珠玉の記憶
「退いておれ試練者、我はこの人間が気に入ったのだ。神が、おまえの子を造ってやろうと言うのだ、こちらへ来い」
「…それは出来ません」
「それ以上シエルに近づくな」
ゆっくりと大きな手を翳してシエルを捕らえようとするのをアッシュが払い落とす。ピリ、とした空気をやっと感じたのか素戔嗚が首を傾げてアッシュを見た。
「なんだお前は」
「巻き込まれただけのただの亜人だ。だが、シエルに手を出すならそれ以外のものにもなろう」
「どういう事だ」
「僕も同じですよ」
「…何を」
「僕と、彼に手を出すのなら。ただの人間では拒めないというのなら。それ以外のものになりましょう」
この神はどうやら随分と鈍感なようで、ここにきてやっと自分が拒まれているのだと気づいたようだった。
「まさか、我を拒むと言うのか」
「貴方だけではない、僕は彼以外のすべてを拒む」
薄闇の中、炎の灯りに薄っすらと浮かぶ白い影がさらりと視線を流して微笑むと、見せつけるようにアッシュの首に腕を回して優しくその頭を抱え込み、それに応えるように腰を抱き寄せたアッシュがその白い顔を隠すように深く口づけた。
「……ッ…な…、…」
その2人の姿は記憶の奥底に沈めた欠片を刺激した。
何処かで見た。確かに何処かでこの二人を見たのだ。
幸せそうに微笑み、美しい涙を流していた。
そうだ、昔自分はまだ生まれたばかりで体の割にはまだまだ心は幼く、生まれてすぐに亡くした母を恋しがって泣いては暴れて姉たちを困らせていた。
そんな折だ、天空を照らす陽の光がゆっくりと暗く、細くなってゆくのに不思議に思って見上げたらそこに、美しい二人の神が見えたのだ。
今は日食と呼ばれる、それは太陽と月が何十年かに一度一瞬だけ交わる刻なのだと言う。
生まれて初めてこの世で最も美しい女神をこの目で見て、その瞬間にその恋は破れた。
嬉しそうに、幸せそうに、一粒の美しい涙を流して白銀の髪の男の腕の中で優しい口づけを受ける姿にほんの刹那の恋をして、忘れた。
もし覚えていたら恋に狂って俺は廃人となっていただろうから。
その時一緒にそれを見ていた姉神だけは、その恋心を捨てきれずに今もその神を追い続けているのだが。
「…………貴女、なのか」
「…ン……」
名残惜しそうに離れて、それでも互いに視線を外さないままに問いに答える。
「誰を指すのかは知りませんが、僕は貴方にお会いするのは初めてですよ」
「…そうか」
疼く心を無理やりに押さえつける。忘れていた自分の遥か昔の過去だった。
あれから日食は幾度となくあったが二人の姿を見ることは出来なかったから、あの初めての恋心は子供の頃の夢だったのかと心の奥底に沈めて蓋をしていた。
「すまぬ、許せ。我は貴女にだけは逆らわぬ。手も出さぬ。貴女に危険が及ぶというなら我が全身全霊をもってお守りしよう」
「…?」
す、と膝をつき アッシュとシエルの足元に大きな体を沈めて子供のような顔で視線を上げた。
「我の大切な珠玉の記憶だ、我の手で壊すなどあり得ない。我の唯一の女神よ どうか我の無分別を許して欲しい」
いきなり態度を変えた素戔嗚に今度こそアッシュから視線を向けてきょとりとする。女神?記憶?これは絶対に彼女の話だろう。だが、違うが同じなのだ。ならば面倒だしそのまま頂いてしまおう。赦しを乞う子供の顔に白い指で額を撫でてやる。
「どうしようか、僕は恐ろしかった。神の我儘で意思もなく奪われるのかと…」
「決してしない!貴女を無理矢理奪うなどあり得ない!どうか、どうか!……ッ頼む…」
「シエル…、また悪い癖だぞ…」
ふふ、と笑うとよしよしと髪を撫でてやる。
「良い子は愛しい。許してあげます」
「おぉ…誠か、感謝する…!許されなければ我は生きてはおれぬところだった」
人が神を手玉に取る様を目の当たりにして、サレアが呆然と立ち竦んでいた。一体今目の前で何が起きたというのだろう。
自分は命を賭す覚悟で此処に来た。神への証明など生半可な話ではない。信じてもらえなければこの小さな命を捧げてでも潔白を証明せねばならなかった、妹達に被害が及ぶのだけは避けなければならなかったから。
ところが今彼は口づけ一つで神を跪かせてしまったのだ。
「一体…何が起きてるの…」
「あぁ、すみません。多分もう大丈夫でしょう」
「そう言えばお前の試練の話だったか。姉上がこの男を見れば暴走を始めるのは当然の事と言えよう、嘘はあるまい。姉の不始末とあれば致し方ない、不問とする」
神のように言いながらもシエルに撫でられるのが嬉しいのか気持ちいいのか、青年の足元から立とうとしない。この国の最高神の一人とは思えない姿だった。
「…おい、いい加減にしろ」
いつの間にか白銀の髪を漆黒に変えたアッシュが飽きることなくシエルに撫でられ続けているのにとうとう我慢の限界を口にする。
「この情けない姿で無駄にキリッとした顔で言うのがムカつくな」
「アッシュ、怒らないで」
苦笑と共に手を引っ込めると素戔嗚もまだ未練たらしく見上げていたが渋々腰を上げてサレアに歩み寄る。
「して、試練はどうする。草薙の剣の貸与であったか」
「あ、試練は思いがけず姉神さまのお力で岩戸を開く事が叶いましたので…お借りする必要がなくなりました」
