【彼の心情1】
月鏡の湖の北西には、年季の入った石造りの大建物がいくつもそびえ立っている。その内のひとつ――研究棟の渡り廊下の手すりに背を預けて小休止するのは、上背のある銀髪青目の男。白いコートに身を包み、デフォルトの冷たい表情で相手へなにやら話し掛けている。
会話対象は、人好きの笑顔に明るい雰囲気を放つ、職場の部下兼友人の青年だ。太い平行眉で奥二重の黒目は大きく、人懐こく可愛らしい印象である。銀髪の男よりもいくらか小柄で、ファー付きジャケットを着込み、活発な跳ね放題の黒髪を尻尾のように結んでいる。
暁を翻弄したかの亡霊は、どうやら居場所のある生きた人間であったらしい。
「――時に泉君。先日夕刻の頃だったかな……おかしな女に話しかけられた」
「惚気ですか?」
「違う。前々から話していた、肩くらいの茶髪の司書だよ。僕のことがよっぽど気になるのか、図書館を訪れる度にこちらの様子を伺ってきたんだがな、」
「惚気じゃないですか」
「いいや。彼女のあれは単純な好意ではなく……幽霊か何かを見るような顔だ。興味を抱きながら僕を恐れている。目を合わせた瞬間、蓄積された怯えと好奇心が視えた、気がした」
深刻な口調で男がそう告げるので、黒髪の青年泉は一瞬眉をひそめて口を結んだ。上目遣いで上司を睨みつけると、次にニヤリと笑う。
「ははーん。頑なですねー御影さん。そんなんじゃないですって。絶対片想いされてますよ。御影さん顔だけは良いんですから。これまでも女の子誑かして、結局フラれてたの忘れたんです?」
「誑かしてない」
「そうは言いますけどね、いっつもあなたのせいで……」
波に乗るように言い詰める泉が、ふと言葉を止めた。銀髪改め御影が不自然に視線を逸らして黙っていることに気がついたからだった。
「あれ、御影さん?」
「……ひとまず様子を見る。君の言うような恋愛に発展するにはまだ早いからな。しかしあれだな、ふっ、君も色恋の話に酔いすぎだよ」
「あ! 馬鹿にしてますね?」
「してないよ」
「ダメですよ、俺の勘を侮っちゃ。結構当たるの御影さんもご存じでしょう?」
「ああ。よく理解してる。勝手に離れていくだろうと踏んだだけだ。彼女も今までと変わらん。金と名声に目が眩んでた他の女と同じさ。どうせ僕に失望して、霧散するんだよ」
吐き捨てるように言った横顔は、どんな刃よりも鋭く尖っていた。まだ顔も知らない司書の心情を思うと泉は胃がきりきりしてならない。いずれ恋の苦しさがふたりを蝕むような気がして。