殲滅のマタドール:97話 Mask of Phantom
……リー……リー……。
私の胸にはいつだって貴方が居た。顔を合わせる度に、過去の罪を思い出し……そして、獣の様に私を犯している時だってその罪悪感は消え続ける事はなかった。
施しには感謝を、そして罪には贖罪を……そんな単純な考え方のままに貴方の凌辱を受け入れていた私は、必死にその心が晴れるのを待った、待ち続けた……。
自分を憎んでほしいという貴方の気持ちにはまるで気付かずに、むしろ自分の抱えた罪の重さに押し潰されそうになっていた。
……でも、やっと……分かり合えた。
初めてお互いの気持ちを理解して、そこで初めて私の前で温かな笑顔を見せてくれた。
その時に、私はもっと貴方に尽くしたいと思ったし……何よりも、緩みきったその笑顔をもっと見ていたいと願った。
本気で貴方と添い遂げたかった……貴方が望むなら下腹部に刻んだこのルーンを削って、魔力の影響で子供が作れない今の立場を捨てても良いと思った。
……私は、貴方と……幸せになりたかった……。
だから……だから……!。
「フレデリカァァァァァァァァァァァッ!!殺す、殺す、バラバラに引き千切ってやるぅぅうううううっ!!さっさと出て来い!!」
私はあの女を、必ずブッ殺してやる……!!。
−−−−−−−
強力な重量操作の魔術を受け、懸命に藻掻くアヴィは顔を歪めつつ悲鳴の様な声を上げた。
「くっ、うぅぅぅ……なんて、無茶を……!」
「……っ……術者が死ねば、術は解ける……あの子、本気で……一人で死ぬつもりよ!……」
「……そんな事は……させません!……」
歯を食い縛りつつどうにか半身を持ち上げようと、アヴィは軋みを上げる筋肉に力を入れた。イングリットは恐らく二人を巻き込まない為に、この場所へ彼女達を縛り付けた。ゲームチェンジャーの危険性は承知した上で、本気で刺し違えようとしている。
強烈な焦りをアヴィは感じた。早くこの状況を脱しなければ手遅れになってしまうと思った。
藻掻くアヴィの隣から、涙に濡れた声が聞こえた。
「……私の事だって……かけがえのない、友だって……言ったクセにぃぃっ!……。私がどんな気持ちを向けてるのも知ってて、それで私が諦めた事だって……ぜんぶ、知ってたクセに!……」
「……ナスターシャ……」
「……私はどうでもいいの!?……アンジェラやリーに比べたらら、放っといても良い存在なの!?……う、うぅぅぅぅぅっ……」
そこでアヴィは理解した。ナスターシャもまた、特別な想いをイングリットへと向けていたのだと……。
そして、一度は諦めていたその想いが大切な人の絶望を前にして激しく燃え上がり始めている。それでも、彼女はイングリットから拒絶された……部外者として排除されてしまった。
だんだんとアヴィの胸には怒りが募っていった。
軋む腕をどうにか持ち上げると、アヴィは叫ぶ。
優秀な戦闘兵器としての能力を活かし、その状況を打開する。
「ナノマシン……展開!。変換ナノマシンを使用し……今のこの室内の重量を……中和!。私達を立てるようにしろ!」
< イエス、サー。変換ナノマシン、展開開始……重量の中和まで五秒。 >
マタドールシステムの枷を外された今の彼女は自分の意志で自由にその力を行使出来る。更に使える装備品の幅が増えた彼女は空気中に散布する変換ナノマシンを使用した。かつてゲームチェンジャーと呼ばれる存在であるクリスティーヌの魔剣にも備え付けられていたその粒子レベルの機械は大気中の様々な物質や気体を解析し、そして変換する。それはこの世界における魔力も例外ではなく、宇宙へと活動の幅を広げた人類の叡智がその構造や原理を即座に解析し、より戦略的に有利な状況を生み出すべく作用する。
金色の光に周囲が包まれた瞬間、二人の動きを封じてきた重力の魔術はナノマシンにより通常の重力へと変換される。
