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にくゑ-本編-  作者: 匿名希望
第三章 村の日々
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村の日々

 診療所を出ると、学校へ向かう道すがら、次々と声をかけられた。


「梓ちゃん、体の調子はどうじゃった?」八百屋の前に立つおばあさんが手を振る。


「先生は優しい方じゃろう? 何か困ったことがあったらいつでも言いんさいよ」

 雑貨店の店主が顔を出す。


「お母さんの弓子さんにそっくりじゃねえ。きっと元気に育ってくれるとよ」

 通りがかりの女性が籠を抱えたまま立ち止まる。


 一人、また一人と声をかけてくる村人たち。みんな笑顔で、親切で、梓のことを本当に気にかけてくれている。その温かさは確かで、嘘ではなかった。

 だからこそ、胸の奥に小さなざわめきが残る。


 昨日の朝のことを思い出す。玄関に置かれていた籠。菜っ葉と茄子、それから米袋。葉の裏にはまだ露が残り、泥も乾ききっていなかった。誰かが、自分が目覚めるよりもずっと前に手を動かしてくれていた。その重みは確かで、込められた労力も気持ちも、籠を持ち上げただけで手のひらに伝わってきた。


 母の古い日記にあった一文を思い出す。


 ――笑顔で与えるのが、この村の礼儀。


 なぜだろう。この親切は、まるで決められた手順のように感じられる。頼む前に親切がやって来る。そんなふうにして、この家にいる自分の居場所までも、外から静かに決められてしまうような気がした。



 学校に着くと、昨日の友人たちが手を振っていた。


「あずさちゃん、おはよう! 検診はどうやったと?」


 あゆみが小走りに駆け寄り、両手で梓の手をぎゅっと握ってくる。その体温がじかに伝わって、梓の頬がほんのり暖まった。あゆみの手は小さくて、けれど思いのほか力強くて、握り返さずにはいられなかった。


「先生、やさしかったじゃろ? なんか困っとったら、すぐ言うてな」


 美穂が委員長らしい調子で尋ねながら、何の躊躇もなく鞄からハンカチを取り出して、梓の袖についた埃をそっと払ってくれる。その手つきは慣れたもので、きっと普段から誰かの世話を焼いているのだろう。

 梓は「ありがとう」と小さく呟いた。


「吉川先生は、ええ人とよ。僕も風邪んとき、すごう親切にしてもろたけぇな」


 健太は分厚い本を抱えながら言って、ためらいがちに文庫本を差し出した。


「これ……東京の作家の短編集。好きなんや。もしよければ、読んでみんさい」


 受け取ってページをめくると、インクの匂いが懐かしく立ち上る。胸の奥が、温まってゆく。


「ありがとう」


 梓が小さな声で礼を言うと、健太の耳は見る見る赤くなった。その様子があまりにも純粋で、梓は思わず微笑んでしまう。


 あゆみはそんな二人を見て「わたしも何か貸したい!」と言いながら、鞄から小さなメモ帳を取り出した。


「これ、かわいい付箋がいっぱい付いとるんよ。勉強のとき便利とよ!」


 表紙に散りばめられた小さな花柄の付箋が教室の光を受けてきらめいて、あゆみの笑顔も弾んだ。


 その輪の中に自分もいる。梓はふと気づいて、胸の奥がじんと熱くなった。東京の生活で凍り付いていた心臓が、少しずつ、本当に少しずつ動き出している。そのことがこんなにも嬉しいなんて、思ってもみなかった。



 午後の授業は、学校から少し下った川べりの共同農地で行われた。

 都会の学校ではまずない、農業体験の授業だ。

 山の斜面を段々に切り拓いた畑一面に、背の高いトウモロコシが整然と並び、胡瓜の棚が風に静かに揺れている。赤く熟れたトマトが鈴なりになり、草いきれと青い匂いが混じり合っていた。


