水際立つ姿
今、月鏡は春と夏の間の過ごしやすい季節……だけど私はそれどころではなかった。
あの食事から十日ほど経つが、頭の中では四六時中彼のことが巡っている。北極星の周りを星々が回るように、『彼』を中心に彩度をもった渦がぐるぐる、ぐるぐると。
ぼんやり物思いに耽って仕事が手につかなくなり、また上司に叱られてしまった。ほんと非道だわあいつ。
しかし、その彼は最近私に喧嘩を売りに来ず、姿さえ見せない。逃げやがって。暇に見えても実は忙しいのだと思いたい。本当はなんの仕事してるのか未だに知らないし、今度聞いてみようか。
ちなみに昨日、もしかしたらと期待して例の飲食店にも顔を出してみた。彼が別れの挨拶に「飯が旨かった」と付け加えたのを覚えていたからだ。でも気配は感じなかった。音沙汰なし。なぜだろうか、勝手に胸の奥が痛んだ。
――――ほら、また考えが通過していく。
あの日の別れ際、「これきりだ」と念押ししてきたのは本心だったのだろうか。この食事で僕のことは諦めろ。もう二度とは会わない。そう言いたかったのだろうか、と。
当然そんなこと、私は許さないけど!
そう。そのくらいじゃへこたれない。それが私。
あいつはぜーーったいに私が落とす。秘密を全部暴いてやる。なにせ言質はあの満月の夜にとっているのだ。決心は固い……!
とかなんとか、考えて。意識を現実に引き戻す。
今日、図書館は祭事で休みだ。必然的に私の仕事も休み。月鏡の街が広がる南側の対岸、つまり湖の北には大きな神殿があるのだが、そこで水神さまに関連する儀式があるらしい。詳しくは知らないけど。
私は友人と連れ立って儀式の一部始終を見届けつつ、祭りに合わせて出店される屋台で買い食いでもする予定だ。けど、その友人はまだ来ない。図書館前で待ち合わせようと提案したのは彼女だったのに。暇だと『彼』のことで頭がいっぱいになるから、一刻も早く来て欲しいな……と思いつつ、キョロキョロと辺りを見渡す。
その時ふと、目に留まった。
遠くに『彼』の姿を見たからだ。
湖に流れ込む細い川に架かる橋、その凝った意匠の白い欄干に、彼がゆったりと背を預けている。普段は銀色の髪と白い上着は、夕焼けの光を受けて黄昏の色に染まっていて――――。
そういえば、あの辺には祭りの本部があったはずだ。ひょっとして儀式に参加するのだろうか。傍に北方さんもいて、何か会話しているらしい。北方さんはジェスチャー過多でにこにこしているが、彼は難渋するような表情だ。
ここで何気に、図書館以外で『彼』を見るのは初めてだということに気がついた。あんなに目立つ容姿なのに今まで外で見掛けたことがなかったのは、例の魔法で姿をくらましていたからなのだろう。その魔法が何由来なのかはさっぱりだけど、こればかりは北方さんにも本人にも聞けそうにない。
でも、あれがやれるならわざわざ私に会いに来て喧嘩なんてしなくてもいいんじゃなかろうか。本当に突き放したいのなら、一切姿を見せないで私の前から失踪してしまうのが最善手のはず。それを喧嘩しに来てるってことは、相当私のこと好きでしょ――――。
ここまで考えて恥ずかしくなったのでやめた。
ないないないあり得ない。私の馬鹿、いやあいつが馬鹿。
「シャル、シャルぅーー!」
遠方から高い声。再び思考の海から意識を引き上げてその方向を見やる。
快活っぽく外に跳ねた、淡い金のショートカット。露出の多い上服にゆったりとしたロング丈のキュロット。いわゆるまろ眉にキュートな丸型の目。
ハイテンションに手を上げて駆け寄ってくる彼女は純江悠璃。私の友人で、学生時代の同級生だった。
ちなみにシャルというのは、彼女につけられたあだ名だ。さとる→シャトル→シャルというふうに変遷して、もはやもう別人である。
「ごめーん。道草食ってた」
「またぁ?」
「許せシャル。あれをやらんと死ぬのだよ、わたしは」
「まああんたの趣味だし全否定はしないけどさ」
私はちょっとはにかみながら手を振り返す。なぜかユーリは決め顔だ。
