月鏡の記憶
数日して、私は風邪を引いた。しかも結構たちの悪いやつで、急に高熱にうかされ、丸一日休みをとって家(集合住宅の借り部屋)で寝込む程だった。
でも、最近私の周りに体調が優れないと訴える人はいなかったと思う。同僚も上司も元気。昨日会った親友のユーリは風邪なんて滅多に引かないし。
そういえば、三日に一回は必ず喧嘩をふっかけにくる『彼』の姿を最近見ていないような。
不鮮明な脳内にある考えが下りてくる。
ひょっとするとこの風邪は、あの時あいつが本当に熱を出していて、それが移ったのではないか。
ああ。
彼は咄嗟に誤魔化したのだ。
後先考えないで、あの場で私に心配させないために。
「ばかじゃん。うつってんだけど……」
なんだか可笑しい。怒りっぽい性格をしているはずなのに、今は胸の中に負の感情がない。この浮ついた気分や妙に早い心臓の拍動は、熱だけのせいではないのだろう。
あとで絶対にバレる嘘をついて、なんてつめの甘い。逆に愛しいとさえ思えてきた。
これが恋? 生まれて初めての恋愛?
……違う。もう、そんな陳腐な言葉で片付けられる感情じゃない。
四六時中あいつのことを考えてながら、あいつ自身にどう思われようと構いやしない私の、この暴走する心は、一般常識的な恋愛からはかけ離れてるんじゃないのか。ただの独りよがりを血の通った人間にぶつけて、いつだって自分だけが可愛くて、勝手に自己嫌悪して、人を傷つける。
これは、他人の心に神経質過ぎるあまり人に踏み入ることを避け、自分以外の人間を知らないまま大人になってしまったがゆえなのだ。
いびつだ。でももう戻せない。
あいつは結局私の元へ戻って来るから。
こんな感情の化け物みたいな本当の私を、彼が最後には受け入れてくれると、私はなぜかわかっている。これも私の質だ。彼の本心なんて、私にはお見通しだから……。
「……いや、なに考えてんだ。そんなわけないわっ」
そうだ。熱のせいでおかしくなってる。
布団を頭まで被って、丸くなって寝てやった。
*
――沈む太陽が山の峯の縁に触れ、白い輝きが一瞬放たれる。光が収束すると空は彩度を失っていき、やがて真黒く染まって高く月が昇る。
月鏡の夜の訪れだ。
風鳴りのしじまに冴えた空気。鏡のような湖面は闇一色で、そこにたったひとつ黄金の月がゆらめいている。この光景こそ、ここが月鏡と呼ばれる所以だ。
伝説では、ここには水の神、いわゆる蛇神が住まうとされている。知を司る神で、冬と冰の象徴でもあるらしい――――
前触れなく気づく。
これ、夢だ。
なぜなら、後ろを振り返ってもいつもの街がないからだ。図書館も住宅街も、その他の建物も。
もう一度湖の景色をまじまじと見つめてみると、ぽっかり空いた深い穴に水が満ちているようで、そして――――
私の左前に誰かいる。十歳くらいの男の子だ。銀色の髪に貴族風の服を着ている。白い霞のせいで顔はよく見えない。
少年が濃い霧で隠された足元へ――違う、湖へ向けて何か言っている。言葉の端々が震える独白のようなそれは、年相応な泣き言だった。私はその声に耳をすませる。
『君はどっかで聞いてるかな。話を聞いてよ。少しでいい。これっきりにするし、金輪際秘密にし続けるから。
……おれはもう忘れたいよ。
君は慈しみの子だ。いつだって嘘で誤魔化して、自分の心や身体を人のために使ってる。どうやっても自分を好きになれないでいた。不器用で愛しい子だった。
だから先に死んだんだろ。結局君もおれを置いていったんだ。
そしたら、君の身体はおれのものになった。最初こそ馬鹿みたいに意気揚々としていたけど、今際の際の『約束』がおれを虚しく生かして、もう12の満月を数えるよ。おれね、こんなに物を想ったのは初めてだった。
でもさ。この体は、気分と欲のままに自由に生きて、傲慢に振る舞って平気で他者を貶める、おれには合わなかった。このまんまじゃもたないよ。おれは消えたいなんて思ってる、そんなんじゃ君に向ける顔がない。
だから忘れてしまいたい。
記憶から心まで何もかも君の完璧な鏡うつしになって、おれの本当の心さえ上書きしたら。何食わぬ顔で生きていけるだろ。『約束』だって守れる。いつかの君みたく氷の壁を築いてひとりでいれば、二度と大切な人を失わなくて済む。
君は聞いていないだろうね。でも、あの『約束』を後悔してはいないんだよ。弱音を吐くのは今夜が最後にするから、赦してよ。
遠い未来になら解放されるかな。夜明けは必ず来るように、氷がいつか融けるようにさ。本心を見せても、真実を明かしても、すべて笑って受け入れてくれるような人が現れたなら。
だから、それまでは救いを待つよ。
この月鏡の畔で、永久に…………』
は、と目が醒めた。
肌を刺す冷えた空気に身震いする。熱はすっかり下がっている。体調もマシだ。違和感を覚えてしまうくらいに。
さっき見た夢の内容は……まだ覚えてる。ただの夢のはずなのに、大切な言葉だと思えた。私は取り急ぎその辺にある紙と筆を手にして、風景や言葉、声色、思い出せる限りを書き付けた。
そして、泡のように呟く。
みずうみだ、と。
私は外行きの服に袖を通し、病み上がりの体で鞄を手に家を飛び出した。肌が寒気に撫でられても温度を感じず、非現実の中を走っているかのようだった。適当な嘘をついて開館前の図書館に入れてもらい、貸出の記憶を頼りに目録を調べた。
見つけた資料には、ありえないことが書かれていた。でも信じるしかなくて、本を胸に抱いて目を閉じた。
この一連の不思議な夢を見せていたのは、月鏡――『記憶』する湖であるということを。