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にくゑ-本編-  作者: 匿名希望
第二章 吉川医師
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診療所の日常

 朝の光が診療所の窓を薄く染める頃、吉川直樹は目を覚ました。


 布団から這い出ると、足元で何かがカサリと音を立てた。昨夜読みかけの医学書が床に落ちている。ページが折れ曲がり、栞代わりに挟んだレシートが半分ちぎれていた。


 階下へ降りると、診察室の机の上にも書類が散らばったままになっている。昨日の問診票、薬の発注書、それに村役場からの連絡文書。整理するつもりでそのまま眠ってしまったのだった。


 洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分の髪は案の定、後頭部が跳ねている。櫛で撫でつけても、すぐに元の形に戻った。


 洗面を終えて机の書類を揃え始めたところで、戸口が軽く叩かれた。


「先生、朝ごはんを少し持ってきたんですけど、よろしいですか?」


 扉を開けると、榊千鶴が味噌汁と小鉢を載せた盆を抱えて立っていた。


 榊千鶴。

 二十代の終わり頃と思われる、美しい女性だった。半年ほど前に失踪した夫の後を継いで、一人で商店を切り盛りしている。本来なら人恋しい年頃だろうに、隣に住む独身の医師の世話を、まるで弟でも見るような調子で焼いてくれる。


「あ、おはようございます」


 吉川は慌てて机の上の書類を揃えようとした。その動きを追うように、千鶴の視線が散らかった机の上に止まった。


「また遅くまで仕事をしていたんですね」


 申し訳なさと有難さが同時に胸に差し込み、吉川は言葉を探した。


「いえ、その……」


 千鶴は困ったような笑みを浮かべた。


「ちゃんと食事は取りましたか? 昨夜もずっと診察室の電気がついてましたし」


 吉川は思い出した。確かに夕方頃、千鶴が様子を見に来てくれたような……気がする。だが、その時は薬の在庫確認に夢中で、適当に返事をしてしまった記憶がある……ような気がする。


「すみません。ちゃんと……」


 嘘をつこうとして、やめた。昨夜の夕食は、戸棚にあった缶詰だけだった。


「今朝のお味噌汁は、取れたての山菜ですよ。おにぎりもありますから。よろしければ」


「ありがとうございます。でも、お構いなく」


「もうありますから……ね!」


 千鶴はそう言うと、籠を置いて商店の中へ戻っていった。


 吉川は溜息をついた。申し訳なさと、ありがたさとが入り混じる。こんなに世話をかけるつもりはなかった。――だが、かつて事故で夫婦を救ったことを思えば、千鶴が恩義のように気を配ってくるのも無理はない。とはいえ、こんなに世話になるつもりはなかったのだが。


 まるで生活破綻者の弟を面倒を見る姉のようだ、と吉川は密かに憤慨する。もっともどう見ても彼は――医者としての腕はさておき、生活破綻者だったのだが。


 診察室の机を片付け始める。問診票を揃え、薬の発注書をファイルに綴じる。その間にも、隣から味噌汁の匂いが流れてきた。出汁の効いた、やさしい匂いだった。



 午前九時を少し回った頃、診療所の扉が叩かれた。今日は転校生の健康診断を予定していた時間だ。


「どうぞ」


 扉を開けると、一人の少女が立っていた。制服は少し大きめで袖が手首を隠し、肩にかかる黒髪は緊張で落ち着きなく揺れている。まっすぐこちらを見るようでいて、すぐに視線を逸らす。呼吸は浅く、膝に力が入りすぎているように見えた。


 吉川は彼女の名を思い出す。矢野梓。東京から転校してきたばかりだと聞いている。


「矢野梓さんですね。体調はいかがですか」


 吉川は微笑みかけ、問診票に目を落とした。几帳面な字で隅々まで埋められている。既往症はなし。


「東京にいた頃は、よく体調を崩していました」


 梓がぽつりと呟く。


「でも、ここに来てからは嘘みたいに元気で。頭痛も貧血も、すっかりなくなったんです」


 よく聞く話だった。村に来た人々が口を揃えて語る言葉。空気がいいからか、水が合うからか。


「そうですか。それは良かった。環境が合ったのでしょう」


 血圧、体温、脈拍を測る。どれも正常値だが、脈拍がわずかに早い。緊張のせいだろう。聴診器を当てると、心音も規則正しく響いている。


「では、念のために血液検査もしておきましょう」


 そういうと梓の身体がこわばった。困ったな、あまりこの診療所に苦手意識を持って欲しくない。

 思いながら採血の準備をしていると、戸口が軽く叩かれた。


「先生、今朝のお味噌汁、薬味を入れ忘れていて……」


 千鶴が小皿を手に入ってきた。その姿を見て、梓が目を瞬かせる。


「榊商店のお姉さん……どうしてここに? え、お二人って……そういう?」


 千鶴の頬にさっと赤みが差し、視線が宙をさまよった。


「ち、違うわよ。ただ隣だから……」


 吉川は顔を上げず、カルテに視線を落としたまま短く答えた。


「違いますよ?」


 そういった吉川の顔を、千鶴が軽くにらむ。

 梓は小さく笑い、診察室の空気がわずかに和んだ。


 千鶴は咳払いをして小皿を机に置いた。


「あなたは転校してきた梓ちゃんね。定期検診?」


「はい、私だけまだだったので」


「そう、それじゃまた、クラスの子たちと一緒に買い物に来てね。榊商店をどうぞごひいきに!」


 ご贔屓もなにも、この村で雑貨を買おうとしたら榊商店を使うしかないのだが。梓はクスリと笑みを漏らす。

 その場に微笑みを残して、千鶴は診察室を後にした。


 梓の気持ちを和らげてくれた千鶴に感謝しつつ、吉川は診察に取りかかった。特に異常は見当たらない。


 そして採血をはじめる。針を刺した瞬間、梓は顔を歪めた。痛みに弱いのかもしれない。


「少し、気分が悪くなりませんか?」

「いえ、大丈夫です」


 梓は少し眉をしかめながら答える。

 ――採血を終えると、梓は小さく頭を下げた。


「ありがとうございました。結果はいつ頃分かりますか?」


「一週間ほどかかります。街の検査機関に送りますので。何か異常があれば、すぐにお知らせします」


 診察室の扉が閉まる音。

 静寂が戻ってくる。


 窓の外で、梓の足音が遠ざかっていく。

 小さな影が診療所の前を過ぎ、坂道へと消えていった。

 久しく感じなかった、都会の匂いを吉川は梓から感じていた。

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