「だってアルビノっぽいクール美形と黒髪ワンコ系イケメンが談笑だぜ~~? 目の保養でしょうよ」
「んーなんか知ってるな、そいつら」
「髪も肌もしろーいの。初めて見たよあんなの。太陽の光とか大丈夫なんかな。んん、いい! 病弱……!」
「私あんたが怖いんだけど」
「アルビノの彼はお初にお目にかかるわ。旅人……いや隣国の王子様かも。あると思います」
「ないと思うよ……」
ユーリはかなりの面食いだ。面の良い男どうしが絡んだときなんかはめちゃくちゃ発狂する。そんで私が呆れるくらいの妄想癖持ち、奇人、突飛でユニーク。これでも今は学校の先生をやっているのが恐ろしい。だけど相性も趣味も合うので、学校を卒業した今も一緒に食事をしたり、こうして出掛けたりするのだ。
私はほぼ一方通行の会話の隙を見計らって、『彼』と北方さんのいるほうを盗み見る。
――――あれのこと、だよな。
王子? は? そんなわけあるかいと心の中で改めて全否定。あんな、あんな野郎。馬鹿で意地悪くて腹黒くて臆病で馬鹿で……罵倒の文句ならいくらでも出てくる。
一方、メンタル激強のユーリは私に少しきつく言われてもスルーして、ひとりでぶつぶつ喋り続けている。
「えっ知ってるってマジ??」
……かと思ったらずいと身を乗り出してきた。
「何が?」
「アルビノの彼と黒髪の子と!」
「質問きたわね。大分前の話題よそれ」
「答えな」
圧をかけてくる。私はぷいと視線を逸らすしかない。
「た……ただの知り合い」
すると、ぐわっと肩を掴まれて、前後に大きく揺さぶられる。
「おい~~シャルぅなんで教えなかったよわたしに!」
「なんか、なーんかイヤだった……」
ん? なんで?
「そう? まーいいけど」
「……あんたの寛大さには救われてるわ」
肩を優しく撫でられてから解放される。彼女は機嫌良さげだ。
「でね。アルビノのほうさ、なんか似てない?」
「誰に?」
「学院通ってた時の非常勤の先生! ほら、1ヶ月だけいた、歴史の……ああでも名前忘れた」
大げさに腕を組み、灰みがかったヴァイオレットの目を閉じて頭を捻るユーリ。私も首を傾げる。
『学院』というのは、月鏡の教育機関の最高峰だ。数年前に私もそこを卒業して、もろもろあって司書になった。でも昔のことなんてもう覚えていない。過去や思い出を記憶から抹消してしまうタイプだからだ。
「いたっけ。人の顔とか名前とか、髪の色でもほんと覚えらんないから」
「ぜったいいたよっ! 思い出せシャル~~」
「でもそれ教職課程の必須科目でしょ。授業私受けてないかも」
「そうかぁ……」
もろに悲しそうだ。というわけで、ひとつ提案する。
「じゃあさ、ちょっと口頭で教えてよ。どんな先生だったのか」
「えーとえーと、彫刻美術のごとく美しきかんばせ、月鏡に反射する月光を想起させる銀のお髪に、そして吸い込まれそうなほど蒼い御目ぇ! すらりとした手足に、無愛想で冷徹な表情ぅ! ただひたすらのイケボに一見粗暴だが論理的で語彙に富んだ言葉遣いぃ! 生徒だった私を陰ながら気遣うやさしs」
「ちょちょ一旦止まって、早口聞き取れねえ。そんで語彙すごいな」
「んえー! まだ語り足んないんだけど。わたし小一時間はいけるよ」
「まって、思い出す……」
両の拳を握って嘆くユーリを視界から追い出し、うーん、と少し考えて。
あ、確かにいた。かもしれない。
瞼の裏に浮かぶのは、青みがかった銀髪をひとつに結んだ眼鏡の美男の横顔。休憩時間、教室の移動中に学舎の廊下で一度だけ背の高い姿を見かけたような気がする。
でもあれは数年前だ。学院の臨時講師をやっていたとしても、当時の『彼』の年齢は今の私と同じか、もしくは若いはずだ。そんな若さで最高教育機関でものを教えるなんて例は聞いたことがない。
というか、あの性格で先生なんて職業ができるのだろうか。人間嫌いな彼が人にものを教える想像がつかない。そもそも彼は、本の好みを見る限り歴史よりも科学に関心を寄せているみたいだ。なんとなく筋が通らない。
他人の空似、親戚か、兄弟か。
……本当に『彼』なのだろうか?