「なる程、あの岩戸を神器もなく開いたと言う事は違わず姉上が関わっているな。よかろう、試練もここまでとしよう。大義であったな」
「ありがとうございました…」
深々と頭を下げ神に跪く。彼女の決意には気づいてはいたのだ。妹達のためにそんなものは叶えさせるわけには行かなかった。
「では夜が明ける前に焔姫様を送り届けないとね、明けたら戻るのに時間がかかってしまう」
「む、なんだ。何処へ帰ると?我が送り届けようぞ。貴女を煩わせた詫びだ」
「…代わりにゆっくりなどはせんぞ」
「むぅ……、少しくらいは構わぬではないか…」
でかい背を丸めて不満そうに神が口を尖らせた。なんでこうシエルに懐く奴は子供帰りのようなしぐさをするやつばかりなのか。呆れてアッシュがシエルを抱き寄せると笑ってシエルがそれに応えるように身体を任せてくる。
「まぁ、加護の擬態もすぐには戻りそうもないし、構わないじゃないですか」
「…それまでだぞ」
「おぉ、わかったわかった。では茶でもしんぜよう、我が屋敷に運ぶぞ」
嬉しそうに言うと軽く指を鳴らし、風に巻いてその場の全員を攫って消えた。
❀❀❀
「目覚めたのか姉上」
窓枠に寄りかかって腕を組み、大きな窓から地上を眺めていた月読尊が、ふと空気が揺れるのに気づいて姉を寝かせた豪奢なベッドへと視線を向けた。視線を向けただけで相変わらず見えているのかいないのかわからない瞳をしている。
「月読尊か。なんじゃおのれが妾の宮に立ち入るとは珍しいこともあるものよ」
「仕方あるまい。あのまま捨て置くには流石に気が引けた」
「……あぁ…、そう、そうであったな…」
「覚えているのか」
ふる、と頭を押さえて女神が意識を呼び起こす。
気怠げに視線を上げると弟神が寄りかかる大きな窓を見た。もうすぐ朝日が昇る頃か、と瞼を薄める。
「妾は…、永い夢を見ていたのだろうか…」
「そうだな、俺達はあの日3人揃って美しい夢を見た。あの時目覚めることができなかったのは姉上だけだ」
「くく、よもやおまえも…あの小娘に心奪われていたのかや」
「奪われぬ男はおらぬだろうよ」
「……そうだな…、そう…彼の御方もそうなのだろう。何だか世界が違って見える、八億年…夢の中で生きていたように思う。妾はやっとこの世に生まれ落ちた心地だぞ」
「では、貴女が我ら三兄妹の末ということになるな」
「…傲慢ぞ」
「あの素戔嗚ですらすぐに目覚めたのだぞ。貴女は愚かにも程がある」
「言うな、耳が痛い」
神は総じて愛に弱い。飢えていると言っていい。
何を置いても自分の唯一を手に入れ、愛し、守りたいのだ。
まだ疼く胸に手を当て一息吸う。あれは甘く、優しい、夢幻だった。
「まだ、妾も幼かったのじゃな」
「なんだ、やっと自覚したのか」
「…おまえは昔からそうだ、何でも知った顔をしよって可愛くない。だから好かんのだ」
「ははははは」
生まれて初めてかもしれない。この姉とこんなに穏やかに話したのは。
あの時、姉の元へ飛んだ時は少なからず驚いた。ピクリともせずただただ涙を流して力なく虚空を見つめる姉神が佇んでいた。何を見たのかは分からないが、精神は壊れる一歩前だった。
神の、精神が、崩壊寸前だったのだ。
悠久を生きる神の心が壊れるような何かを目の当たりにして姉が泣いている。初めて哀れに思い高天原へと連れ戻った。
「貴女が生まれ変われたと言うのなら、まぁ関係をやり直すのも悪くなかろう」
嫌いだった姉に食事でも用意しようかと白み始める空を背にベッドへと歩み寄る。初めて姉弟のような事をしてみようかと思うのだった。
❀❀❀
「櫛名田、帰った!」
ずかずかと川のたもとの屋敷へと上がり何処かへ声を掛けるとふわりとたおやかな乙女が何処からともなく現れた。
「まぁ、貴方様が人を連れ帰るなんて…、何かありましたの」
「我の大切な客人だ、茶を出せ」
「はいはい、どうぞこちらへ。まぁ…なんと。本当に人でありますのか」
「そうだ!」
「…豪快を絵に描いたような方ですねぇ、少し説明というものをする気はないんですか」
「ほほ、いつもの事でございます。茶菓子でも用意いたしましょう」
神であるのに地上に屋敷があるのに不思議に思いながらも上がり込む。どうやら履物は脱いで上がるものらしい。奥の部屋へ通されてこの国独特の敷物の香りに何とも安らぐ心地がした。
「こんな近くにお住まいだったんだ…」
サレアが驚いたようにこわごわ席に着く。自分もまさか地上に屋敷があるとは思わなかったのだ、サレアはさらに驚きだろう。
「天照大神様や月読尊様にはお会いできる手段がまだ見つからなくて、素戔嗚様にだけはすぐそこの祠に祈れば応えてくれると聞いたからこの地に来たんだ。まさかこんな傍にいらっしゃるなんてびっくりしたよ」
「ははは 我ははるか昔に高天原は追放されておる。母君に会いたいと黄泉へと望んだ日からずっと地上に住んでおるのよ」
櫛名田と呼ばれた乙女に酒をつがれながら豪快に笑った。まだ陽も上がりきらぬ内から酒を煽るとは呆れ顔で苦笑する。
「ちゃんと、送り届けてくださいよ」
「おお、違わぬぞ。貴女の願いは全て余すこと無く叶えよう」




