夢のような食事会2
大方無言のランチを終えた。会計時には一応小さくお礼を言ったが思いっきり無視された。で、結局酒は一滴も飲んでくれず。私は何をしていたんだ。秘密を吐き出させる絶好の機会だったのに、と下唇を噛む。
店の入り口を出た所で、『彼』が白衣の裾を翻して私に向き直る。そして、こう切り出した。
「君とはこれきりで良いな」
「はァ!? なによそれ」
もちろん私は息巻いた。
「悪いが暇じゃないんでね。これで止めにしろ」
「勝手に決めんな!」
「君に僕の予定を狂わせる権限はない。大体な、突然飯に誘う奴があるか? 空きがなかったらどうするつもりだったんだ」
「……じゃあ予定入る遥か前に誘ってやるわ。ドタキャンしたら泣くから!」
あの時、感情が抑えられなくなって人目も憚らず大泣きした私に、あんなにも柔らかい抱擁と言葉をくれた彼だ。思い出すとまた照れ臭い。だから、この脅し方は効果てきめんに違いない。勝ち誇ってつい口元を緩めた、次の一拍。
「そんなに君は、僕が好きか?」
え。
脳内処理の末、一秒もしない内にその意味を理解して。
言葉に詰まる。息をするのも忘れたように、ぶわっ、と混乱して語彙をまっさらに失う。
脳裏のスクリーンに鮮やかに投影される、『好きで悪いか』と顔を赤らめる場面。あの満月の夜の情景と音響。私の思考回路がダメになっていく。
返答に困るうちに頬がどんどん上気してきた。それを両手で覆って、私は無意識の内にゆっくりと俯いている。そんなふうに体が動いたのは、真っ赤に染め上がっているだろう顔を隠したかった、だけじゃない。
見てられなかったからだ。彼の表情を。
小馬鹿にしたような言葉尻と反対に、切なく儚く、どこか哀しさを漂わせる笑み。あんなの初めて見た。
「どれだけ会いたいんだ。ただ喧嘩をしているだけの相手に」
と、言葉を紡ぐ彼。少し呆れたような、なぜか泣きそうな、しかし穏やかな声色。
街の喧騒の中で、その声だけは私の耳にはっきりと届いた。いや、彼のかすかな息遣いやためらいさえわかるほどに、私の世界の音はそれ以外に存在しなくなっていた。
きっと彼の声は特別なのだ。秘めた感情を音に乗せ、私を揺さぶり乱れさす。身体中に無数にある細胞のひとつひとつから私を狂わせる。悪魔かなにかなのか、こいつ。
そして。
……今、どんな顔をしているのだろう。私も、彼も。
ふ、と彼が息をつく音が聞こえた。
「……本気にするな。君はなんでも真に受けるから。じゃあな、飯は旨かった」
駆け足の別れの挨拶の後、彼の黒い靴、服の裾が視界の外へ出ていく。既視感を覚えて焦ったが、まだ私の体は顔を上げたがらなかった。
彼のテノールが空気に溶けて消えていくのが惜しい。小瓶か何かに閉じ込めていたい。馬鹿馬鹿しいけど、一瞬そう思ってしまった。悔しい。
――――引き留めたい。
「おい馬鹿!!」
「誰のことだ」
「またっ……また誘ってやるから覚悟してろ!」
「暇かー?」
「あんたこそ、どんだけ私好きなの!」
「声が上擦ってるな。はてさて説得力の無い」
「うるっせえ!!」
声を裏返らせながら叫ぶ。彼の楽しげな声は遠ざかっていく。また彼が去るのを目の当たりにしている訳だが、置いていかれたとは思わなかった。去り際は毎度空っぽにされてしまう心が、今は感情で充ちている。
私を抱擁した時もあんな顔だったんだろうな。そんな考えに至るような、伝染する物悲しさ。また彼に簡単に翻弄されたことに気付いて沸き上がる悔しさ、憤ろしさ。どれもが、今この瞬間の私のからだに同居している。
ああ。もうひとつあった。
『好きか』と問われた時からずっと、心臓と肺を締め付けながらも気分を高揚させているこの感情。体の内臓全部が数センチ上がった、みたいな浮遊感。なんだろう、これは。気分がおかしい。酔いそうだ。
いや、今は冷静に分析してる場合じゃない。私は唇を引き結び、思いきって視線を上げる。
よかった。彼の白い背はまだ目に入ってる。そう安堵した矢先、道を行き交う人に横切られた次の瞬間。
その姿は幻のように消え失せていた。