答え合わせ
また別の秋の日のこと。私は図書館へ繋がるいつもの道を行く。
突き抜ける群青の空の下、時期尚早な茶色の落ち葉が舞ってどこかに消えていくのを見た。日中はまだ暑さが厳しくて、あんまり好きじゃない季節だと心から思う。
今日は少しだけ湖の畔にも寄った。湖面に鏡のように映った底抜けの空が、溜まっていたフラストレーションを和らげてくれた。
利用客として書架を徘徊し、お目当ての神学の本を小脇に抱えていざ借りようとしたところで、久しぶりに『彼』に遭遇した。出逢った頃からちっとも変わらない立ち読み姿だ。もう七日は喋ってなかった気がする。壁ドン事件の後「もういい帰る」と私は彼を振り払い、それから会えていなかったのである。
そんな中、私はあることを秘密裏に進めていた。実は『彼』の気になったことや疑問を夜な夜な紙に書き起こし、このタイミングで問いただして追い詰めてやろうとしていたのだ。もうやけである。……ご本人から指摘されたからとかいうツッコミはナシで。
ズボンのポケットを探り、二つ折りの紙を取り出す。今日はこのメモを頼りに、激しく狂うような想いをぶつけるのだ。
「耳傾けやがれ!」と前置きして、私を無視して読書を続ける『彼』に質問を乱暴に投げ掛ける。
「あんたってさ、ほんとに人間?」
「……愚問が過ぎるだろう。見た通りだが」
「じゃ、あの魔法は何よ。姿変えるやつ」
「君みたいな奴から逃れる手段のひとつだ。この容姿では目立つから何かと不便なんでね」
「違う! メカニズムを教えろってんの」
「それは僕自身もよく知らん。突然手に入れた力だからよく解っていないが、変えられるのは外見だけだ。実体に変化がある訳じゃない」
と、また私が喧嘩腰になったり。
「前、走れないって言ってたわね。本当に体弱いの?」
「弱い。昔は病気ばかりだったよ。今は比較的強くなったかな」
「えーと、あんたって貴族の血筋なのよね?」
「……父は叩き上げの軍人で、母は神職だったんで家柄もそこそこか知らないが……そんなのは大した話じゃない。昔のことだ」
「そんなの初めて聞いた。育ちはどうなのよ」
「少年期から青年期にかけては、後見人や仲の良い召使いと一緒に暮らしていたよ」
「じゃあ、今はひとりぼっち」
「そうだな」
と、私だけ少ししんみりとしたり。
「あんたさぁ、昔学院で教員やってた?」
「どこでそれを知ったんだ」
「答えろよ馬鹿」
「さあな。人違いというやつじゃないか?」
「兄弟親戚は!!」
「もう居ない。君が見かけたのは他人の空似だよ」
「へっ確定じゃん。やってたんだ、やっぱ」
「……そうだとして、一体何を考えるんだ」
今度は『彼』が訝しげになったり。
「仕事今、何してんの」
「前に話さなかったかい。研究をしてる」
「嘘つきの学者……」
「そこは線引きしてるよ。改竄剽窃盗用の類いは文字通り論外だ」
「で、なんの研究なの?」
「君に理解できるか?」
「じゃ、砕いて説明して」
「月鏡近辺の災害実績の調査。野外に出て気象や地質を観ては、遺跡や古文書まで漁る」
「ふうん……」
「今は理学的にここの歴史変遷を読み解く研究がメインだ」
「絶対嘘でしょ!」
「何がだ」
「仕事よ! 何か他にやってるんでしょ、人には言えないようなヤバいこと」
「そんな訳あるか。聞き捨てならないな」
「教えろよ」
「……教えないよ」
互いに不機嫌をぶつけたり。
「あの彼女っぽいの何!!」
紙上の最後の箇条書きが目に入った瞬間、私は叫んだ。これが本命の質問、何度でも確認しておきたい、放っておけないことだった。
『彼女』というのは無論、真っ白なロングヘアの女の人のことだ。ネクタイを結んだ男装の麗人。この男は王子様のような姿に化け、私の知らねえ女性と何度も何度も密会している。
「彼女……」
『彼』にしては拍子抜けした声。一貫して本から目を離さず淡々と答えを寄越し続けていたのに、反応が突然変わった。ついに顔を上げて、今日の空よりも蒼い双眸を丸くして私を見つめてくる。
「け、結構会ってるみたいだけど? 私何回か目撃したわ、教えろよ」
「具体的な容姿を説明してくれないか。心当たりが無い」
「白い……白髪のさ。すらっとした綺麗な人で、一見男装してるみたいなスーツの。ほんとに知らない?」
半分涙目になりながらも問う私。一歩距離を詰めて、惚けるなよ逃げるなよと釘を刺す。しかし、その整った顔は困惑の表情を浮かべていた。少し間を置いて、彼は眉をひそめながら忌々しそうに口を開いた。
「……冴だな」
さえ?
