消えた煙
「お疲れ様。」挨拶とも言い難い大人になってからの独特の合言葉みたいなものを言ってから雨の喫煙所でラークに火をつけた。
「ラーク好きなんだ?」尾崎さんが珍しく話しかけてきた。
「うん。色々試したけど結局これかな。」
電子タバコですら肩身の狭い思いをする中、昔ながらのタバコはさらに吸う場所さえ与えられず、会社の敷地内の倉庫の陰で喫煙者たちは身を寄せ合っている。顔を合わせるメンバーは大体同じだが、部署も違うと名前くらいしかお互い知らない。
「月末は忙しいね。」私は煙で渋い顔をしながら言った。喫煙所での静かなひと時が過ぎていく。
「ねえ、あんた経理科でしょ?おたくの課長さん、うちの若い子との浮気がバレて謹慎中ってほんと?」灰をトントンと落としながら、眉間に皺を寄せて、ニヤニヤしながら尾崎さんは聞いてきた。尾崎さんは派遣社員で昼休憩では必ず顔を合わせる。綺麗な黒髪のミニボブにタバコがよく似合う。サイベリアンとか整った猫みたいな目をした女性だ。
「浮気っていうか、本気だったみたいだよ。」しとしとと降る雨の中、尾崎さんにはかからないようにあっちを向いて細く煙を吐き出した。雨で柔らかに音がかき消された静かな喫煙所が僕には何より安らぐ。
「そっか。本気だったんだ。」
静かに呟いて、尾崎さんは最後の一吸いをし
名残惜しそうに煙を吐き出した。
「ていうか、本気って何?」
「俺もよく知らないけど、遊びじゃなかったみたい。」
「ふ〜ん。何かいい話みたいに聞こえるね?」尾崎さんは意地悪そうな笑みを浮かべて、くしゃくしゃとタバコを灰皿に押し当てた。「じゃあね。」ミストサウナみたいな雨の中、小走りに本館へと戻っていった。
昼休憩になるといつも課長とはここで顔を合わせていた。特に親しいわけではないが、虐げられた者たちとして喫煙者はどこかで連帯感を持っていた。高校生じゃあるまいし、なぜ40を過ぎてコソコソと吸わなければならないのか。いつかこの喫煙所も閉鎖されて、我々は階段の隅っこなどでゲリラ活動を続けるのだろう。ここだって、小さなヒサシと灰皿代わりの丼だけがある十分に粗末な空間である。
千利休が喫煙を極めたら、侘び寂びの行き着く先はこの倉庫の陰の喫煙所だろう。
「来週からしばらく休むわ。」課長は静かに言った。そういえば、この日も雨だった。
「どこか行くんですか?」
「ちょっと旅に出ようと思ってさ。」
聞いてるわけだが、ちょっと旅に出るなんて厨二な言葉なかなか最近はお目にかからない。そもそもサラリーマンにそんな自由は無いし、来週からの仕事どうするんすか?ふざけんなという気持ちしかなかったが、課長は今思うとどこか誇らしげだった。
「気をつけて行ってください。」色々な感情をおし殺して、呟くように声をかけた。
小さくなったタバコを丁寧に吸うと、雨を避けるわけでもなく静かに課長は去っていった。
敢えて深く詮索はしなかった。真面目一本で口数も少ない課長が、旅に出るなんて学生みたいなことを言い出したのは吹き出しそうになったが、急に休むなんて只事じゃないんだろう。
病気でも見つかったのかな?50も近くなると糖尿、高血圧など持病だらけは当たり前で
そのうちに多くの人間が癌になる。
偏見かもしれないが、こういうとき女性同士なら、「どした〜?どこ行くの何かあった〜?」と盛り上がり、仕事後のカフェでお悩み相談なんてのもありかもしれないが、立派なおじさん二体だと最大限譲歩して、パチンコ行ってサウナ行ってビール買ってプシュっで終わりである。わざわざ居酒屋行って、おっさんの相談を受けるなんて選択肢がそもそも無い。
自分も健診受けなきゃな。そう思いながら、誰もいない喫煙所で雨に向かってもくもくと煙を吐き出した。
次の日から、課長と総務の石井君が来なくなった。