるんじゃけぇな」
畑から戻る男の人が、鍬を肩に担いでにっこり笑った。
「弓子さんにそっくりじゃ。ほんまによう似とるとよ」
そのときだった――
子どもも大人も、通りすがる人々の笑顔が、一瞬だけ同じに見えた。
目尻の上がり方。口角の角度。年齢も性別も違うはずなのに、笑っている顔が判で押したように揃って見えた。
梓の足が止まった。心臓が小さく跳ねた。
少し後ろを歩いていたあゆみが、梓の様子に気づく。
「梓ちゃん、どうしたと?」
声をかけながら近づいてくるあゆみの表情も、他の村人たちと同じように見えた。同じ角度の笑顔、同じ優しさの仮面。
「みんな、梓ちゃんのこと大好きじゃからね」
あゆみの言葉に、微かな苦さが混じっている。それは嫉妬なのか、それとも別の感情なのか。
「清音様……清音も、梓ちゃんのことようけ気にかけとるし」
そう言いながら、あゆみの目が一瞬だけ鋭く光った。
瞬きをしてもう一度見渡す。あゆみは泥のついた顔で笑っているし、美穂は呆れ顔で眉を寄せている。健太は本を抱えて得意げに口を動かしている。店主は腰に手をあて、年配の女性は籠を揺らしながら穏やかに微笑んでいる。
それぞれに違う笑顔だった。きっと疲れて見間違えただけ。
けれど笑い声に混じって、胸が冷える。あの一瞬に見た同じ笑顔が、なぜか頭の隅にこびりついて離れなかった。そして、あゆみの言葉の奥に潜んでいた、名前のつけられない感情も。
◆
その夜、梓は母の遺品の小さなメモ帳を手に取った。最初の頁には母の字でこう書かれている。
『記録すること。忘れてしまいそうなことを、残すこと』
梓は新しいページを開き、鉛筆を握った。今日のことを書き留めておこう。昼間は何でもないと思えたことが、夜になると妙に気になってくる。
思い出すままに、梓はメモ帳に鉛筆を走らせ始めた。
◆
今日は学校で、畑の手伝いがあった。
村の子はみんな慣れてるみたいで、黙々と作業してたけど、私は軍手の中で手が汗だくになった。
教室の裏にある小さな畑。でも、ふしぎと陽が当たらなくて、空は晴れてるのに、畝の影がやけに濃くて、土の色も赤黒い。
私は、苗を植えるための穴を掘ってた。スコップが土に刺さるたび、ぬるっとした感触が手に伝わる。草の根が絡まっていて、引っ張るとぶちぶち音がした。
三つめの穴を掘っていたときだった。
土の中に、目があった。
――ほんとうに、「目」だった。
丸くて、白くて、土のあいだから、じっとこちらを見てた。まぶたがない。瞬きもしない。濡れていて、赤い筋が入っていた。
梓の心臓が、一回だけ、音を忘れた。
「……清音」
声が震えたのに、彼女はすぐ横で淡々と草をむしっていた。顔をあげて、「なに?」と少し首をかしげた。
「土の中に、……誰かの、目が──」
言いかけたとき、清音はふわりと笑った。声は澄んでいたけれど、どこか遠くから響いてくるように感じた。
「そう見えたのね。……根っこって、ときどき、人のかたちに似てるの」
「でも大丈夫。驚くことじゃないわ」
それだけ言って、また静かに作業を続ける。
梓はそっともう一度、穴をのぞいた。
――目は、なかった。かわりに、引きちぎったみたいな太い根が一本、ぬるりとそこにあった。
◆
――今日、みたものは何だったんだろう?
畑で。土の中から覗いた目。一瞬のことで、振り返れば形を変えて消えていた。気のせいにできるかもしれない。けれど忘れようとすると、逆に胸が冷たくなる。
それにあの子供。
帰り道で見た、しゃがんでいた子供。みんなには見えていなかった。背中の形がおかしくて、全身が濡れていた。
――見てはいけないもの。
――笑ってはいけない笑顔。
そして、あの一瞬の違和感。
村人たちの笑顔が、まったく同じに見えた瞬間。年齢も性別も違うのに、判で押したように揃っていた。
でもすぐに、それぞれ違う表情に戻った。
きっと疲れていたんだと思う。
それでも、なぜだろう。
あの同じ笑顔だけは、まぶたの裏に焼きついて離れない。
◆
梓はメモを綴る。
鉛筆の芯が紙を強く削り、黒い跡がにじむ。梓の手が震えているのを、自分でも感じていた。
外から吹き込む夜風が頁を揺らし、部屋の明かりが頼りなく揺れた。
――今夜、梓は初めて一人のこの家が怖いと感じていたのだった。