伝説の男と幻のような人。
精霊術は各元素によって事象が異なる。
火の元素は炎を起こす。つまり元素のスピードを限りなく速める事ができる。
逆に水の元素は全ての水を操る。元素の流れを止めて凍りつかせる事も。
風は
その大気の流れを掌握した。風を起こし、世界の音を聞き、世界と対話ができる。音を届ける事ができる。
「この大陸のどこかにいる、父さんに風の便りを届けて欲しい。他に方法がなくて…、無茶苦茶なお願いなのはわかってるんだけど」
「………伝説を探すよりお父様を探した方が早いのでは…?」
「うっさいなぁぁ!そーゆー真理はどうでもいいのよ!」
「冗談ですよ。まぁ、剣聖様に会う事さえできれば願い自体は簡単な事だと思いますが、つまりあなたは今この国から出ることができないし、ゆっくり対策を講じる時間もないということでしょうか」
「……そう」
ギュッと膝の上で握り込む拳に悔しさを滲ませる。気づいていないかのようにシエルは続けた。
「何処か、と言う事は目的地のない旅をなさっていると言う?」
「水の国にいる姉さんが月光病なんだ。どうしても月の雫さまの《無垢なる水》が必要で…時間はね、少し前迄は全然あったんだけど…今はいつあたしがどうなっちゃうかわからなくて」
「………、なるほど」
世界の何処かに太陽と月が居る。
空に浮かぶ半身を見つめる花畑の地には光に愛された太陽が、半身の降り注ぐ光を映す湖には闇に愛された月が閉じ込められていた。
花の園へ迷い込んだ人間はその香気に酔えば、そのまま太陽だけを見つめる花となり、月の湖に迷い込んだ人間は湖の周りで月の光の下でしか咲けない花となった。
それは太陽と月を愛する神々の愛であり、絶対的な摂理である。何人たりとも彼らを害することはおろか、触れることも目にすることもできない。
それぞれ花となった人間を花人といい、太陽だけを見つめる花となった人間は夜にだけ人になり、太陽の眠るガゼボにまた誰も近づけないように花畑を守り、月の光の下でしか咲けない花となった人間は昼にだけ人になり月の眠る湖のある森を守った。
森への道は極稀に現世に繋がることがある。この少女の姉は森に迷い込み、人間の姿の花達に追い返されたのだろう。運よく湖まではたどり着けずに花にはならなかったが、花人達の香気に当てられて月光病になったのだ。
「姉さんは2年前から月の光の下でしか目覚めなくなっちゃった」
それを癒す事ができると言われている《無垢なる水》を手に入れることができるのが水の精霊主、だと言われている。所謂月の眠る湖の水なのだが、人間は普通ならば誰も近づけない。精霊主に憑いている水の精霊に乞い願うしかないはずなのだ。
「あぁ、それなら水の精霊主を探すのはダメなんですか」
「あんた物知りなのか無知なのかどっちなのよ…、それこそ天の雲嶺で仙人探すようなもんでしょうが」
「例えがまた随分夢物語な」
天の雲嶺は、空の国にそびえる霊峰だ。そこには神を目指した仙人と呼ばれる霞のような人が隠れ住んでいるという。人間が生きられる場所ではないのに頂を繋ぐ吊り橋がいくつもあり、そこかしこに人間の痕跡だけがあるのに誰もそこに住む仙人を見たという人はいない。
「…お父様は探しているのではないのですか」
「藁を掴むような気持ちで噂をひたすら追っかけてるだけだよ…、あんな幻のような人見つかるわけがないけど、何処かで水だけでも手に入らないかと思って…」
「えー…そっちはなんか諦め気味なのはなんでなんですか。どっかにいるかもしれないじゃないですか、知りませんけど」
「ちょっとめんどくさくなってきてない君」
そんなことはないとわざとらしく笑って小首を傾げるのがホント可愛いくて腹立たつ。少し考えていたかと思うとふいにス…、と姿勢を正した。
「…では、仕方ないな…聞きましょう…。君の父の真名と伝えたい内容を教えて」
「…ッは?こんな所であんたに…、軽々しく…し、…ゃ、…」
強い語気で反論しようとしたのに何処か遠くでゆっくりと自分の声が消えてゆく。意識が消える。
シエルの伏せられていた瞼が静かにあがり、翡翠の瞳が喉元を射抜いた。これがこの小さな少年がする顔なのか。と、次の瞬間にはプツン、と何も見えなくなった。
「…内容によっては、協力してもいいですよ」
ちらと傍らの男に視線をやるとふわり、と風が揺れて包まれるような錯覚に陥る。特に何もない大通り、人々は行き交い多くもないが少なくもない気配が傍をすれ違う。まさかこんな場所で魂を縛る真名を口にすることなど普通の人間ならば考えられない事だった。
「大丈夫」
「……ल आर्चे」
「いいコ」
猫のように両の目を薄くして優しく少女を褒めた。
『もうすぐ闇に喰われて私は死ぬ、姉さんをお願い』
「へぇ……」
カラカラ吸い筒を回してゆっくりと喉を潤す。
「この子のような小さな生き物にベリルがわざわざ手を出すようには思えないんですけど…どう思う?アッシュ」
「…俺なら、お前に手を出されればどんな小虫であろうが全力で潰す」
