プロローグ「封筒」
その封筒は、ある朝、郵便受けの底に差し込まれていた。
消印もなければ宛名もなく、切手さえ貼られていない。誰が、ここに入れたのか、偶にある誰かの悪戯なのかもしれない。
と言うのも、私は怪談や心霊事件を専門に扱うライターで、職業柄その手の情報には常にアンテナを立てている。匿名のタレコミも少なくはない。豊島区の雑居ビルの四階。六畳の狭い一室を事務所にしてから、もう十年が経つ。机の上には、読者から届いた体験談や古書店で見つけた郷土誌の切れ端が積み重なり、見慣れた光景になっている。言わばその手の物には慣れっこになっていた。
だがその封筒は、見た瞬間から異質だった。
紙がふやけており、指先でつまんだ瞬間、ぞっとした。沈むように柔らかく、乾ききらない布か、濡れた皮膚に触れているような感触。封筒の縁はほつれ、赤黒い染みが浮かんでいる。封を切るまでもなく、中の紙が湿気で膨らんでいるのが見て取れた。
やがて意を決して刃を入れる。
紙は想像以上に脆く、ぺりぺりと音を立てて裂けた。その瞬間、甘い匂いが顔に向かって立ちのぼる。花の蜜にも似ているが、鼻の奥を刺すように重く、鉄の匂いが混じっている。長く嗅げば吐き気を催しそうな匂いだった。
中には、小さなメモ帳がばらばらに分解された状態で入っていた。リングは外れ、紙片は血のような染みに汚れている。文字は若い女の丸い筆跡で、ところどころ滲み、判読できない箇所が多い。ほかに、大人の几帳面な日記、役場の書式の物と思われる記録用紙、筆跡の異なる断片が数枚。まるで誰かが意図的に切り取り、封じ込めたように寄せ集められている。
私は机の上に広げ、一枚ずつ目を通した。そこに記された言葉は、恐怖に追い詰められた者の悲鳴ではない。声を荒らげるでもなく、嘆きもなく、ただ氷の底に沈められたような温度で書かれている。感情の痕跡が欠け落ちた記録。淡々と事実だけが並んでいた。
――これはただの資料ではない。書いてあることは異常だが、実際に起こったことだ。
私は自らの直感にしたがい、この記録の裏付けを取り始めた。
資料を探し求め、郡役場の古い報告書を請求し、診療所に残されたカルテを写し取り、村から離れた住民に話を聞き取る。古書店で見つけた郷土誌には「肉ゑ神」の名が記されていた。明治期の民俗調査の付録にわずか数行、 〈大旱魃の折、村人は人を祀りて肉を神とした〉 と書かれている。
さらに戦後間もない大学紀要には、地元出身の学生による論文が挟まれていた。
〈肉ゑは水神の変形にして、贄を喰らう。年ごとに若き女を“蓋”として封じる儀式あり〉
脚注は曖昧で、出典は“口碑”とだけ記されている。
気がつけば、封筒に最初から入っていた紙と、私が外で集めた紙が、いつのまにか見分けがつかなくなっていた。どちらも同じように湿り、同じ匂いを帯び、同じ冷たさを持つ。読み進め、書き写し、追記していく日々が続く。
どれほどの日々が過ぎたのだろうか? やはりこれは虚構ではない。現実なのだと理解した瞬間、頭の奥で絶え間なく水音が響き始めた。排水管の音ではない。外に耳を澄ませても聞こえない。私の中だけで鳴っている。羊水の中で聞いたことのあるような、湿った鼓動。
その夜から、夢を見はじめた。
暗い水底。そこから小さな手が伸びてきて、私の袖をつかむ。顔は見えない。ただ耳もとで囁く声だけがあった。
――「おかあさん、おかあさん……」
声は、微かにそう聞こえたのだった。