月鏡 血の歴史
図書館にて、私は古びた木机の上に紺色の分厚い本を置く。表紙に描かれたしるし――白い三日月に本のシルエットが組み合わされている――は、月鏡を象徴する紋章である。本日休みの私が借りた本の題は、『月鏡 血の歴史』だ。物騒極まりない。
何故この本を広げているか。
そもそもは、親友のユーリが歴史の先生がどうこうとか言っていたことが始まりだ。実際のきっかけになったのは、返却図書の整理中に月鏡の歴史をまとめた本を見つけたことだった。
この本には例の『カンナギ』についても少し書いてあるようだし、こうもタイミングが重なればもう調べるしかない。ある種の運命に背を押された心地で、思わずこれを手に取った次第だ。
劣化で少し変色した厚紙に刷られているのは、所々薄れて滲んだ文字の連なり。そして年表。色褪せた挿絵も添えられていた。
月下に広がる湖。紫の宝石の首飾りとマントを身につけた、身分の高そうな身なりの男性。その横に描かれたケープを纏う女性は、いわゆる巫女っぽい。大きな石造りの社の絵もあるが、これはついこの前の祭で儀式が行われた場所だろうか。
席に腰を落ち着けながら本の文字をどんどん追っていく。あ。なんか見覚えがある字体だ。表紙の題は現行の言語なのに。
そうだ。これ、月鏡において日常会話で使われることのない言葉が混ざってる。多分滅びた方言だ。なんで読めるんだろう。幼い頃に母の読み聞かせ絵本で見たんだっけ。
でもこれ、書き手の感想やら考察やらも交えて長々と書いてあって、宗教っぽいのが鬱陶しい。ざっと読んでから、内容を文章に書き起こして要約してみようか。概要を作るのは長期記憶に良いとも言うし。
【月鏡では古来とある民族が小さな集落を作って、雪と雨の神『水神さま』を崇拝していた。神と交信し、その言葉を民衆へ伝える巫を代々輩出する家系は、今も存在する。
あるとき(現在から500年前)、遠国のレダ国からカイルという名の王子が国民を百数人引き連れやって来た。月鏡の民は王子らの支配を受け始めたが、当然反発して諍いが起こった。レダによる支配、戦争、月鏡の民による支配、戦争……その末に両者は多大なる豪雪被害を受けた。言わば『神の怒り』を機に、争いをやめ、互いの文化や存在を尊重するようになったという。
豪雪を神によるものと信じたカイルは、命の次に大切にしている本を神に捧げた。以前までの生け贄に代わり本や知識を供物にする文化はこれが発祥で、それゆえに膨大に増えた本を所蔵する図書館が建ち、知を追い求める機関(=学校や研究所)がその周りにできた。結果、月鏡の神は知も司るものになった】
――こんなとこか。己の字が横書きされてある紙を広げて頷く。
解釈も分かれるだろうし、いち文献を鵜呑みにするわけにもいかない。他も読み漁って擦り合わせたい。歴史というより、やっぱり若干神話とかお伽噺チックだった。
私としては気になるのが、この『神に名を与えたのはカイルだ』という一文(要約には含めなかったけど)。
名前……? なんだっけ。
水神さま、は本当の名前ではないし。ここの人は畏敬のあまり名を呼ぶことさえ避けるから、さっぱり忘れてしまった。他の本なら載っているだろうか。
さらに、たった今この地域一帯を支配しているのは月鏡の民のほうだ。水神さまに関連する祭や儀式が盛んなので一目瞭然。ではレダの血は衰退してしまったのだろうか。カイルたちの持ち込んだ風習は残っているが、その末裔が今どうしているのかは知らない。この本だけでは古すぎて分からないな。
ああ悔しい、知りたい、もっと読まないと、
「おい。閉館時間だぞ」
「え! あっ……」
抑揚の少ない声に、一気に意識を引き上げられた。