ヨロヨロと身を起こしたナスターシャは金色の光に包まれたアヴィを見て息を飲んだ。
神々しく輝く光が収まると、その黒髪の少女は呆然とこちらを見つめる彼女の顔を見て力無く笑うと言った。
「……私は、人間ではないんです……戦う為に生まれた兵器だった。そして、ある人の意志で此処に来ました……」
「……へい、き……?」
「……でも、今の私は変わった……人間の心が分かる様になった。誰かを好きになる気持ちも、誰かを守りたいという想いも、そして……大切な人が居なくなる怖さも……」
「……アヴィ……」
立ち上がったアヴィは静かにナスターシャの前へ手を差し出すと、彼女へ力強く微笑み掛けて言った。
「だから……あの分からず屋の顔を引っ叩いて私達で止めてあげましょう!そして、アンジェラを三人で助けましょう!」
「……ええ!そうね!……こんなにイイ女をほったらかしにした報いをあの子に受けさせてやるわ!」
その手を握り締めると、ナスターシャは全身に力を入れて立ち上がる。そして、彼女と顔を見合わせるとイングリットが消えた方向に向けて駆け出した。
−−−−−−
彼女の姿はすぐに見つかった。怒りのまま絶叫し、イングリットは一階の奥にある食堂の扉を打ち破ろうと椅子を叩き付けているのが見えた。
二人に気付くと、肩で息をしながら彼女は口を開く。
「……いったいどうやって私の魔術を……」
「そんなのはどうだっていい……もうアンタを一人で突っ走らせないわ、イングリット……」
「お前達はさっさと帰れ!危険な相手だと言うなら尚更だ!後は私だけで−−−」
その時、乾いた音を立てて彼女の頬が叩かれた。
苛立ちを覚えながら顔を向けたイングリットはそこで思わずビクリと体を震わせた。
「……一人でふざけた事言ってんじゃないわよ……この大バカァァッ!!」
再び反対側の頬が叩かれる。
両頬を赤く腫らしながら声を漏らす彼女の襟を掴み上げると、ナスターシャは顔を突き付けて相手を涙の溜まる瞳で睨み付ける。
「ナ、ナスターシャ……」
「アンタ、サイッテーのクズ女よ!!私が傷付いてるからって拒みもせずに抱いておいて、それで私が気を使って身を引いて……そうしたら今度は何?貴女の事を大切に想い続けてる私の事は一切無視して一人で突っ走って!……。アンタが死んだら私がどれだけ悲しむかも考えないで!……」
「……わ、私は……」
「……いい加減にしてよ、このサイテー女……散々私の心の中に入り込んでおいて、こんなに夢中にさせておいて……無責任な事しないでよ……!」
弱々しく震えた拳で胸元を叩くと、彼女は膝を突いて崩れ落ちた。嗚咽を漏らす彼女の悲痛な胸の内を聞かされ、若干の冷静さを取り戻したイングリットは迷う様な表情を浮かべながら助けを求める様にアヴィを見た。
「今はナスターシャに何を言われても仕方ないと思いますよ、私だって腹が立ちましたから……」
「……そ、その……」
「私よりも彼女に言うべき事があるんじゃないですか?……」
呆れと怒りに満ちた表情を浮かべるアヴィがそう言うと、狼狽えた様に声を漏らしながらイングリットは泣きじゃくるナスターシャの肩に手を回すとその体を抱き締めながら言った。
「……悪かった……お前の気持ちを蔑ろにしてしまって……」
「……うっさいわよ……バカぁぁっ!……絶対に許さないんだからぁぁ……」
「……本当に、すまなかった……」
どこか飄々とした雰囲気を普段纏っていた彼女の泣き顔は冷静さを欠いていたイングリットの心を鎮めた。
悲しいのは自分だけではないし、大切な人を失う恐怖に怯えているのは自分だけではない……。ダークエルフの少女はそう考えると報復という自身の目的を改める事にした。
涙が伝う彼女の頬を両手で包みながらイングリットは口を開いた。
