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圕の亡霊


 それは、銀嶺に囲まれた鏡うつしの湖、『(げっ)(きょう)』。

 その壮麗なる湖の(ほとり)に建つ『(きょう)(りつ)図書館』で、私黒廼(くろの)(さとる)は駆け出しの司書として勤めている。


 白いブラウスに紫の宝石のブローチ、そして制服のエプロンスカート。この国の平民階級出身でありながら勉学に励んでエリート揃いの職業に就き、『幼い頃から本だけが友達だった』私にとってはまさに誉れとも言えるこの格好をするようになって早一年。

 季節はもう秋の終わりだ。北風が少し肌寒いなんて思いながら、いつものように図書を配架していたときのことだった。



 ――視界の端に白が揺らめいた。



 ふ、と目線を寄越す。ぞくりと寒気が走った。

 ひとならざるものを思わせる異様な何かが……私の少し歳上くらいの若い男の(かたち)を取って、書架の本を手にしているように思えた。


 背は180前後の細身だ。着丈の長い白いナポレオンコートをかっちりと着込み、両手には薄い素材の黒手袋をはめている。青みがかった白銀の髪はきつめのハーフアップ。長い前髪がかかる白磁の肌。左耳には三日月型のイヤリング。

 顔は……寒気がするほどの美人だ。一瞬女性に()(まが)った。しかし、凛々しい眉と冷ややかな目元、体格を見れば男性だと分かる。

 その立ち姿、小難しそうな天文学の本を広げて黙って視線を走らせるようすは、(まばた)きひとつすれば見失いそうで、それでいて氷のように張り詰めた明らかな存在感を放っていた。


(誰、だろう。人間ぽくない。『水神さま』だったりして…………)




 水神さま。学問や教育の盛んなこの国で、古くより信仰される蛇神。


 この鏡立図書館は、水神さまのために建てられたと伝わっている。日常の中で神の加護を受ける代わりに世界中から莫大な本を収集し、供物(くもつ)として『知』を捧げる。いわば神の記憶に等しいものとして、過去の(えい)()の積み重なりを500年前から現在に至るまで保存しているのだ。その本を管理するのが、私たち司書である。

 

 しかし、その苦労を吹き飛ばすくらいに()()()()、まことしやかな伝説が存在する。


 普通の利用客に紛れて本を読みに来る、というのだ。水神さまが。わざわざ人間の見た目になって。

 神が人前に現れるなら、きっと息を呑む美しさのはずだ。そう、ちょうどあの男の人みたいな。


(あれ?)


 居なくなってる。私が図書を配架するため目を離した、ほんの一瞬の隙に。

 まあ、上司によると、私は思考に熱中して周りが見えなくなりがちらしいし。今回もそうだろうと少し首を捻ってから、再び作業に徹し始めた。


 *


 初めて見た日を境に、男、否『彼』は図書館を訪れるようになった。昼夜問わず営業時間外でも神出鬼没に姿を現し、勝手気ままに蔵書を手に取る。そして私が少し目を離すと消えてしまう。そう、まるで亡霊のように。

 私は『彼』の声を聞いたことがなかった。私以外の人が『彼』を見たという話もだ。しかし、『彼』――(としょかん)の亡霊がいるという噂は、いつの間にか他の司書や利用者らにも知れ渡ってしまっていた。


 ここまで来ると落ち着けない。同僚には止められたが、未知の事柄はどうしても放っておけなかったので、その日も同じく現れた『彼』についに声を掛けたのだった。


「……あの」


『彼』は黙って本の(ページ)()る。蒼い双眸(そうぼう)から注がれる視線は()(ぜん)細かな文字の上。少し寒気がしたが、声を張り上げて続ける。


「ちょっと! 無視しないでよ」


 一度、『彼』が瞬きをした。そして少し顔を上げ、なんでもないようにこちらに目を向ける――(にら)まれてはいないのに息が止まりそうになった。

 その恐ろしいまでの蒼さ、奥に鈍く光る何か。まるで獲物を捉えた鷹のよう。逃げられない、と思った。


「……ああ、僕かい? 何か用でも」


『彼』が声を発したと理解するのに、数秒かかった。


 って、え? 喋った? 圕の亡霊とかなんとか言われてる、『彼』が……?


「なんだ。幽霊でも見たような顔だな」と彼が不機嫌に呟くことさえ、頭の中を素通りしていきそうになる。

 ちょ。ちょっと待って。どうしよう。『彼』が私を見ている。見掛けた時は常につくりもののような無表情だったのに、少し迷惑そうに眉をひそめて(わず)かに口を(ゆが)め、目を細めている。それを認識した瞬間に、私はふっと力が抜けてしまった。

 ああ、なんだ。人間なのだと思えて。


「…………いつも図書館に通ってんの?」


 特に聞きたくもないことが口を()いて出る。なんでもいいから会話を繋ごうとした。


「そうだ。本が好きだから」


 間を置かず『彼』が答える。心地のよいテノール。虚をつかれて私は何度も目をしばたたいた。あちらも私の質問を意外に思ったのか、美しい切れ長の蒼目を丸くしている。そのようすは、無愛想で冷徹に思われたそれまでの『彼』をいくらか幼く見せる。


「あ……あっそう」


 私は限界に達し、捨て台詞を吐いて背を向け歩き出した。あれ以上あの眼で見つめられたら、せっかく(ゆる)んだ体がまた緊張して、逃げる余地がなくなる気がした。危ないところだった。

 様子が気になって歩きながら振り返ると、頭の上に疑問符を浮かべたみたいな表情で『彼』が私の方を静かに見ていた。やっぱり少し怖くなって歩調を早め、しまいには走り出して図書館を出てしまった。




 風で体が冷える。けど、心臓が壊れたように動くせいで、内側から熱く火照(ほて)っている。乾いた空気を深く吸って吐いて息を整えながら、先ほど別れた顔を思い浮かべる。

 ダメだ。好きになりそう。いや、違うな。



 ……()()()()


 


 *


 北嶺(ほくれい)薄明(はくめい)


 *


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