過去Ⅰ
東京から来た少女……か。
診療所の静けさが、ふいに病院の喧噪と蛍光灯の白に塗り替えられる。梓の影を追った意識は、数年前のあの日の病室へと戻っていった。
◆
蛍光灯の白い光が、病院の廊下を均一に照らしていた。昼も夜も変わらない人工の明るさ。消毒薬の匂いと、乾いたゴム手袋の匂いが空気に混じっている。
病室は窓を閉め切っていた。蛍光灯の白に塗りつぶされた空間で、モニターの規則正しい電子音だけが響いている。消毒薬の匂いがしみついた乾いた空気は、吸い込むたびに喉の奥をひりつかせた。
壁際には点滴スタンドと金属のワゴン。カーテンの隙間からは、隣のベッドの気配がわずかに漏れてくる。
その一角に、少女が横たわっていた。
痩せすぎた肩はシーツに沈み、頬の線は鋭い。十代の半ばだろう。髪が汗で額に貼りつき、呼吸のたびにかすかに揺れる。
その瞳だけが異様に大きく、真っ直ぐに吉川を射抜いてきた。
「……生きたいです」
声は糸のように細かった。だが言葉はかすむことなく、空気を切り裂くように響いた。
吉川は頷いた。頷くしかなかった。触れた皮膚は氷のように冷たく、指先で探る脈は、ときどき抜け落ちるように消えていく。血液検査の数値も悪化の一途をたどり、数字の列が死の影を裏打ちしていた
上席医が白衣の裾を払って入ってくる。
「想定の範囲だ。経過観察。痛み止めを調整して、朝まで様子を見よう」
「検査を追加しましょう。数値が合いません」
「若いの、そうやって何でも疑っていたらキリがない。家族も不安になる」
吉川は口を閉じた。舌の裏に血の味がした。
カルテに打つ文字が小さくなる。点滴速度、体温、酸素濃度、脈拍。数字は書ける。数字は感情を持たない。けれど数字は嘘もつかない。
夜明け前、少女の目が一度だけ大きく開いた。
警報音が鳴り、止む。別の音が鳴り、止む。看護師が走ってきて、吉川が呼吸を確認し、上席医が短く指示を出す。動きは意味を持っていたが、時間は意味を失っていた。
朝に間に合わなかった。
廊下のベンチで、少女の母親が両手を膝に置いたままこちらを見上げた。顔は泣き腫れているのに、声はかすれて乾いていた。
「あなたは、医者でしょうッ!」
吉川は頭を下げた。下げた姿勢のまま言葉が見つからず、背中の方から自分の呼吸の音だけが聞こえた。
その日の午後、上席医が診察室の扉を閉めた。
「記録は整えておけ。判断は正しかった、そう書けるだろう」
「……時刻が合いません」
「合うようにすればいい。臨床は現場なんだ。紙の上の時間は現実とは違う」
指示は短く、声は低かった。
ペンを持つと、手の甲の血管が自分のものではないみたいに浮いた。数字の端を削り、時刻を寄せ、行間に小さな言葉を足す。紙は何も抵抗しない。
最後の欄に、患者の名字があった。虚木。珍しいと一瞬思い、次に進んだ。
◆
その夜、吉川は携帯を握りしめ、指先が汗ばむのを感じていた。誰かに心を打ち明けなければ、胸の奥で何かが潰れてしまう――そう思って、半ば衝動的に番号を押した。
呼び出し音のあと、軽い声が返ってきた。
「よぉ、久しぶり」
数年ぶりに聞く声だった。高校時代から何かと肩を並べてきた友人。いつも飄々としていて、人の心を突く時でさえ笑っているような男。
仕事を終えた吉川は、紺のスーツ姿で街を歩く。肩口に皺が寄り、きちんと締めたネクタイがかえって息苦しさを語っている。
待ち合わせたのは繁華街の片隅の飲み屋だった。ガラス戸を引くと、油と煙草の匂いが混じり合い、カウンターの上で氷の当たる音が絶え間なく響いていた。昼夜の感覚を失った病院の白とは正反対のざわめきが、吉川の耳を覆った。
「あんまり、待たせるなよな」
カロン、と言葉と共に掲げたグラスから、氷が当たる澄んだ音が響く。
既にカウンターに腰掛けた彼は、吉川とは対照的にジャケットを椅子の背に引っかけ、シャツのボタンを二つ外したままカウンターに肘をついていた。
取材帰りなのか、鞄が足元に転がり、原稿用紙の角が覗いている。飄々とした笑みを浮かべ、煙草の匂いをまとっているのに、なぜか人を安心させる男だった。
彼はカウンターの隣を吉川のために確保していたようだった。空いている席に、力なく腰掛ける。彼はグラスを指で転がしながら、吉川に片目を上げて笑みを見せた。
信用できる。愛すべき友人だ。
――もっとも、高校時代に俺の初恋をさらっていった盗人でもあるが。
「そういえば引っ越したんだ。これ新しい名刺な」
「引っ越した? 彼女とは?」
「察しろよ」
そうか、彼女とは別れてマンションを追い出されたんだな。
吉川は心の中で少しだけ同情する。
「……やつれたな。白衣が似合わん顔になってるぞ」
吉川の顔を見た彼が真顔で呟く。
吉川は笑い返せなかった。深く座り、目の前のグラスを握りしめると、氷が小さく鳴った。
「……助けられたはずの患者を、死なせた」
彼はすぐには言葉を返さなかった。グラスを揺らし、ただ聞く姿勢を示す。
吉川は言葉を止められなくなっていた。
「追加検査をすべきだと口にしただけで、“若いのは黙ってろ”と押さえ込まれた。夜明け前に容態が急変した時も、上席は“想定の範囲だ”の一点張りだった。あの子は――“生きたいです”って、はっきり言ったんだ」
指先がグラスを握り締め、氷が小さく悲鳴を上げた。
「それでもカルテには“判断は正しかった”と書けと命じられた。数字を削り、時刻を寄せ、行間に言葉を足して……紙を現実に合わせるんじゃない。現実を紙に従わせたんだ」
息が荒くなっているのを自覚しながら、吉川は続けた。
「結局、責任を取らされたのは俺だった。院内政治ってやつだ。上は無傷で、俺だけが外に弾き出された」
友人は煙を吐き、細い目で吉川を見た。
「で、なんて名前だったんだ、その子」
吉川はしばらく黙っていた。氷の解ける音だけが二人の間に落ちていた。
「……」
「お前だけは、その名前を覚えていろ。絶対に忘れちゃいけないだろ」
「ああ……わかってる。虚木……虚木真弓さん、だ。まだ高校生だった」
「虚木、変わった名字だな」
友人の声には淡い響きがあった。軽口のようでいて、どこか確かめるような響き。
「その名字、昔俺の仕事関係で見た覚えがある。奇妙な掟を守る村が発祥の名字だった」
「……村」
「ああ、そういえば、そこは無医村だそうだ」
「医者が……いないのか」
「だな、ちなみに移住には国の支援もあるそうだぞ」
「……」
「……お前みたいな医者なら歓迎されるかもな」
吉川はグラスの底を見つめた。氷が溶け、水面が揺れていた。
この街には、もう居場所がない。
助けられたはずの命を失った自分が、まだ医者でいる意味を試すなら――。
決意の言葉はまだ口に出せなかった。だが胸の奥で、火種のように熱を持ちはじめていた。