心に触れた日
あの会話を最後に、『彼』は一度も私の前に姿を現していなかった。
彼が図書館の所蔵ではないと指摘した本――あれは、後に確認すると確かに未登録の本だった。どこでそれを知ったのだろうか。謎は深まるばかりだった。
ある時、図書館の利用者のひとりが教えてくれた。銀髪の彼の名は、御影公慈というらしい。
彼は私の前で一切名乗らなかった。追わせないためなのかもしれない。私は勝手な幻想を抱く――彼は悩んで悩んで私を遠ざけ、姿をくらませて幻影のように消えてしまったのではないか、と。
図書返却受付をしながら、利用者の人と神さまはいないとかいるとか他愛ない話をしつつ、私は最初の頃を思い返す。
一目見て人間でないようだと感じたのは本当だったのだと、そんなあり得ない考えが脳裏を過る。『水場は人ならざるものが集う』とも言うし、実際月鏡ではそういう噂が絶えない。人間に紛れて暮らす人外。幽霊、魔法使い、妖精、神様――――私は信じていなかった。ファンタジーは好きだし夢はあるけど、すべて空想だと思っていた。
しかし、それが現実であるかもしれないのなら、私は一体何をしてきたのだろう。心を削って彼に囚われていた時間はなんだったのだろう。
本は盗まれている。そして、気がつけば返却されている。貸出届には丁寧な文字が連なっていて、存在だけは嘘ではないのだとようやく思える。
もう彼が現れなくなってから数週間が経っていた。月鏡には冬が去り生を思わす春が来たけれど、私はこの頃生きた心地がしない。ちっとも幸せじゃない。
もう、いいかな、なんて。嘆息した。
どさり。大きな鈍い音が鳴った。目線を少し上げると、私の座る受付台の上に数冊の本が置かれている。
「君は神を信じないとかなんとか宣っていたが、あれは嘘だったのか。はたまた生来ロマンチストで、運命的な出会いとやらに夢を見てるだけだったかな」
「……は? え、」
「浮かない顔を晒すな。気が狂う」
『彼』がいた。
黒いコートに、同色の髪は重めのマッシュ。黒曜石を嵌め込んだような大きなアーモンド型の両眼に、光は宿らない。耳には煌めく銀のピアス。頭から爪先まで黒い装いで、顔だって全くの別人だった。
それなのに、声と腹の立つ口調と雰囲気だけが、彼を彼たらしめている。
「………御影公慈ってのね」
「いかにも。そういや名乗るのがまだだったな」
私の瞬きの一瞬で、その姿はいつもの『彼』になった。背筋から内臓まで北風が通る心地がする。一体どんな魔法だ。やっぱり化け物か! と問いただしてやりたいが、怒りと苛立ちと、もろもろ綯交ぜになった感情のほうが勝ってしまう。
「はっ、最初から名乗るつもりなんかなかったくせに。腹立つ!」
「はぁ……わかったようなことを言うな、君ごときが僕を量れるものか」
「何よ相変わらず! その口塞いでやりてーわ!」
「できるものならやってみるといいさ」
私と彼はいつかの応酬をなんでもないように始めて、図書館の共有スペースに大声を響き渡らせる。ブランクがあっても喧嘩ってできるものなのだな、と俯瞰した自分が考えている。同時に、幸せとはこれなのかもしれないとおかしな答えを弾き出す頭。
「それはさておき、君は僕が神とやらに見えるらしいな。君の目は節穴か? それとも、現実と幻想の区別もできないようなどうしようもない馬鹿なのか……物語の読みすぎだ、黒廼君」
さっきのお客との会話を聞かれていた! 銀髪の亡霊=水神さま説を世間話的に語り合っていたのだ。私は歯噛みする。
「けっ馬鹿ね、出てきちゃっていいの? 負けんなるわよ、私との勝負!」
「『勝負』? いや、君とやりあうほど僕は暇ではないんだが。現に今日このときまで僕は君と会わなかったぞ」
「……う、嘘は良くないから。書庫の本はしょっちゅう無くなってたんだし、あんたがここへ来てたのは確実でしょ!」
