診療所の日常
朝の光が診療所の窓を薄く染める頃、吉川直樹は目を覚ました。
布団から這い出ると、足元で何かがカサリと音を立てた。昨夜読みかけの医学書が床に落ちている。ページが折れ曲がり、栞代わりに挟んだレシートが半分ちぎれていた。
階下へ降りると、診察室の机の上にも書類が散らばったままになっている。昨日の問診票、薬の発注書、それに村役場からの連絡文書。整理するつもりでそのまま眠ってしまったのだった。
洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分の髪は案の定、後頭部が跳ねている。櫛で撫でつけても、すぐに元の形に戻った。
洗面を終えて机の書類を揃え始めたところで、戸口が軽く叩かれた。
「先生、朝ごはんを少し持ってきたんですけど、よろしいですか?」
扉を開けると、榊千鶴が味噌汁と小鉢を載せた盆を抱えて立っていた。
榊千鶴。
二十代の終わり頃と思われる、美しい女性だった。半年ほど前に失踪した夫の後を継いで、一人で商店を切り盛りしている。本来なら人恋しい年頃だろうに、隣に住む独身の医師の世話を、まるで弟でも見るような調子で焼いてくれる。
「あ、おはようございます」
吉川は慌てて机の上の書類を揃えようとした。その動きを追うように、千鶴の視線が散らかった机の上に止まった。
「また遅くまで仕事をしていたんですね」
申し訳なさと有難さが同時に胸に差し込み、吉川は言葉を探した。
「いえ、その……」
千鶴は困ったような笑みを浮かべた。
「ちゃんと食事は取りましたか? 昨夜もずっと診察室の電気がついてましたし」
吉川は思い出した。確かに夕方頃、千鶴が様子を見に来てくれたような……気がする。だが、その時は薬の在庫確認に夢中で、適当に返事をしてしまった記憶がある……ような気がする。
「すみません。ちゃんと……」
嘘をつこうとして、やめた。昨夜の夕食は、戸棚にあった缶詰だけだった。
「今朝のお味噌汁は、取れたての山菜ですよ。おにぎりもありますから。よろしければ」
「ありがとうございます。でも、お構いなく」
「もうありますから……ね!」
千鶴はそう言うと、籠を置いて商店の中へ戻っていった。
吉川は溜息をついた。申し訳なさと、ありがたさとが入り混じる。こんなに世話をかけるつもりはなかった。――だが、かつて事故で夫婦を救ったことを思えば、千鶴が恩義のように気を配ってくるのも無理はない。とはいえ、こんなに世話になるつもりはなかったのだが。
まるで生活破綻者の弟を面倒を見る姉のようだ、と吉川は密かに憤慨する。もっともどう見ても彼は――医者としての腕はさておき、生活破綻者だったのだが。
診察室の机を片付け始める。問診票を揃え、薬の発注書をファイルに綴じる。その間にも、隣から味噌汁の匂いが流れてきた。出汁の効いた、やさしい匂いだった。
◆
午前九時を少し回った頃、診療所の扉が叩かれた。今日は転校生の健康診断を予定していた時間だ。
「どうぞ」
扉を開けると、一人の少女が立っていた。制服は少し大きめで袖が手首を隠し、肩にかかる黒髪は緊張で落ち着きなく揺れている。まっすぐこちらを見るようでいて、すぐに視線を逸らす。呼吸は浅く、膝に力が入りすぎているように見えた。
吉川は彼女の名を思い出す。矢野梓。東京から転校してきたばかりだと聞いている。
「矢野梓さんですね。体調はいかがですか」
吉川は微笑みかけ、問診票に目を落とした。几帳面な字で隅々まで埋められている。既往症はなし。
「東京にいた頃は、よく体調を崩していました」
梓がぽつりと呟く。
「でも、ここに来てからは嘘みたいに元気で。頭痛も貧血も、すっかりなくなったんです」
よく聞く話だった。村に来た人々が口を揃えて語る言葉。空気がいいからか、水が合うからか。
「そうですか。それは良かった。環境が合ったのでしょう」
血圧、体温、脈拍を測る。どれも正常値だが、脈拍がわずかに早い。緊張のせいだろう。聴診器を当てると、心音も規則正しく響いている。
「では、念のために血液検査もしておきましょう」
そういうと梓の身体がこわばった。困ったな、あまりこの診療所に苦手意識を持って欲しくない。
思いながら採血の準備をしていると、戸口が軽く叩かれた。
「先生、今朝のお味噌汁、薬味を入れ忘れていて……」
千鶴が小皿を手に入ってきた。その姿を見て、梓が目を瞬かせる。
「榊商店のお姉さん……どうしてここに? え、お二人って……そういう?」
千鶴の頬にさっと赤みが差し、視線が宙をさまよった。
「ち、違うわよ。ただ隣だから……」
吉川は顔を上げず、カルテに視線を落としたまま短く答えた。
「違いますよ?」
そういった吉川の顔を、千鶴が軽くにらむ。
梓は小さく笑い、診察室の空気がわずかに和んだ。
千鶴は咳払いをして小皿を机に置いた。
「あなたは転校してきた梓ちゃんね。定期検診?」
「はい、私だけまだだったので」
「そう、それじゃまた、クラスの子たちと一緒に買い物に来てね。榊商店をどうぞごひいきに!」
ご贔屓もなにも、この村で雑貨を買おうとしたら榊商店を使うしかないのだが。梓はクスリと笑みを漏らす。
その場に微笑みを残して、千鶴は診察室を後にした。
梓の気持ちを和らげてくれた千鶴に感謝しつつ、吉川は診察に取りかかった。特に異常は見当たらない。
そして採血をはじめる。針を刺した瞬間、梓は顔を歪めた。痛みに弱いのかもしれない。
「少し、気分が悪くなりませんか?」
「いえ、大丈夫です」
梓は少し眉をしかめながら答える。
――採血を終えると、梓は小さく頭を下げた。
「ありがとうございました。結果はいつ頃分かりますか?」
「一週間ほどかかります。街の検査機関に送りますので。何か異常があれば、すぐにお知らせします」
診察室の扉が閉まる音。
静寂が戻ってくる。
窓の外で、梓の足音が遠ざかっていく。
小さな影が診療所の前を過ぎ、坂道へと消えていった。
久しく感じなかった、都会の匂いを吉川は梓から感じていた。