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にくゑ-本編-  作者: 匿名希望
第三章 村の日々
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笑顔の輪郭

 下校の時間。子どもたちの声でにぎやかな道を歩きながら、梓の心は温かかった。初等部の子どもたちが列をなして歩く。大きなカバンを背負い、背丈に合わない長靴をぱたぱた鳴らしながら。ひとりが転べば、周りがすぐに手を差し伸べる。笑い声が絶えない。


 ――自分もようやく、この輪の中に入れたのかもしれない。


 学校からの帰り道、畑の脇のコンクリート縁に小さな影を見つけた。


 子どもだった。小学生くらいの年頃だろうか。紺色のシャツに白いランドセル。膝を抱えて、しゃがみこんでいる。


「どうしたと? 矢野」


 健太が声をかけてくる。彼にはこの子どもが見えていないのだろうか。周りを見ると、美穂もあゆみも子どもに気づいている様子はない。だが、子どもは確かにそこにしゃがんでいる。


「そこに……子どもが……」


「おらんじゃろ? 初等部の子は先に帰っとったやろ?」


 梓の言葉に美穂が小首をかしげながら答えた。見えていない? 梓はしゃがんでいる子どもに目を凝らす。


 ――何かがおかしかった。


 背中の形が、人の骨格とは違っていた。肩甲骨が肩よりも上に突き出しているように見える。それに、全身が濡れていた。空は晴れているのに、服の裾から水がぽたぽたと落ちている。


「……大丈夫?」


 声をかけそうになって、梓ははっとした。子どもは動かない。胸も上下せず、息をしている気配がない。それでも水滴だけが途切れなく地面に落ちていた。


 顔を上げさせてはいけない。


 ――そう直感した。人間の顔ではない気がしてならなかった。


 凍り付いたように目が離せない。と、その時背後から暖かな声がかかった。


「よぉ、今日は学校で畑仕事じゃったそうじゃな、お疲れさま!」


 通りの角にある小さな商店の店主。がっしりした顔に似合わない細い体の中年男性だ。笑みを湛えて梓に手を振っている。


 反射的に店主に振り返り頭を下げる。そして振り返ると、そこにはもう子どもはいない。ただ濡れた跡だけが、道に残っていた。


「今日はようけ働いたのう。えらいえらい」


 籠を抱えた年配の女性も声をかけてくる。


「梓ちゃん、顔色がよくなったじゃろ。村の空気が合っとるんじゃけぇな」


 畑から戻る男の人が、鍬を肩に担いでにっこり笑った。


「弓子さんにそっくりじゃ。ほんまによう似とるとよ」


 そのときだった――


 子どもも大人も、通りすがる人々の笑顔が、一瞬だけ同じに見えた。

 目尻の上がり方。口角の角度。年齢も性別も違うはずなのに、笑っている顔が判で押したように揃って見えた。


 梓の足が止まった。心臓が小さく跳ねた。


 少し後ろを歩いていたあゆみが、梓の様子に気づく。


「梓ちゃん、どうしたと?」


 声をかけながら近づいてくるあゆみの表情も、他の村人たちと同じように見えた。同じ角度の笑顔、同じ優しさの仮面。


「みんな、梓ちゃんのこと大好きじゃからね」


 あゆみの言葉に、微かな苦さが混じっている。それは嫉妬なのか、それとも別の感情なのか。


「清音様……清音も、梓ちゃんのことようけ気にかけとるし」


 そう言いながら、あゆみの目が一瞬だけ鋭く光った。


 瞬きをしてもう一度見渡す。あゆみは泥のついた顔で笑っているし、美穂は呆れ顔で眉を寄せている。健太は本を抱えて得意げに口を動かしている。店主は腰に手をあて、年配の女性は籠を揺らしながら穏やかに微笑んでいる。


 それぞれに違う笑顔だった。きっと疲れて見間違えただけ。


 けれど笑い声に混じって、胸が冷える。あの一瞬に見た同じ笑顔が、なぜか頭の隅にこびりついて離れなかった。そして、あゆみの言葉の奥に潜んでいた、名前のつけられない感情も。



 その夜、梓は母の遺品の小さなメモ帳を手に取った。最初の頁には母の字でこう書かれている。


 『記録すること。忘れてしまいそうなことを、残すこと』


 梓は新しいページを開き、鉛筆を握った。今日のことを書き留めておこう。昼間は何でもないと思えたことが、夜になると妙に気になってくる。

 思い出すままに、梓はメモ帳に鉛筆を走らせ始めた。



 今日は学校で、畑の手伝いがあった。

 村の子はみんな慣れてるみたいで、黙々と作業してたけど、私は軍手の中で手が汗だくになった。

 教室の裏にある小さな畑。でも、ふしぎと陽が当たらなくて、空は晴れてるのに、畝の影がやけに濃くて、土の色も赤黒い。

 私は、苗を植えるための穴を掘ってた。スコップが土に刺さるたび、ぬるっとした感触が手に伝わる。草の根が絡まっていて、引っ張るとぶちぶち音がした。


 三つめの穴を掘っていたときだった。

 土の中に、目があった。


 ――ほんとうに、「目」だった。


 丸くて、白くて、土のあいだから、じっとこちらを見てた。まぶたがない。瞬きもしない。濡れていて、赤い筋が入っていた。

 梓の心臓が、一回だけ、音を忘れた。


「……清音」


 声が震えたのに、彼女はすぐ横で淡々と草をむしっていた。顔をあげて、「なに?」と少し首をかしげた。


「土の中に、……誰かの、目が──」


 言いかけたとき、清音はふわりと笑った。声は澄んでいたけれど、どこか遠くから響いてくるように感じた。


「そう見えたのね。……根っこって、ときどき、人のかたちに似てるの」

「でも大丈夫。驚くことじゃないわ」


 それだけ言って、また静かに作業を続ける。

 梓はそっともう一度、穴をのぞいた。


 ――目は、なかった。かわりに、引きちぎったみたいな太い根が一本、ぬるりとそこにあった。



 ――今日、みたものは何だったんだろう?

 畑で。土の中から覗いた目。一瞬のことで、振り返れば形を変えて消えていた。気のせいにできるかもしれない。けれど忘れようとすると、逆に胸が冷たくなる。


 それにあの子供。

 帰り道で見た、しゃがんでいた子供。みんなには見えていなかった。背中の形がおかしくて、全身が濡れていた。


 ――見てはいけないもの。

 ――笑ってはいけない笑顔。


 そして、あの一瞬の違和感。

 村人たちの笑顔が、まったく同じに見えた瞬間。年齢も性別も違うのに、判で押したように揃っていた。


 でもすぐに、それぞれ違う表情に戻った。

 きっと疲れていたんだと思う。


 それでも、なぜだろう。

 あの同じ笑顔だけは、まぶたの裏に焼きついて離れない。



 梓はメモを綴る。

 鉛筆の芯が紙を強く削り、黒い跡がにじむ。梓の手が震えているのを、自分でも感じていた。

 外から吹き込む夜風が頁を揺らし、部屋の明かりが頼りなく揺れた。


 ――今夜、梓は初めて一人のこの家が怖いと感じていたのだった。


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