負けじと噛みつく。それでも牙城は崩せない。彼は愉しそうだ。
「フ、しかし僕の姿は見てなかった筈だ。君は僕の術中に嵌まってたんだものな」
「ムカつく! やっぱ嫌いよあんた!」
「照れ隠しも下手だな。顔が真っ赤だ。内心僕に会えて安堵してるだろう」
「うるせェ!! 何よもう! どっか行けよ!」
彼の言葉は図星だった。私が怒鳴ると、彼はくつくつと喉を鳴らす。
「この本で無駄にきれーなあんたの顔ぶん殴るわよ!?」
「本はぞんざいに扱うなと言っただろう。殴るなら直接来い。気が済むまでいくらでも受けるよ」
彼が歌うような口調で続ける。それを聞いた私は押し黙ってしまう。澱んだ脳で返答を考えている。「煽ったのに乗らないのか。何故だ?」と、彼が首を傾げる。
それが許せなくて、決壊して。これまでずーーっと塞き止めていた感情がどっと溢れて――――。
抑えた声で、訴えた。
「謝れよ」
は、と情けない声。
心底意味が分からないという風のそれに、やるせなくなる。涙が止めどなく溢れ出てきてしまう。
「私、思ったより淋しかった。あんた分かってんの? 泣かせるなんてホントサイテーよ……」
「寂しいなんて。何故そう思うんだ? 分からない。僕のことは嫌いだったんじゃ無かったのか」
「嫌いよ、あんたなんて! 私あんたの名前さえ知らなかった。あんたは私を知ってるってのに。ずるいわいっつも。私を苛めたくて貶めたくて仕方ないのね。ホンット訳わかんない」
彼は黙っている。棒立ちの姿が滲んだ視界に映っている。ぜんっぜん絵になってない。ざまあみろって思う。でも、無言と周りの視線が嫌になってきて、嗚咽を抑えようとしながらなんとか声を絞り出す。
「……なんか言えよ。そんなに腐ってんの、性格」
しばらくの無言。
私の泣く声が図書館に反響している気がする。ここから逃げ出したい。けれど彼には何もしないで欲しかった。そのまま棒立ちで佇んでいれば、自動的に私の勝ち。あなたは負け。そうして、棄てられればいいのよ。
「暁」
涙を拭われた。
多分、ハンカチで。
彼が?
いや、視界がぼやけているせいで、目の前の白いシルエットが彼なのかも怪しい。泣き過ぎてまだ目も開かないし、見たものを信じられない。理解がまだ追いついていない。
優しく抱擁されて、背中をゆっくりと撫ぜられる。あたたかい。人の体温だ。
私の耳元で、哀しい色を乗せて誰かが囁く。
「傲慢で利己的で、厄介な性格をしているせいで、――――少し気遣いをすることもできない。平気で寂しい思いをさせる。こんな僕は嫌ってくれ。そのほうがマシだ」
嫌いよ。
「いや、もう嫌いだったか……」
嘘よ。嫌いじゃないわよ。
「人の傍に居てもいずれ別れが来てしまうから、誰も僕には近付けたくない。そのために僕は僕で居る」
彼が弱々しい声で続ける。らしくなくて、また彼の服が濡れる。私の背中も、小雨に降られた時のように少しだけ冷たくなっていく気がした。
「でもどうすれば良い。この感情は何だ」
え。
声が漏れる。そんな話、私は知らない。何を言い出す気なんだろう。その先を私に直接伝えないで欲しい。
今ここで、聞きたくない。
「……今日のところは帰るよ。顔も見たくないだろうから。……それは君にあげる。じゃあ、また」
温度が離れてゆき、彼は踵を返し、明るい図書館の外へ出ていった。長い前髪に隠れ表情は窺えなかった。
……行ってしまった。彼の本当の心に初めて触れられた気がしたのに、金輪際会えなくなるかもしれないと思った。
しかし、私には希望があった。
彼がくれたハンカチに、彼ではない名前があったからだ。恐らく借り物。動揺して間違えて渡してしまったらしいそれには、イニシャルの刺繍があった。女の可能性もあるが、私はこれに一縷の望みをかけた。
ここで逃せば、次はない。