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皇帝の平和

狂気(リュッサ)の旋律

作者: かのこ

 気高い天を父に、昏き夜を母に持つ娘、狂気の女神。

 見よ、狂気が始まるのだ。


 俺の本心をあの男に見られた。今の俺のあり様が、子供の頃に生きることを許され、栄誉を与えられ、祖国に報いるように育てられた俺の、変わりようがなかった本質なのだ。

 俺の行為は恩人を侮辱しただけではなく、恩人の娘も与えられた恩人の姪へも含めた侮辱だった。

 それほど、俺はこの男を憎んでいた、ということになるのだろう。

 青ざめ、声を震わせ、俺とユリアを問い詰める「あのお方」の姿は、俺たちが長年描いていた対決のはずだった。


 脳裏で狂気の笛の音がする。俺からは見えない場所で、鞭を持ち、女神が狂気を踊る。

 陰気で音程の狂った女神の旋律は、人に乱心を送り込み、狂気の舞を躍らせる。


 いつからだ、と聞かれた。答えようとした俺を遮るように制して、ユリアが先に答えた。

 露わになりかけていた肌は、かろうじて身なりを整えて隠されてはいるが、落ち着いて父親と会話をしようとする娘の態度には程遠かった。ましてや謝罪するつもりもない様子だった。

「いつだっていいじゃない」

 寝椅子に身体を横たえて、父親を見上げている。

 パラティウムの一室で抱き合っていたところをたまたま目撃したアウグストゥスに一喝された時、とっさに離れた俺は床に座り込み、対照的にユリアの方は立ちあがり、余裕の笑みで寝椅子に座りなおしたのだ。

 アウグストゥスもここ最近の関係ではないと察した。更に娘の素直ではない態度に、さすがに激昂していた。


 確かに。ユリアとの関係が始まった年月を適当に答えて、この数年間の恨みなのだと、浅く計算されてしまうのも面白くはなかった。

「残念ねえお父様。私がこんなで、さぞや失望されたことでしょうねえ」

 笑いながら、ユリアは楽しげに父親の憔悴した顔を眺めた。怯えるどころか、満足した笑みだった。

「ローマ市民には家庭を大切にしろとか、風紀を乱すなとか、ご立派なキャンペーンをしてるのにね。ご自分の足元から火がついているんですもの。とってもブザマだわ」


 知らなかったのだ。  

 もしかしたら、アウグストゥスは俺たちのことを知っていて、それでも。

 それでも俺は許されている、許してくれているのだと、思いたかったのかもしれない。


 「言っておくけど、相手はユルスだけじゃないわ」

 アウグストゥスとは違い、もちろん俺は驚きはしなかった。

 それよりもアントニアやマルケラ、当然リウィア様でさえ把握していて、それでも俺達の醜聞がアウグストゥスの耳には入らなかったということが、俺には不思議だった。

 そんなことがあるのだろうか。アウグストゥスに同情する市民も、俺を失脚させたい輩でも、いくらでもいただろうに。

 俺とユリアが周囲の諌めを受け入れて、関係を終わらせていれば良かった話だったのだろう。

 誰にも本当のことを告げられず、こんな形で知ることになったアウグストゥスの孤独が、俺には哀れだった。俺に同じことが起きたなら、身内の醜聞の事実よりもそちらの方に衝撃を受けることだろう。


 これがアウグストゥスの夫妻が言うところの不倫ではなく真実の愛とやらであるのなら、俺も堂々受けて立つことも出来ただろう。だが別にそうした関係ではない。ユリアのことなど、特別でもなんでもない女の一人に過ぎなかった。それが何故か、アウグスウトゥスに対しての罪悪感のようなものを感じて、自分のことながら呆れてしまった。

 俺にとってユリアのことは、他の女と変わらない。

 だがアウグストゥスにとっては全く異なる。己の権威に傷がついたも同じなのだ。

 娘と、下僕が。

 そう思われているのかも知れない。

 下僕の分際で。


 世界が終るのかもしれない。


 狂気の女神リュッサ。青白い顔をした、夜の女神ニュクスの娘ゴルゴン。

 髪に百頭の蛇をひしめかせ、戦車を駆り、嘆きの音を奏でる。

 その恐ろしい笛の音に身を捕えられた者は、狂気の波に踊らされ、罪に手を染める。

 俺の背後では嵐のような風が渦巻いている。


  アウグストゥスが声を荒げ、何か娘を問い詰めている。ユリアは面倒そうな態度で答えた。

「うるっさいわね。ほっといてくれる?」

 相手はローマの第一人者だった。他人事のように、俺はそのやりとりを眺めていた。今までユリアとアウグストゥスの会話で、俺が当事者であったことはなかったのだ。

「相手が誰かはこだわらなくても別にいいじゃない。もし子供が出来たって、誰の子だろうとお父様の血は確実にひいているんだから、ご満足いただけるんじゃなくて?」

 ユリアは声も高らかにローマの尊厳者と呼ばれる男を嘲笑した。

「本気で怒ってる? 本当に知らなかったの? 呆れた。本当に私のことなんて見てもいないし、何も知らないのね。周りにはご自分が笑われていたのに!」

 怒りで震える父親の骨ばった腕を、小馬鹿にするようにひらりとかわして立ち上がり、おかしくてたまらないようにユリアは笑い声をあげた。

「思い知ればいいわ! ばあああか!」

 

