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月鏡の畔にて ~感情的な平民娘と神様めいた氷輪の青年が、真に心を許し合うまで~  作者: るり石
第4話 霞立つ湖

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『知りたい』私たち


 立ち読みの装いは冬模様の白いロングコート。アイスブルーの明晰な眼は、相変わらず静かに手元の本の紙上を走る。

 この銀髪の姿で現れることこそが、『彼』の無言の意思表示だ。それはまさしく、私だけに向けられた秘密の合図。


『今は逃げも隠れもしないから、君に話しかけて欲しい』。


 徹底的な待ちの姿勢でそうねだっているのだ。今日も私のために仕事サボってきたのかしら。しょうがないやつ。


 図書館の制エプロン姿の私が、『彼』の横に人ふたり分の距離を空けて並び立つ。私も今は仕事なんてどうでも良かった。丁度あんたとくっちゃべりたい気分だったから。

 私は本棚に向かい、独り言を呟くように声を出す。


「本、好きね」

「ああ。君もな」


 私の左耳に返事が届いた。今一度、温度を感じない美麗な横顔を観察する。『彼』が存在してる、なんてしみじみと思う。不思議と気持ちが凪いでいるのだ。私はそんな安らかな心のまま、疑問を口に出す。


「なんでなの? その感じだと昔から変装して図書館に潜ってたっぽいけど」

「……それを聞くと長くなるぞ。良いのかい?」

「やった。答えてくれんのね」

「物好きだな……」


 ふうと息を吐いて本を閉じると、こちらに目線は向けないで、氷のような横顔は語り出す。私は幼子のように胸を踊らせて待つ。これまで嘘や誤魔化し続きだった彼が一体何を話すのだろうか。

 棚に並ぶ図書の列の一点――いや、ここではないどこか遠くを見つめる()んだ瞳。空や湖の深淵よりも深い青色に、私の目は釘付けになる。



「無知な人間は幸せだ」


 その一言から、彼の言葉は次のように続く。


「無知な人間は幸せだ。狭い世界で直感だけを盲信して、それ以上の大罪の無いことを自覚せず……己は全てを知っている、正しいと思い続けて生き、満足して死ぬんだからな」


 冷たくも落ち着いた口調には、冷酷と慈愛、そのどちらもが同居している。そんな気がした。


「……確かに、何も知らないと自分勝手に振る舞って、周りに迷惑かけることもあるもんね」

「だが僕は、無知の無自覚以上に不自由で不幸せな状態があるだろうかと思う」

「ん? なんか矛盾してない?」

「本人は充足しているだろう。しかし、傲慢に満ちた偏見の色眼鏡でしか世界を見渡せないなんて、哀しい奴だと思わないか?」


 内容が哲学チックになってきて置いてけぼりになりそうだ。難解。でも納得はできる内容で、素直に私は相槌を打つ。


「自分でも他者でも、知らないことがあったときは謙虚でいろってことね。それに、まだ知らない事の中に楽しい事があるかもしんないし……」

「ああ。しかしながら難題がある」

「なによ」


 目が合う。それは真摯で理性的な眼差しだった。


「例え己の無知を自覚し、挑戦の心で知の地平を拓いたとて、この世には未知が多すぎる。知らないことの多さに、恐怖に、常に雁字搦(がんじがら)めになっているんだ」

「あー。あんたの場合、どんだけ頑張って研究しても謎がどんどん出てきて嫌な気分になるとか」

「その通りだ。気象を少し(かじ)ってるんだが、例えば雨の降る仕組みを解明できても、それがどんな場合に発生するかはわからない。数分後の天気の予想なんて困難の極みだよ」


 流水のように饒舌な口ぶりだ。『彼』にはこんな一面もあったのか。


「研究者きつすぎるのね……あっ、今度から普通に話してよ」

「何のことだ?」


 脱線に次ぐ脱線に、子供っぽく目を丸くした『彼』が訊いてくる。研究の話は意地悪して秘密にする程のことじゃないという(むね)を伝えると、やっぱり『彼』は眉を曇らせた。


「僕に自分語りをする度胸は無いぞ」

「私は興味あるんだけど?」

「参ったな」

 

 うーん、(らち)があかない。目を逸らされたので「もう逃げんなよ」と軽く引き留めれば、「わかった。誓うよ」と意外な返事があった。言質とったぞ、忘れないかんな。



「……何の話だったか」

「あんたの『わからないこと』って、他にどんなのがあるの?」

「当然無際限だ。もし一つ挙げるなら、目の前にいる君がどんなことを考えているのかとか……そんなところかな」


 再び私の顔をちらりと見てから、次に手元の本の表紙に目線を移す彼。


「その点、文字は……本は『答え』を与えてくれる。忘れてしまう生き物が、忘れないように記しておくんだ。これは、言葉、思想、知恵、情報が時空間を跳躍できる唯一の手段だ。当然人の書いたものだから、多少の誤りや脚色はある。しかし、ひとたび本を開くと追究できるように思えるんだ。

 世界の(ことわり)について考え尽くした知の結晶や、その場では見聞きしていなかった偽りなき事実。

 そして、人の感情とは何か。

 ……だから僕は、本が好きだ」


 人の感情、と声に出したときに青い瞳が濡れた気がした。彼が一番知りたいと(こいねが)うのは、それなのかもしれないと思った。

 やがて彼の話は締め(くく)られる。消えそうに(かげ)(ほの)暗い笑みを私へ向けつつ。

 またこれだ。どうして彼はそんなに哀しく笑うのだろう。



「君も……そして僕も。知らないことを放っておけない性分は、似た者同士だね」



 つまり、身分も性格も仕事も全く相容(あいい)れないように思える私と彼の間にも、共通点があるわけで。少し色めき立ってしまう。

 知らないことは知りたい。私もそうだ。なら、彼の隠す全てを知りたくて(たま)らない私のように、彼は私のことを知りたいとは思わないのだろうか。

 再び胸の底から、水中の気泡のように上へ昇ってくる(むな)しい問い。理性が止める間も無く弾けた。



「じゃあ、私のことは?」

「君がどうした?」



 平気そうに訊く声音に、私はしばらく黙りこくってしまった。


 いや、これじゃ御影(かれ)が好きみたいじゃないか。私のことをどう思ってるか聞くだなんて、相手の好意を求めて『良い答え』を待つしかない純粋な少女かよ。


「……えーと。なんでもないの」


 自分の顔を手で隠した。当然、その日は彼の顔を見られなかった。


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