圕の亡霊2
亡霊のような彼は、相も変わらず図書館に現れた。
銀の髪に、淡い月の色に似た上衣を揺らして。
ふいに姿を見せて書架から本を引き抜き、立ち読みをするルーティンまではいつもと同じ――だったのだが、あの一件以降彼は私に声を掛けてくるようになった。しかし、この一見神秘性だだ漏れの男は口を開くと残念なタイプだったようで。
「お前はいつかのぼんやりしてた……誰だったかな」
「……はァ?! お前って何よ、あんたに名乗る名なんかないわ!」
「ああ。書架整理係か」
「違うわ、司書だっての!」
「僕ばかり見てないで仕事しろ。暇なのか?」
「してるわ仕事! 視界に入んな、気が散る!」
他人を思いやる気持ちの無さ。抑揚たっぷりに心情を乗せた低い声音。いっつもお前呼ばわりで、傲慢で尊大な口調に冷たさが滲む言葉の連鎖……。
失望した。
何が人ならざる存在だ。意思疎通もできないかと思いきや、しっかり嫌みったらしく話してくるじゃん。
この男、人間に興味がないのか、一切私と目を合わせてくれない。いや、あの青目に直視されないことは逆に私にとっては救いになる……じゃなくて、あいつは性格が終わってる。私のことが気に入らん! っていう雰囲気を隠そうともしない。顔も、多分頭も良いのに残念が過ぎる。
あの引き込まれそうな第一印象が、あっという間に上書きされたわ。
「本を片付けるくらいなら誰にだって出来る仕事だろう。低俗だな。君にはもったいない」
「は……? 本が好きだからこの仕事なの。馬鹿にすんな」
意味はよく分からないまま、私は瞬発的に喧嘩を買う。
「君は……見掛けると毎度思うが、気楽そうだな。羨ましいよ」
「何よりも根気がいる仕事だっての! 舐めんなよ」
「……君、他人に舐めてかかられても仕方ない立場だぞ」
「ていうか暇なんはアンタでしょ。私にばっか会いにきちゃってさ。ちゃんと仕事しろよ~?」
ニヤニヤと指摘してみる。今の台詞、ちょっと悪友っぽかった。しかし、男の仏頂面に変わりはない。
「勘違いされては困るな。君の見ていない所で問題なく務めは果たしているし……研究にあたって関連する文献を漁って何が悪いんだ」
「じゃあ私の居ない日に来ればいいじゃないの。アンタ私のことキライなんでしょ」
「……そんなことに気を配る程余裕がないんでね。あったとしても面倒だよ。第一、何故この僕が君に予定を合わせなきゃならないんだ?」
ぷつんと何かが切れる。
「そう思うなら、つっかかってくんなよ馬鹿!」
「君こそ僕の顔を見たくらいで喚くんじゃない」
「最初に喧嘩売ってきたのどっちだったっけ? こういうのはふっかけた方が折れて謝罪するもんなのよ!」
「謝る……僕は君に何かしたか? 暴力やらなんやら、君に危害を加えた覚えはないんだが」
無味無臭な口調に滲む困惑。いやそんなん知るか!
「しらばっくれんな!」
「しらばっくれるも何も、君が諦めれば全ては丸く収まるだろうに」
「いーや! それはぜっったいに無い!」
「子供か君は!」
「どの口が言ってんのよ!!」
「そりゃ君のことだって言ってるんだ」
「うっさい、元凶はあんただから! 二度と私の前に現れんな、バーカ!!」
受付でも本棚の周りでも、顔を合わせる度に怒鳴り散らす大喧嘩。神聖な図書館で騒ぐなと二人して先輩司書に怒られ、仕事を辞めさせられそうになることもあった。
その時、私と一緒に頭を下げる彼の言葉に、なんだか泣きそうになったのを覚えている。彼曰くこうだ。
図書館の規則に背いたのはこの私であり、彼女は罪を犯した私に厳重注意をしていたに過ぎません。その段階で、大声や周囲の利用者に不快な思いをさせる言動をしてしまっただけです。彼女に非は無く、罰せられるべきは私のみなのです。申し訳ございません。彼女とその他の従業員、利用者の方に迷惑をかけ、偉大なる月鏡の圕の名に泥を塗ってしまったこと、お許しください……。
「いや、露ほども思ってないが」
あとになって、男はそう言い放った。
「図書館は僕の庭だ。他はどうしたことない」
「何言ってんの」
「公共施設とはいえ、ここの本来の目的はそこの湖……月鏡で祀られてる水神への知識の献上だろう? ならいい。僕には無関係なルールだよ」
「訳分かんないこと言って……」
怒りを通り越して謎の感情になる私。なんかもう、ずっと振り回されてる気がする。「まず水神さまなんていないでしょ……」と、私はぶつぶつ愚痴る。
「まああれだ。ひとまず君、離職を免れて良かったよ。僕もなんとかなったことだしな」
「え、まさか逃亡してきたの?」
「そうだが」
「反省しろや~~~」
「心配無用だ、そう簡単には捕らえられまい」
「心配なんかするかっての!」
正しくは始末書地獄から逃げた、と男は恨めしげに言う。早いとこ捕まってしまえ。私は優秀だから免除だ、この野郎!