 初等部から高等部まで、全校生徒三十人ほどが一斉に集まる。教師たちが列を整え、農家の藤吉さんが朗らかに声を響かせた。


「おう、今日はわしの畑でうんと働いて、しっかり汗かいて帰りんさい!」



 畑の前に教師たちが並んで声を上げる。

 最初に声を張ったのは、初等部の松井先生だった。麦わら帽子の下で丸眼鏡が光り、穏やかに手を振る。


「ほれ、並んで並んで! 今日はええ天気じゃけぇ、ええ実習になるで」


 その優しい調子に、子どもたちも自然と笑顔で列を作る。

 隣で、大槻先生が胸を張った。日に焼けた腕を大きく振り上げ、運動場の指導者のような勢いで声を響かせる。


「列は崩さんと! 畝は真っ直ぐ歩きんさい!」


 その迫力に、ふざけていた中等部の子たちも思わず背筋を伸ばした。

 最後に口を開いたのは、高等部の藤森先生だった。白髪まじりの頭を少し傾け、黒縁の眼鏡越しに静かに生徒を見渡す。


「……説明は一度しか言わんからな」


 低く抑えた声に、笑い声まで吸い込まれるように消えていった。

 そしてもう一人、村の農家から指導に来た藤吉さん。


「わしは藤吉言うてな。新ジャガ掘りなら任せとけ! ほれ、腰据えて掘ったら、ごろごろ出てくるけぇ! 小さくても甘うて美味しいんじゃ!」


 四十代半ば、日に焼けた皮膚は革のように分厚く、腕には血管が浮いている。腰には手ぬぐいを差し込み、古びた麦藁帽子のつばをくいと上げ、歯を見せて笑った。


 都会ではついぞ体験することのない、土に近い授業。梓は初めての体験に、胸の高鳴りを抑えることができなかった。



「見て! おっきい!」


 初等部の子どもたちはトウモロコシの列へ。背より高い葉をかき分けて、ずっしり実った穂を抱きしめると歓声が上がった。黄色い粒が陽に光り、抱えた子の顔も輝いている。


 中等部は胡瓜の棚へ。細い指で蔓をつまみ、ぽきんと折れると青い匂いが漂った。


「冷たうて、しゃきしゃきしとるじゃろ!」


 その場でかじり、滴る水分を笑顔でぬぐう声が重なった。


 赤く熟れたトマトも籠に盛られ、宝石のように光っている。夏の陽射しに照らされ、生徒たちは汗を流しながらも楽しそうに収穫作業に励んでいく。



 梓たち高等部は新ジャガ掘りを任された。


「あずさちゃん、こっち一緒にやろうと!」


 あゆみが軍手をはめた手を引き、無邪気に笑いながら泥をはね飛ばす。


「見て見て、競争やで!」


 顔まで泥を飛ばして、屈託なく叫ぶ。その笑顔があまりにも眩しくて、梓も思わず笑い声をあげてしまった。


「こっち側は重たいじゃろ? 僕が支えるけぇ」


 健太は額に汗をにじませ、図鑑で覚えた知識を口にしながら、不器用にスコップを支えてくれる。


「新ジャガは小さいけど、本で読んだより甘いんじゃ!」


「梓ちゃん、こっちに力をかけてな。……そうそう、上手になっとるとよ」


 美穂は頼もしい声で指示を出し、掘り出した小ぶりな芋を泥からきれいに拭って、籠に丁寧に並べていく。その世話焼きが妙に嬉しくて、梓の胸が温かくなった。


 気づけば、自分の頬や髪まで泥がついている。あゆみがわざと泥水を跳ねかけ、「ひゃー!」と叫び、周りは大笑い。梓もとうとう声をあげて笑った。


 東京にいた頃にはなかった笑い方。胸の奥が熱くて、涙が出そうなくらい楽しい。


 少し離れた場所で、清音が静かにその光景を見守っていた。いつもの無表情に見える顔が、ほんのわずかに和らいでいる。風に揺れる髪越しの瞳は、まるで梓の笑い声を胸にしまうように、静かに光っていた。


 泥だらけの手で額の汗を拭ったとき、清音がそっと近づいてきた。


「……汚れてる」


 白いハンカチを取り出し、梓の頬についた泥を優しくぬぐってくれる。冷たい布越しに感じる指の感触に、梓の心臓がトクンとひとつ鳴った。


「ありがとう……」


 赤面するのを自覚して、さらに赤くなっていく自分の頬を感じながら、震える声で礼を言う。清音はただ小さく微笑んだ。梓は視線を逸らせずにいた。彼女の指先が触れるたび、心臓が跳ねて呼吸が浅くなる。笑い声に混じって、胸の奥で別の熱がひそかに燃えていた。


 少し離れた場所で、あゆみがその光景を見つめていた。手にしたスコップが、いつの間にか止まっている。


「清音、梓ちゃんばっかり構うじゃないと」


 あゆみの声は明るかったが、どこか棘を含んでいた。美穂と健太は気づかない程度の、微かな変化だった。


「みんなで一緒に作業したほうが楽しいとよ」


 そう言いながら、あゆみは無理に笑顔を作る。でも、その目だけは笑っていなかった。



 三つめの穴を掘ったとき――

 梓の指先が、冷たいものに触れた。


 土の中で、白い球体が覗いている。それは瞬きもせず、赤い筋を走らせながら、じっとこちらを見つめていた。


 心臓が一瞬、音を忘れた。


「……清音」


 隣で黙々と草をむしっていた清音に、梓は震え声で呼びかけた。


「なに?」


 清音は平然と覗き込み、ふっと笑った。


「根っこよ。ときどき人の顔に見えることがあるの。大丈夫、驚くことじゃないわ」


 言われて見直すと、そこにはただの小さな新ジャガの塊があった。切り裂かれた根がにゅるりと伸びているだけ。


 背後であゆみが「見て! こんな大きいの出たとよ!」と叫び、健太が図鑑を広げて「やっぱり本で読んだより大きいじゃろ」と品種を確かめ、美穂が土を払って籠に並べていく。笑い声が重なり、梓の胸も再び温かく揺れた。



 籠いっぱいの野菜を抱えて、子どもたちの笑い声が響く。トマトをかじれば赤い果汁が唇を濡らし、胡瓜は驚くほどみずみずしい。


「冷たうてうまいじゃろ!」


 あゆみが声を張り、健太も「やっぱ本で読んだ味よりずっとすごいとよ」と笑い、美穂も「みんなようけ頑張ったけぇな」と肩を叩く。


 梓はその輪の中で息を弾ませながら笑った。


 ――この村で、自分はもう一人ではない。


 けれど土の中で一瞬見た白い球体の冷たさだけは、指先にぬめりのように残り続けていた。

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