静かに傍で聞いていたアッシュが可能性の1つを教えてやる。お前は世界の叡智だがあまりにも無垢で無知なのだと。シエルがきょとんと丸くした目でアッシュを見上げた。チラリとどこか焦点の合わない瞳で虚空を見つめるマルルに視線をやるとズズッとわざと音を立てて冷たいアイスティーを飲む。
「…、なるほど。可能性」
自分には執着だとかはよくわからないが、そういえば酷く愛というものに飢えた神だったなと思い出す。
あの神に月以上に執着するものなどあっただろうか。……、いやあったな。あいつか。
「はー、まったく。いったい君は彼に何をしたんだい?」
呆れたようにため息をつくと、シエルはぱちんと指を鳴らした。
「…ッ、は、あれ?…え?」
「おはようございます」
シエルがにっこりと微笑んで小首を傾げる。その仕草さえ完璧で少しうろたえながら意識が無かったことに驚いた。
「あたし、ぼーっとしてた?」
「はい、でもほんの少しの間です。お疲れなのかもしれませんね。まぁわかりましたよ、城内は僕がなんとか探してみましょう。君は王都の探索と噂探し頑張ってください」
でも期待はしないでくださいね、と微笑んで銅貨を数枚テーブルに置くと1枚の変な模様の書かれたメモを渡して席を立った。椅子から降り立つと自分の腰のあたりまでしか無い視線にやはり小さな子供なのだと再確認する。何故か何の疑いもなく自身の大切な事情を話してしまったが、普通ならばありえないことだった。
「見つかったら連絡しますよ」
❀❀❀
「クロード!」
神殿のような神秘さの宮殿を小さな子供が誰かの名を呼びながら歩いていた。周りはオロオロとするだけで誰もそれを止めることもできず、声をかけることもできない。生誕祭の前に王からの下知があったからだ。
『生誕祭の行われる期間、騎士を連れた白金髪のそれはそれは愛らしい少年が宮殿内に現れるから。彼が何をしようが一切の手出しも口出しもしてはいけない。命令だけを聞きなさい』
「アッシュ、お願い」
さぁっと風が広がる。傍らを歩いていた彼に抱き上げられた瞬間ふわりと風が包んだ。アッシュは じ、っと宮殿の外へと視線を巡らせ小さく行くぞ、と声をかけたかと思うと大きな手でシエルの頭を抱えて拓けた庭に一歩踏み出した次の瞬間には二人の姿は幻のように消えていた。
「クロード、ここに居たんですか」
「やぁ、私の愛しい月の小鳥。やっと来たね」
宮殿の塔のひとつにある王の私室にクロードと呼ばれた彼はいた。前触れなく扉を開ける突然の来客に驚きもせず書類に落としていた視線を上げると嬉しそうに歓迎する。
「君、最近何かしただろう」
「おやこれはまたいきなりだね。んー漠然としすぎていて何のことを言ってるかわからないが、…例えば退屈過ぎて城を抜け出したらベリルに見つかって揶揄ったこととかかな」
「おい夜に他国に抜け出したのか」
「遊びに来るかなと思って」
自由にも程があるだろう。
「君にあえないかと思って水の国に行ってみたんだよねぇ。アッシュが君を隠し過ぎるのがすこぶる面白くないからちょっと攫ってやろうかなと思って」
「うるさい、減る。いくら貴様でもこいつに手を出したらどんな手を使っても泣かす」
ギラリと噛みつきそうな視線を向ける男の黒髪をよしよしとなぜ回せば剣呑だった眼差しがとろりととろけて小さな指に擦り寄った。
「いいな、それ私にもやってよ」
「それ以上黒を刺激するのはやめろ馬鹿」
呆れながらもわざと二人でいる時にしか呼ばない愛称で呼んでやればアッシュは嬉しそうに鼻先を耳元へと寄せてきた。
「相変わらずな犬め。まぁいいよ座りなさい、茶でも運ばせようか、紅茶でいいかな」
優雅に宙空に指を走らせふぅっと息をふきかけると光の文字が浮かんで散った。すぐに侍女達がティセットと菓子の乗ったティスタンドを運んで来るとゆっくりと足を組んで向かいに座る少年へ笑いかける。
「それ、そのままでいいのかい」
「君の傍だからね、仕方ないよ好きにさせてやって」
「あぁ、ふふ…、どんなに憎たらしくても、君は私にだけは手を出せないからねぇ、それこそせいぜい泣かすくらいしかできまいよ」
どんな神をも恐れない君がと意地悪そうな顔で笑ってやるとその言葉が存外デタラメでもない事を裏付けるように睨み返してきた。
ソファに座るシエルの足元に座り込み、少年の腰を抱き込んだまま威嚇する絶世の美青年とはなんともシュールである。
「それで?かのベリル・リ・ナン・ナリュール・アインに何をしたんだい」
「うーん、口づけとちょっとだけ嫌がらせ」
あはは、と笑って紅茶を飲んだ。こいつはいつか愛され過ぎた末に喰われて消えてしまえばいいな、と心の内で毒づいた。それでは世界が滅んでしまうのだが。
「はぁ…嫌がらせって?」
「別に?その辺にいた子供に気まぐれに花をあげただけだよ」
こいつ…
その辺の、名も知らぬ少女に渡したのか。
ただの一度も闇には渡したことのない貴様の心から造った花を。