過去Ⅱ
それから数ヶ月後、吉川は病院を去った。
形式上は「自己都合退職」とされたが、実際は退く以外になかった。削られた数字と修正印にまみれたカルテが山のように積まれた机を、背を向けて後にした。
都心の喧騒の中で次の勤め先を探す気力はもう残っていなかった。
その時思い出したのは、友人の言葉だった。――虚木。珍しい名字。その発祥の村が無医村となり、国の支援を受けて医師を求めている。
雪が降りしきる日、吉川はその村に降り立った。
バスの扉が閉まり、重たいエンジン音が山に吸い込まれていく。残されたのは、濡れたアスファルトと、白一色に閉ざされた静寂だけだった。
キャリーケースの取っ手は冷たく、金属の芯が骨に響いた。白衣と器具を詰め込んだ重みは、過去から背負ってきた罪そのもののように感じられた。
停留所の屋根の外で、三人がこちらを見ていた。年老いた女と、若い男と、壮年の男。三人とも笑っていた。雪が睫毛に積もり、表情の細部を覆い隠している。残るのは同じ角度に吊り上がった笑みの形だけ。
「ようおいでなさった。わしが村長の虚木清一じゃ」
「吉川です。本日から診療所を担当します。お世話になります」
声は柔らかかったが、型どおりの響きがあった。老婆が顔をほころばせる。
「ほんにありがたいことよ。冬は転ぶもんがおるけぇなあ」
「子供らも、風邪ひくんです。先生がおってくださるのが一番心強い」
若者の言葉に続いて、三人の吐く息が同じ白さで揺れた。
歩き出す途中で、村長がふと立ち止まり、振り返った。
「先生、村には昔からのしきたりがある。難しいことではない。ただ――夜道は中央を歩くこと。端は水が流れとるけぇな。それと、人に会うたら、三度は笑みを交わすこと。笑顔は心を守るけぇ」
老婆も若者も、同じ笑顔で頷いた。
その言葉に不自然なほどの調和があり、吉川の胸に冷たいものが落ちた。
坂を下り、黒ずんだ木の外壁を持つ診療所に辿り着くと、村長が鍵束を手渡した。
倉庫を開けると、金属と油と湿った木の匂いが押し寄せる。壁際に発電機が置かれ、その隣には赤いタンクが二つ並んでいた。キャップを少し緩めると、油の甘く鉄を帯びた匂いが強く立ちのぼり、喉の奥が縮んだ。
「燃料は十分に?」
「当分は持つ。雪の間は車が入りにくいけぇ、節約はしたほうがええ。追加はわしが段取る」
ありがたい。
停電が多い村だそうだ。検体は小型遠心機で分離し、発電機があれば冷蔵も保てる。
吉川は頷きながら、掌に残った冷えを感じた。
火は敵にも味方にもなる。油の匂いが、そう告げているように思えた。
◆
それは雪解けを待つ前の、冷え込みの厳しい朝だった。
「榊の旦那が、木に押し潰されたんじゃ!」
血相を変えた村人が診療所に飛び込んできた。
榊は商店の主人だが、この村では男衆が持ち回りで伐採を担う決まりになっていた。今日は彼の番で、数人の村人と山に入っていたのだという。
吉川は反射的に救急バッグを掴んで駆け出した。坂道を下り、森の方へと急ぐ。吐く息が凍りつき、雪の上に白い靄を残した。
森の奥では、伐採中の大木が倒れ、男の胸を押し潰していた。その傍らで、女が必死に夫を支えていた。髪は乱れ、頬には枝で裂かれた傷から血が筋を作っていた。指先まで真っ赤に染め、声にならない声で泣き叫んでいる。
「助けて……! お願いです!」
女――榊千鶴の声だった。外から嫁いできた彼女の標準語は、この山奥で異質に響いた。
吉川は膝をつき、男の呼吸と脈を確認した。胸郭は歪に陥没し、浅い呼吸がかろうじて続いている。
「……千鶴……」
掠れた声が夫の口から洩れた。方言が混じり、途切れ途切れに響く。
「わしは……もう、あかんか……」
「まだ助かる。落ち着け!」
吉川は短く告げ、応急処置に移った。酸素を当て、胸部を固定し、周囲の村人に倒木を持ち上げさせる。その間も千鶴は夫の手を握り締め、涙で濡れた頬を彼の胸に埋めていた。
やっとの思いで診療所に運び込むと、夜を徹しての治療が始まった。
男は肋骨の複雑骨折と軽い内出血。吉川は止血とドレーン処置を行い、呼吸を安定させた。
千鶴も腕と脚に深い裂傷を負っていた。麻酔を打つと、彼女はわずかに眉をひそめ、震える唇で夫の名を呼んだ。
「あなた……がんばって……」
縫合の針が皮膚を通るたびに、吉川は指先に緊張を溜め込んだ。久しぶりに命を救うために全力を尽くす。
――夜明け前、男がうめき声をあげ、目を開けた。
「……わしは……」
「大丈夫です。命に別状はありません」
吉川が答えると、男の視線は隣のベッドへと動いた。
「千鶴は……?」
「奥さんも無事です。あなたを助けようとして怪我をされましたが、傷は浅い」
男の目に涙がにじんだ。
「ほんまに……ありがとぅございます……」
朝の光の中で、千鶴も目を覚ました。最初に発したのは夫の名だった。
「あなた!」
視線が確かに交わり、二人の目から同時に涙が溢れた。
その横顔を見ながら、吉川は思った。
本当に二人を助けられて良かった。
吉川は、医師としての自分を久々に褒めたのだった。