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にくゑ-本編-  作者: 匿名希望
第二章 吉川医師
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そして現在

「あの人の具合はどうでしょう?」

「驚く程順調に回復してますよ、もう大丈夫です」


 心配そうに尋ねる千鶴に、吉川は笑顔で答えた。


 榊商店とは隣り合っているということもあり、あれから頻繁に主人の見舞いに来る千鶴と会話を交わす。

 榊の回復力は本当に驚くしかなかった。


 甲斐甲斐しく主人の面倒を見る千鶴に目をやる。

 千鶴は村の女たちと違う。笑うと唇の左が先に動き、人懐こさを感じさせる――村人たちの揃った笑顔にはない、素直な感情がそこにあった。


 彼女は数年前にこの村へ嫁ぎ、榊商店を夫と二人で切り盛りしてきたと聞く。まだ二十代の終わり。本来なら、都会で華やかに暮らしていてもおかしくない年頃だ。


 千鶴の傷は浅く、その日のうちに帰宅できた。

 だが榊の方は違った。肋骨の骨折と内出血——吉川の見立てでは一カ月は安静が必要な重傷のはずだった。


 ところが患者はみるみる回復していく。一週間で起き上がり、二週間後には退院可能になった。

 吉川には理解できなかったが、村長に尋ねると、村ではよくあることだという。


「村に伝わる薬がありましてな」


 その薬を見せて欲しいと頼んだが、断られた。


「先生がもっと村に馴染んでくれるか、大怪我でもしたらお渡ししますけぇの」


 退院の日、夫婦は並んで深々と頭を下げた。


「先生がいなければ……私たちは……」

「わしらは……一生、忘れんけぇ……」


 二人の声は震えながらも確かな温もりを帯びていた。

 吉川は静かに答えた。


「当然のことです。それが仕事ですから」


 けれど心の奥では、久しく味わえなかった充実感が灯っていた。

 助けられた命。失わずに済んだ家族。

 ――我知らず笑みを浮かべ、吉川は心からこの村に来れたことを感謝したのだった。



 しかし、それは長くは続かなかった。

 一か月後の朝。

 千鶴がひとりで診療所を訪れた。顔は青ざめ、目は赤く腫れていた。


「……主人が、いなくなったんです」


 昨夜までは隣に眠っていた夫が、朝には忽然と消えていたという。布団は乱れたまま、外には足跡すら残っていなかった。


 村人たちは口を揃えた。

「山に行ったんじゃろう」「そのうち戻るけぇ」

 皆、同じ形の笑顔を三度浮かべて。


 だが、榊は帰らなかった。

 千鶴は店を一人で切り盛りしながら、夫の帰りを信じて待ち続けた。


 そして隣に住む医師の世話を、まるで家族のように焼くようになったのだった。



 記憶の靄が薄れていく。


 吉川は試験管を机に置き、窓の外に視線を向けた。梓の姿はもう見えない。坂道の向こうに消えて、静寂だけが残っている。


 東京から来た少女。母を亡くし、一人でこの村にやってきた。自分と同じように。


 違うのは、彼女がまだ十七歳だということ。そして、これから起こることを何も知らないということ。


 隣から、食器を洗う音が聞こえてくる。千鶴が朝食の後片付けをしているのだろう。いつものように、吉川の分も作って、食べられずに冷めるのを待っているに違いない。


 扉を開けて外に出る。榊商店の入り口で、千鶴がエプロンを手で払っていた。


「あ、先生。診察は終わりましたか?」


「ええ。ただの健康診断でしたしね」


「そうですか。あの子、梓ちゃんでしたっけ。可愛らしい方ですね」


 千鶴の笑顔は穏やかだった。いつものように、心配そうでもあり、安心したようでもある、複雑な表情。


「千鶴さん」


「はい?」


 吉川は言いかけて、やめた。何を言おうとしていたのか、自分でもよくわからなかった。


「いえ……いつも、ありがとうございます」


「何をおっしゃいます」


 千鶴は困ったように首を振る。


「私の方こそ。先生がいらしてくださって……」


 言葉を濁す。夫のことを思い出しているのだろう。彼がいなくなってから、もうすぐ一年になる。


 吉川は千鶴の横顔を見つめた。まだ若い。本来なら、夫と一緒に店を切り盛りし、子供を育てて、普通の幸せな生活を送っているはずだった。


 それが奪われたのは、村の何かによってなのか。それとも、単なる偶然だったのか。


 診療所に戻り、カルテ棚の前に立つ。梓のカルテを新しく作らなければならない。名前を書き、生年月日を記入し、今日の診察内容をまとめる。


 血液検査の結果は、数日後に判明する。特に異常はなさそうだったが検査結果次第では再検査になるだろう。


 引き出しを開けると、隅に一枚の名刺が押し込まれていた。数年前、繁華街の飲み屋で彼から受け取ったものだ。職業、名前、住所と電話番号だけが書かれたシンプルな名刺。その軽薄さとは裏腹に、紙の手触りはいつも重さを帯びている。


 引き出しを閉め、カルテに視線を戻す。

 千鶴が淹れてくれたお茶を飲みながら、吉川は考えた。


 この村に来て一年を越えた。最初は静かで平和な場所だと思っていた。村人は親切で、自然は美しく、都市の喧騒から離れて医療に専念できる理想的な環境に見えた。


 だが、時々感じる違和感。村人たちの笑顔が、どこか型にはまったように見える瞬間。子供たちの目の奥に宿る、年齢にそぐわない影。

 そして、村のしきたり。


 吉川は窓の外を見た。午後の陽射しが、榊商店の看板を照らしている。千鶴の影が、店の奥で動いているのが見えた。


 彼女は夫の帰りを信じて待っている。だが、もし彼が二度と戻らないとしたら。もし、この村に何か恐ろしい秘密が隠されているとしたら。


 その時、自分は何ができるだろうか。

 医師として。一人の人間として。そして、この村で生きていくよそ者として。


 胸の奥で、言葉が静かに形を取った。そして、梓の後ろ姿を思い浮かべながら、もう一つの言葉が加わった。


 ―――守らなければならないものがある。


 夕暮れの診療所に、静寂が戻ってきた。だが、その静寂の奥に、何かが蠢いているような気配を、吉川は感じ取っていた。



◆◆◆

あとがき。


吉川先生の章でした。

まだ全然怖くないですよー!


ちなみに千鶴さんはめぞん一刻の響子さんのイメージですね!

先生に眼鏡をかけさせるかどうか、最後まで迷いましたがなしに。

したつもりが掛けてる!? 掛けたり掛けなかったりしてます。

眼鏡白衣って、需要は絶対あると、無意識で書いてるっぽいです。




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