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にくゑ-本編-  作者: 匿名希望
第二章 吉川医師
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過去Ⅰ

 東京から来た少女……か。


 診療所の静けさが、ふいに病院の喧噪と蛍光灯の白に塗り替えられる。梓の影を追った意識は、数年前のあの日の病室へと戻っていった。



 蛍光灯の白い光が、病院の廊下を均一に照らしていた。昼も夜も変わらない人工の明るさ。消毒薬の匂いと、乾いたゴム手袋の匂いが空気に混じっている。


 病室は窓を閉め切っていた。蛍光灯の白に塗りつぶされた空間で、モニターの規則正しい電子音だけが響いている。消毒薬の匂いがしみついた乾いた空気は、吸い込むたびに喉の奥をひりつかせた。


 壁際には点滴スタンドと金属のワゴン。カーテンの隙間からは、隣のベッドの気配がわずかに漏れてくる。


 その一角に、少女が横たわっていた。


 痩せすぎた肩はシーツに沈み、頬の線は鋭い。十代の半ばだろう。髪が汗で額に貼りつき、呼吸のたびにかすかに揺れる。


 その瞳だけが異様に大きく、真っ直ぐに吉川を射抜いてきた。


「……生きたいです」


 声は糸のように細かった。だが言葉はかすむことなく、空気を切り裂くように響いた。


 吉川は頷いた。頷くしかなかった。触れた皮膚は氷のように冷たく、指先で探る脈は、ときどき抜け落ちるように消えていく。血液検査の数値も悪化の一途をたどり、数字の列が死の影を裏打ちしていた


 上席医が白衣の裾を払って入ってくる。


「想定の範囲だ。経過観察。痛み止めを調整して、朝まで様子を見よう」

「検査を追加しましょう。数値が合いません」

「若いの、そうやって何でも疑っていたらキリがない。家族も不安になる」


 吉川は口を閉じた。舌の裏に血の味がした。


 カルテに打つ文字が小さくなる。点滴速度、体温、酸素濃度、脈拍。数字は書ける。数字は感情を持たない。けれど数字は嘘もつかない。


 夜明け前、少女の目が一度だけ大きく開いた。


 警報音が鳴り、止む。別の音が鳴り、止む。看護師が走ってきて、吉川が呼吸を確認し、上席医が短く指示を出す。動きは意味を持っていたが、時間は意味を失っていた。


 朝に間に合わなかった。


 廊下のベンチで、少女の母親が両手を膝に置いたままこちらを見上げた。顔は泣き腫れているのに、声はかすれて乾いていた。


「あなたは、医者でしょうッ!」


 吉川は頭を下げた。下げた姿勢のまま言葉が見つからず、背中の方から自分の呼吸の音だけが聞こえた。

 その日の午後、上席医が診察室の扉を閉めた。


「記録は整えておけ。判断は正しかった、そう書けるだろう」

「……時刻が合いません」

「合うようにすればいい。臨床は現場なんだ。紙の上の時間は現実とは違う」


 指示は短く、声は低かった。

 ペンを持つと、手の甲の血管が自分のものではないみたいに浮いた。数字の端を削り、時刻を寄せ、行間に小さな言葉を足す。紙は何も抵抗しない。


 最後の欄に、患者の名字があった。虚木。珍しいと一瞬思い、次に進んだ。


 その夜、吉川は携帯を握りしめ、指先が汗ばむのを感じていた。誰かに心を打ち明けなければ、胸の奥で何かが潰れてしまう――そう思って、半ば衝動的に番号を押した。


 呼び出し音のあと、軽い声が返ってきた。


「よぉ、久しぶり」


 数年ぶりに聞く声だった。高校時代から何かと肩を並べてきた友人。いつも飄々としていて、人の心を突く時でさえ笑っているような男。


 仕事を終えた吉川は、紺のスーツ姿で街を歩く。肩口に皺が寄り、きちんと締めたネクタイがかえって息苦しさを語っている。


 待ち合わせたのは繁華街の片隅の飲み屋だった。ガラス戸を引くと、油と煙草の匂いが混じり合い、カウンターの上で氷の当たる音が絶え間なく響いていた。昼夜の感覚を失った病院の白とは正反対のざわめきが、吉川の耳を覆った。


「あんまり、待たせるなよな」


 カロン、と言葉と共に掲げたグラスから、氷が当たる澄んだ音が響く。

 既にカウンターに腰掛けた彼は、吉川とは対照的にジャケットを椅子の背に引っかけ、シャツのボタンを二つ外したままカウンターに肘をついていた。


 取材帰りなのか、鞄が足元に転がり、原稿用紙の角が覗いている。飄々とした笑みを浮かべ、煙草の匂いをまとっているのに、なぜか人を安心させる男だった。


 彼はカウンターの隣を吉川のために確保していたようだった。空いている席に、力なく腰掛ける。彼はグラスを指で転がしながら、吉川に片目を上げて笑みを見せた。


 信用できる。愛すべき友人だ。

 ――もっとも、高校時代に俺の初恋をさらっていった盗人でもあるが。


「そういえば引っ越したんだ。これ新しい名刺な」

「引っ越した? 彼女とは?」

「察しろよ」


 そうか、彼女とは別れてマンションを追い出されたんだな。

 吉川は心の中で少しだけ同情する。


「……やつれたな。白衣が似合わん顔になってるぞ」


 吉川の顔を見た彼が真顔で呟く。

 吉川は笑い返せなかった。深く座り、目の前のグラスを握りしめると、氷が小さく鳴った。


「……助けられたはずの患者を、死なせた」


 彼はすぐには言葉を返さなかった。グラスを揺らし、ただ聞く姿勢を示す。

 吉川は言葉を止められなくなっていた。


「追加検査をすべきだと口にしただけで、“若いのは黙ってろ”と押さえ込まれた。夜明け前に容態が急変した時も、上席は“想定の範囲だ”の一点張りだった。あの子は――“生きたいです”って、はっきり言ったんだ」


 指先がグラスを握り締め、氷が小さく悲鳴を上げた。


「それでもカルテには“判断は正しかった”と書けと命じられた。数字を削り、時刻を寄せ、行間に言葉を足して……紙を現実に合わせるんじゃない。現実を紙に従わせたんだ」


 息が荒くなっているのを自覚しながら、吉川は続けた。


「結局、責任を取らされたのは俺だった。院内政治ってやつだ。上は無傷で、俺だけが外に弾き出された」


 友人は煙を吐き、細い目で吉川を見た。

「で、なんて名前だったんだ、その子」


 吉川はしばらく黙っていた。氷の解ける音だけが二人の間に落ちていた。


「……」


「お前だけは、その名前を覚えていろ。絶対に忘れちゃいけないだろ」


「ああ……わかってる。虚木……虚木真弓さん、だ。まだ高校生だった」


「虚木、変わった名字だな」


 友人の声には淡い響きがあった。軽口のようでいて、どこか確かめるような響き。


「その名字、昔俺の仕事関係で見た覚えがある。奇妙な掟を守る村が発祥の名字だった」

「……村」

「ああ、そういえば、そこは無医村だそうだ」

「医者が……いないのか」

「だな、ちなみに移住には国の支援もあるそうだぞ」

「……」

「……お前みたいな医者なら歓迎されるかもな」


 吉川はグラスの底を見つめた。氷が溶け、水面が揺れていた。

 この街には、もう居場所がない。

 助けられたはずの命を失った自分が、まだ医者でいる意味を試すなら――。


 決意の言葉はまだ口に出せなかった。だが胸の奥で、火種のように熱を持ちはじめていた。


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