「なんか聞いたことあるんだけど」
「僕の旧友だ。確かにあいつは、女装しているわけでもないのに間違えられやすい。いや、わざとだろうが……だから断じて君の考える通りではないよ」
「どんな人? あんたと私の想像、一致してる?」
「見た方が早いな」
すると、彼はダイヤモンドダストのような光る粒を纏って、見かけを魔法のように数瞬で変えてみせた。
白いぼさぼさの長髪に金色の片眼、長袖を腕捲りにした黒いワイシャツに揃いの色のズボン。靴は革製だ。精巧な変装、いや変身?能力はやっぱり意味不明だけど、今はそういう場合じゃなくて。
「……うん。そう。この人であってる」
その姿を舐め回すように見てから、私はぎこちなく頷いた。
「当たりだな。君のこれまでの言動の原因がよくわかったよ」
「出会いたてのときも、満月の夜にわざわざ化けて待ち構えてたわよね。今思い出したわ」
「そう、だったな……」
『彼』が視線を逸らしてまごついた。珍しい。
「後ろめたさ感じてる?」
「複雑な気分ではあるよ」
あれ。まって。
じゃあ、この前『彼』が放った『私以外に頻繁に会う女性は居ない』という言葉は本当だったんだ。情報過多に眩暈さえする。そうしている内に彼が元の姿に戻り、水面に落とした雫のように、ほつりと云った。
「君は何も語らないのに、僕のことは知りたいのか?」
くらつきはピタリとおさまる。機能してなかった視覚が彼の本物の立ち姿を捉えて、何を思えばいいかすらわからなくなった。
私の前に立つ相手は、眉も口端も変化なしで。切れ長の青い目もいつもと同じ。細められることも広げられることもなく、ただ真摯に私を射抜いている。やっぱり蒼眼は吸い込まれそうに美しい。
そう、それはなんでもないことを聞くときの『彼』の表情。それが私の感情を揺さぶって。何故か目の奥が熱くなって。
内臓がずんと重くなる。息の仕方をふいに忘れる。
だって、尤もだったからだ。
私だって他人に言えるほど綺麗な過去は無くて、話せば『彼』にも距離を置かれると思う。自分のことを話したくない気持ちは痛いほどわかる。語りたくない。私もそうだ。
でも『彼』はそれが極端だ。だからこそ余計に詮索したいと思ってしまう。迷いながらも本当はすべてを打ち明けたがってるように見えるから、私はもっと踏み出してしまう。
知りたくて堪らない。過去も人柄も好きな物も嫌いな物も、隠そうとすることすべて。残さず知り尽くして、空虚なこの心を埋めたい。何故なら『彼』がずっと好きで、気になってしょうがないから。
じゃあ、あんたは。
なんで訊かないの? 私を知りたくないの?
興味なんて、本当はないの?