「あー……なんかわかんないけどさ、やめてよね。あれで貸し作ったつもりか知らないけど、あんたこれまで私に死ぬほど迷惑掛けてきたんだから。感謝してないから。言っとくけど、あんたのことまだ嫌いだし」
「嫌いで良い。からかいがいがあるからな。君が図書館に居るだけで十分だ」
そっぽを向いて吐き捨てるその横顔に、私は簡単に憤慨してしまうのだった。
*
そんなふうにして、毎日が過ぎていった。
冬の初めのある日、私は出勤中に月鏡の湖に氷が張っているのを見た。例年よりも早めだ。この辺りは地形の関係でそんなに雪は降らない気候だが、冬はかなり冷え込む。
今年は覚悟がいるなあとか思いながら、一般利用者立ち入り禁止の薄暗い書庫で本の整理をしていたときだった。
「ここなら書架や共有スペースのように声は響くまい……寒い中精が出るな」
「あんたのせいで気温下がったわ。萎えて」
悪態をつきながら横に目線をやると、白コートに身を包んだ彼が立っていた。
予感はしていた。彼の雰囲気が冬の凍てつく空気に似ていたからだと思う。他の司書には未だ見つかっていないのだと言って、銀髪の男はまるで少年のように悪戯っぽく笑う。
久しぶりに蒼い目がこちらを捉えたと気づき、私は思わず顔を背けた。姿を見たくない、なんて思いつつ、いつも通りのトゲトゲ口調で会話を繋ぐ。
「あんたさぁ、毎度毎度私と喧嘩しにきてんの?」
「まあ、そんな所だ」
「ふーん暇ねぇ。っていうか、ここ立ち入り禁止なのよ。入ったら犯罪だし、そもそもどうやって入ってきたの?」
「答えたとして僕に得はあるか? それに君が真相を知る必要はないし、返答不要の話題だな」
「……やっぱりムカつく」
とか言って頬を膨らませてみるも、相手にはされない。淡々と話が進んでいく。
「それにせよ、何故君は通報しないんだ。この月鏡じゃ、図書館関連は首が飛ぶ例があるほどの重罪だというのに」
横で、彼が白い息をつく気配。
「目の前にいる僕を告発してやれば君は大手柄だろうな。だから、君は不思議だ」
「…………え?」
「君には第三者的な善悪の概念がないのだろう。好奇心が湧くか否か。それが君を突き動かす大元だ」
ぜんあく、とオウム返し。
「僕は悪だ。しかしそれは、君を突き放す理由にはなり得ないのかもしれない。残念だよ」
「…………何を、云って」
白い裾がはらりと視界の隅を翻り、消えていく、ような気がした。はっと顔を上げる。
彼は居ない。
どこにも。
つい先ほどまで会話して、気配も確かに感じ取れていたのに。嘘のように消えている。ただでさえ低い書庫の気温が急激に下がった。
背中が冷えて、そのまま顔が、手が、足が凍って固まっていって……それを無理やり振りほどくように駆け出す。足音を殺し、書庫を縫うように彼の姿を探して回る。
上がった息の音と加速しきった心音が、耳の奥で大音量で反響している。体が熱く、冷たい。
名を呼ぼうとしてさらに焦った。
彼の名前を、知らない。