「……もうお前の傍を離れたりしないから、だから……三人でアンジェラを救おう……。私があの子を救ってやる事が出来ればリーも報われる……」
「……終わったら……今度は私が抱き潰してやるんだから……覚悟しなさい……」
「……う……わ、分かった……」
狼狽えつつそう返事をしたイングリットの顔を見上げ泣き腫らした目を細めると、彼女はゆっくりと立ち上がり首を頷ける。
安堵したようにアヴィが息を漏らした瞬間、突如その声はどこからか響き渡る。
『フフ、フフフフッ!アハハハッ!よく来てくれたわねぇ、三人とも!』
その悪意に満ちた声が誰であるのか、イングリットとナスターシャはすぐに気が付いた。
「フ、フレデリカ!……」
「クソッ!何処にいる!?……」
その声は天井付近から聞こえ、何処かに隠された魔石を通して発せられた者だった。恐らく何らかの方法でこちらの様子を見ている事に気付いた三人は険しい顔で周囲を見渡した。
『この屋敷はゲームチェンジャーであるこの私の根城、世界の流れを大きく変える私の秘密基地……これから貴女達に様々な試練を与えて私の前に立つ資格があるかどうかを見極めさせてもらう!』
「ふざけないでください!何が試練だ、何が秘密基地だ!……大切な人を盾にするこの卑怯者!」
『うふふっ、貴女にはとびっきりの試練を用意したから安心して……殺人人形のアヴェンタドール?クリスティーヌといいアーサーといい、二人もゲームチェンジャーを退けてきたけど今度は上手く行くかしらね?……』
不愉快そうに眉を潜めるアヴィの様子を見て笑い声を上げると、続けて悪意に満ちた声は寄り添う二人へと向けられる。
『麗しい絆を結んだそこのお二人にもとびっきりの試練を用意したから楽しみにしててね?ふふ、くひひひひっ!』
「……気色悪い笑い方してんじゃないわよ、このゲス野郎……」
『ナスターシャ、貴女も私の計画には必要な要素……優秀な剣士と名高い西部国境警備基地の守護神様が絶望に苦しむ様が楽しみだわぁ!』
「……イングリット、こんな奴はアンタが斬る価値もない……私が首を刎ね飛ばしてやるから……」
ドス黒い欲に満ちた声を聞きナスターシャは決意を硬めた。こんな女は彼女が斬るべきではない、救いがたいこの女は自分が断罪すると……。
そして、続けて女の声は上を睨み付ける彼女へと向けられた。それまでよりも一層、狂気と怒りを滲ませながら。
『……イングリット、そしてお前にはもっと苦しんでもらうわ……。お前を壊すのが私の目的なんだから……』
「……ルーシア・バルザック……」
『……お前は絶対に生かしておけない……。勝手に異国に捨てられ、一人ぼっちで生きてきた私と違い……お前はあの男から再び愛情を受けたんだ……』
「……いったい何を言っている……」
『黙れ!!どうしてお前だけ、どうして私だけ!!……許さない、許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないぃぃぃぃっ!!……お前を壊してやる、お前を絶望させてやる!!』
その異様な怒りに満ちた声を聞きイングリットは生唾を飲み込んだ。荒く吐き出された獣の様な息が魔石を通して響き、やや間を置いて激情に乱れた声が再び響いた。
『それじゃあ私の与える試練を楽しみなさい!地下で私は貴女達の到着を待っている!……アンジェラも途中の部屋で助けを待ってるから急ぎなさい!ひひ、いひひひひひひひひひひひひひひひっ!!』
様々な感情の入り乱れる不気味な笑い声を残し声が途絶えた瞬間、突如イングリット達からやや間を開けていたアヴィの目の前に赤い光の壁が現れる。
「な、何よ!?これ!……」
「戦艦用の対ショックシールド!?こんな物まで……!」