 言葉でどれだけ募る思いを述べたとしても。

 ユリアの絶望を伝えることは出来ないだろう。

 だからユリアは諦めたのだ。

 父親に理解してもらうことを。父親の心を信じることを。

 何年もの間、ユリアは嘆きも怒りも無視されてきた。今、涙ながらに訴えたとしても、アウグストゥスに己の所業を思い返させることなどないだろう。


 怒りを語れ、今こそ声を張り上げろ。

 この男は、今までさんざん娘の嘆きを無視してきた。

 今、ようやくユリアは父親に、自分の声を聞かせることが出来たのだ。ここまでしなくては、この男に自分が神ではないことをわからせることができなかったのだ。

「哀れね、ユルス。私の気まぐれで巻き添えを食うなんて」


 俺は庇われているのだろう。だがユリアの嘲笑を聞いていると、まるでそんな気がしてくる。

 俺は利用されたのか。あれは偽りであったのか。

 おそらく俺たちに接点のない人物から客観的に見たら、俺とユリアは純粋な恋愛関係にあった、という判断になるのだろう。権力者の意向にも恩義にも逆らうとわかっていながら、敢えてその関係に及んだという、悲恋的な解釈をされるのだろう。

 それは明らかに事実とは異なる。だがそう思っているのは俺たちだけで、最終的にはそれが単純な事実でもあるように思えた。

 風紀の乱れつつあるローマを正さんとするアウグストゥスの政策を嘲笑うかのような行為だった。

 だが法によって禁じられているか否かは関係ない。

 この関係をアウグストゥスは許しはしないだろう。これまでの厚遇も温情も、剥奪されることだろう。


 だが破滅しかないとわかっていても、俺は確かめてみたかったのだ。

 この人は、どこまで俺を信じるのだろう。

 心底からは、旧敵の息子の忠誠を信じてはいないだろう。

 それでも信じるふりをするし、危機感を自覚しつつも、俺に無防備な背中を見せるのだろう。

 だが、いつまでだろう。

 この男はどこまで俺を信じるふりが出来るのだろう。

 俺はいつまでこの男と駆け引きを続けるのだろう。


「別にね、私はこんな男、どうでもいいのよ。都合が良かっただけ。あなたをバカにするのに、うってつけの相手が、ユルスだっただけよ」

 ユリアが愉快そうに続けていた。やはり 擁護されているのだろう。まったくの無駄な行為で、今更罪を免れるとは思わないが。

「そうか」

 俺は声に出した後に、自分の言った言葉に自分で驚いていた。

「俺は愛していたのに」

 ユリアがひくりと動いたが、俺のことは見なかった。

「……馬鹿じゃないの」

 失望したように、ユリアが呟いた。


「……よくもそのようなことを」

 アウグストゥスが憎々しげに俺を見た。

 老いていた。

 ずっとこの日をこの時を、考え続けてきた。

 その想像の中のアウグストゥスは、もっと若く、もっと力強かった。だが明らかに威厳は増していた。傲慢さが含まれたそれを、威厳と呼ぶのならば。

「何か言いたいことがあるのなら聞く。だがこれが最後だ」

 これが本来の姿なのだろう。

 これがアウグストゥスと俺の、あるべき位置だったのだ。

 床に座っていた俺は、アウグストゥスを見上げた。

 これが最後であるのなら。

 俺が言おうと思っていた言葉は。


「我がドミネ


 アウグストゥスの顔が、その言葉の衝撃に歪んだ。


 俺は一人で広い部屋に立ちつくしていた。親を失ったばかりの子供で、大家族だったのに周りには誰もいなくて、天井が高かった。

 いつも考えていた。いつか来るだろうこの日を考えていた。俺はいつか、この人を裏切ると知っていた。その日が来ないで欲しいとも思っていた。

 俺は今、逆にそれらの無力でぼんやりとした日々を思い出していた。

 老いた男が視界にあったが、脳裏には昔のアウグストゥスがいた。

 世界を統べる者だった。俺の世界に君臨する王だった。

 だが、目の前には俺の言葉に打ちひしがれる、小さな男がいるだけだった。

 

 アウグストゥスは俺を信じてはいないが、信じたかったのだろう。疑い試し続けるよりも、家族として信じることを選んだのだ。

 だが「我が君」という言葉に、アウグストゥスは長年の俺の裏切りを悟った。

 家族にも師弟関係でも使われる言葉だ。だが俺は初めて、アウグストゥスにそう呼びかけた。

 俺たちはやはり、家族ではなかった。


 この風は、どこから来るのだろう。


 狂気の娘リュッサ。

 澱んだ闇の淵から生まれ、きらめく瞳で音律の狂った音を奏でている。

 見よ、狂気が始まるのだ。



リュッサは狂気の女神です。夜の女神の子供という説は一般的でなく、エウリピデスの「ヘラクレス」でそうなっています。


「アウグストゥスには誰も、ユリアの醜聞については教える者がいなかった」という描写で、「じゃあ現場踏み込まれたんだね~」とか思っていたのですが。

ユリアは別件で見つかって、ユルスとのことはその後の事情聴取で出てきたのかも知れない。

ある日突然、ユルスは呼び出しを受けて、「ああバレたのか」と悟ったりしたのかも知れない。


何でいつもいつも、UPした後に気づくんだろう……。

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