【彼の心情2】
職務を終えて帰宅のために荷物を整理していた泉。そこへふらりと現れたクールな上司の姿に、灰色の丸目をほんの少し大きくした。
「時間はあるか?」
「御影さん。どうされました? あ、黒廼暁ちゃんのことですか?」
「勘が良いな。いかにもだ」
「暁ちゃん、大分すごい子なんですってね。本の声が聴こえて、本の神……まるで『水神さま』の寵愛を受けてるみたいだ、とか」
「信憑性の低い話題だな」
「え! まさか。好きになっちゃったんです?」
「僕は違う。彼女だよ」
重い響きで、すとんと落ちるように言葉が放たれた。
暫し沈黙が訪れて――へはあ、と珍しいため息をついてから、泉は八重歯を見せた。呆れも諦めも含んだ笑顔は、頑固で鈍感な上司へのささやかな反抗である。
「…………言った通りだったでしょ」
「そうだな。君の勘は流石と言うべきだ。僕が判断を誤ったらしい」
「なんか嫌な言い回しですね。恋よりどろどろしてますよ。専門外です。おいしく頂けません」
「あのな泉君……わかってるだろうが、今回に限っては、僕はただの恋話を持ち掛けたい訳じゃない。相談がしたいんだ」
「相談ですか?」
「そうさ……どうすれば、彼女を引き離せる?」
「……なん、ですか? その相談」
平然と御影が訊いてくるので、会話内容とのギャップに泉は軽くどもった。同時に、御影への苛立ちと暁への情がふつふつと沸いてくる。泉が超のつくお節介焼きと言われるゆえんだった。
「矢印が僕に向いている現状、彼女の脳は怖いもの見たさや好奇心を原動力とする『興味』を……『執着』、あるいは『好意』と受け取ってしまいつつある。実り熟れてしまえば最悪だ。もう付き纏われるのは御免蒙るのにな」
「人をストーカーみたいに。なんというか勝手すぎませんか、それ。会いに行ってるのはあなたですよ?」
「……呆れてくれるな、泉君。違うんだ。彼女が僕を本当に好きになる前に、この糸は断ち切らなければならない。芽はなるだけ早く摘まなければ……結果、苦しむのは彼女だ。僕だってもうその姿を見たくはない。会いたいのは確かな感情だが、僕がそれを赦さない。矛盾しきっている」
氷の仮面は一切崩れることなく、他者を拒むような本音だけが紡がれていく。御影は表情を出さない人間だ。そして、自分のことを話したがらない。もう二年の付き合いになる泉相手でも、表面はさておき出生や過去に深く踏み入ることは許されなかった。泉は全く気にしていなかったが。
ただ、それでも泉にはわかる。御影が何を恐れているのか。その話だけは、酒の場なんかで何度も聞かされた強い意志に違いないからだ。察して、泉は「ああ、そっか」と納得して笑顔を返した。
「置いていかれたくないんですね。御影さん」
「……そうだ。相容れない。彼女にはいつか他に良い人が見つかるだろうに」
「…………」
「僕なんかを。どうして俺を、選んだんだよ」
どこか遠くの虚空へ、消え入りそうに独りごちては目を伏せる。泉の相手など既にしていないらしかった。
泉は震える銀の睫毛をぼんやりと見つめて、どうしようと悩み、きっぱりと結論を出す。強く芯の通った『明るい』最適解だ。ただ、それを本人に言えるはずもなく。
(いいえ御影さん。答えが見つかるまでは会い続けるべきです。理由もなく消えてしまったら、とてつもない孤独に襲われる。彼女の中身が不安と哀しみと怒りとで満杯になる。少なくとも明るい感情は湧かないでしょう。そして、願わくば暁ちゃんに向き合ってあげてください――――)