その三人を分かつ光のシールドはアヴィの居た世界の技術だった。ナスターシャとイングリットは半透明のそのシールドに手を叩き付け、どうにか分断されたアヴィの元へ向かおうとした。しかし、まるで薄いガラスのように向こう側の風景を映すそのシールドは硬い城壁の様に強固だった。
その時、食堂の中央を挟み分かたれた三人の耳に何かを扉へと叩き付ける様な音が聞こえた。それは、アヴィの背後にある食堂の入り口から響いていた。
「ア、アヴィ!……」
「とにかく、このシールドを破るのには時間が掛かります!それより先へ進んでアンジェラを助け出しましょう!」
「で、でも!明らかにヤバそうなのがそっちに来てるわよ!」
「大丈夫ですから!私だってサシャを残して死ねない!」
尚もアヴィを心配するナスターシャの手を掴むと、イングリットは言った。
「アイツは一人でも大丈夫だ!そんなヤワな奴ではない!」
「で、でも……」
「今はアヴィの言う通り、アンジェラを助けよう!行くぞ!」
迷う彼女を引きずるように駆け出したイングリットは手近な扉を開けるとナスターシャを連れて姿を消した。
それを見たアヴィが表情を引き締め踵を返した瞬間、その巨大な怪物は扉と壁を突き破りながら姿を覗かせた。
「こ、これは……」
それは広大な食堂の天井ほどもある体高と、巨大な頭部を持つ異形の怪物だった。強靭な歯の並ぶ巨大な顎と、二本の腕には鋭い爪が生え、そして強靭な足がその巨体を支えていた。背中には枯れた枝のように骨が剥き出しになった翼が生え、尻尾にも所々肉が削げ落ちていた。
そのシルエットにアヴィは見覚えがあり、思わず叫んだ。
「ド、ドラゴン!?……しかし、この異様な姿は……」
それは以前、アヴィがダムザに向かう途中の森で遭遇した二足歩行の巨大な怪物……ドラゴンとよく似たシルエットをしていた。しかし、その異常な姿形を見て確信が持てなかった。
その怪物の肉体のほぼ全てに、グロテスクな緑の腫瘍や太い弦の様な何かが覆い……目や鼻といった生物らしい特徴を全て覆い隠していた。まるで植物に飲み込まれる巨大な建造物の様に、こうしている今も不気味な音を立てながら肉の削げた尻尾に弦が侵食していく。
よく見ると歯や爪もおかしい、白い頑丈な硬質ではなく薄く透き通る琥珀色の物質で出来ていた。
それらの特徴を相手の攻撃を避けながら見極めたアヴィはある結論に達するとその狂気の産物の正体を悟った。
「ま、まさか……アレをドラゴンに……!?」
こちらに向けて大きな口を開きながら一直線に向かってくる相手の足の間を身を屈め地面を滑りながら通り抜けると即座にアヴィは立ち上がり必要な武装を取り出そうとした。
しかし、振られた巨大な尻尾が胴へと直撃し彼女の体を壁へと吹き飛ばした。
「あがぁっ!!げほ、ぉぉっ!……」
背骨が砕け臓器が破裂する音を感じながら声を上げたアヴィが膝を突き顔を上げようとした瞬間、鈍い音と同時に偽装ボディの肉体に複数の異物が突き刺さった。
激痛と体の内側への異物感が絶叫を上げさせる。
「お"っ、ぎっ、ぎぃぃぃあああああああああっ!!……あ"、あ"ぁ"ぁ"……」
琥珀色の三本の巨大な爪が彼女の腹部を貫通し、赤いシールドの光に血液を鈍く反射させていた。短く小さな悲鳴を上げる彼女が痙攣を繰り返しながら必死に手を動かそうとすると、彼女を貫いていた爪がまるで熱に当てられた氷の様に溶け出した。持ち上げられていたその体が地面に叩き付けられ、掠れる意識の中でアヴィは久々に死を覚悟した。
小さくヒューヒューと息を漏らす彼女の視界に大きな口が広がった。
食われる、この醜く悍ましいバケモノの内部に取り込まれ……消化される。しかし、死ねば再び自分はあの力を使う事が出来る。偽装ボディの損傷が限界を迎えれば、強制的に戦闘モードに移行出来る。
静かに目を閉じた瞬間、その巨大な顎に並ぶ鋭い牙が深々と彼女の胴に食い込んだ。