くしゃくしゃになった要約の紙を片手に本に齧り付いていた私。その右隣に悠然と立つのは、当然『彼』だった。
着丈の長い服の純白、その差し色の群青、束ね髪の青っぽい銀。そして、こちらを見下ろす眼の鮮やかな空色。左足に重心をかけ、若干傾いて立つ様に目を奪われる。
――よく私の前に出てこれたわね。
「時間も忘れる程没頭していたのか。他の司書が困っていたよ、声をかけても反応しないと」
「あんたかよ……びっくりさせんな」
「日が沈んだ。閉館の時刻はとうに過ぎているよ」
表情を見られないように、私はぷいと顔を逸らした。礼を述べる声がつい尖る。
「あっそう。ありがと教えてくれて」
「いや……君の脳、僕の声はちゃんと聞こえるつくりになってるんだな」
「うるっさい! 閉館ならてめーも帰れよ。てか、そもそもなんで追い出されてないの」
「言われずとも帰るよ」
「はん、勝手にしろよ。家あんの?」
乾いた喉、張りついた口でつらつらと喧嘩の文句のやり取り。無感情なのに言葉選びだけはからかい調子で焚きつけてくるので、私はお望み通り悪たれ口をたたきながら席を立った。分厚い本に紙を挟んで鞄に入れてから、『彼』に向き直る。
「あるぞ。針葉樹林の中、小屋で一人暮らしだ」
「……どこよそれ。メルヘン? 童話?」
「町の外れだよ。まさか押し掛ける気か?」
「んなわけあるかい!!」
真剣な顔で訝しげに問う『彼』に盛大に噛みつく。そのまま「高貴な身分のあんたならお手伝いさんとかいそうなもんなのにねえ」とからかうと、「煩わしいだけだよ」と返された。
私はふーんと適当に相槌を打つ。そうしながら、提案する。
「そうだ、あんた暇でしょ。こないだのアレなかったことにするつもり?」
「何だそれは」
『アレ』とは、今から一週間前に取りつけた食事の約束のことだ。
私の望み薄の誘いを『彼』はなぜか快諾してくれたが、なんと私の方が直後に逃げ出してしまった。父親以外の男に生まれて初めて頭を撫でられたことに錯乱したためである。そのせいで、約束は自動的に無かったことになっていた。そんでこの男は追ってなかった……来られても困ったけど。
「言ったでしょ、ごはん行くって!」
「ああ。君が逃げなけりゃ行く予定だったが」
「嘘つけ! じゃあなんで追いかけてこなかったのよ」
「気が休まるかと思ってああしただけなのに、思いの外暴れるからだろう。一体どうしたと思って思慮を巡らすうちに、君が去ってしまったんだ」
私は彼の顎のあたりをじっと見つめる。不信感を込めて。
「もっとマシな言い訳しろよ」
「体が弱いほうだから、突然走ったら支障が出る」
「はあ? 酷くない、それ」
「どうとでも。ただ恐ろしく速く逃げる君を追えなかったのは確かだ」
真顔で飄々と、のらりくらりと言及をかわし、言い逃れを続ける『彼』。沈着ぶりと偉っそうな言葉選びに腹が立つ。すかすのはやめて、いい加減本音を教えてよ。私はこんなに必死なのに。
でもいつの間にやら、最初のような嫌味たっぷりな物言いはもうしてこなくなっている。スムーズに会話が進むようになった。相変わらず翻弄されて、喧嘩腰にはなってしまうけれど。
と、『彼』が無表情に訊いてきた。
「どうする? 君次第だ」
「なにが『君次第』よ。主導権は基本あんたでしょ!」
それから私たちは図書館を出て、夜の始めの街並みを口喧嘩のままに並んで歩いた。で、結局入ったのは私がこの前ひとりで食事した店だった。謎の二人組を見かけたあの蕎麦屋だ。冷たい蕎麦は好物だけど、『彼』はそれを知ってか知らずかここを選んだらしい。
食事では目立った喧嘩、いや、会話もなく無言が続いた。何もなかったし酒もなかったし。
でも、間違いなく穏やかな時間だった。