③
意味がわからず、私はマスターの白い髭をまじまじと見上げた。
少し困ったように彼は笑う。
目をそらして照れくさそうに頬をゆがめる、小学生の男の子みたいな表情だった。
「いえその。私は昔から、自分ひとりだけで食事をするのが苦手でしてね。食べるのならその場にいる人みんなで食べたい派、なんです。ですからお客様にもご相伴いただけたらと。ああもちろん、どうしても食べたくないとか、小麦アレルギーでパスタを食べると蕁麻疹が出るとか、そういうことでしたら下げさせていただきます」
下げさせていただきます、と言うマスターの目が一瞬、捨て犬の目のように哀しげに潤んだ。
いただきますと言うしかないではないか。
「無理を言ってまかないを食べていただくのですから、もちろんパスタのお代はいただきません」
心から嬉しそうにマスターは言う。
「すみませんねえ、常識はずれな店で」
いつの間にかカウンター席に戻っていた『レイちゃん』が、フォークにパスタを巻き付けながら口を添えた。
なんとなく彼女の方が店主めいている。もしかすると彼女がオーナーで、マスターは雇われているのだろうか?
いや。
それよりもこれって、食品衛生法とかに抵触しないのかという心配が頭をよぎった。
まあ……小さな、良く言うのならアットホームな店、だ、ここは。
そう大袈裟に考えなくてもいいだろう。
食品衛生法云々については考えないことにして、せっかくだからいただくことにする。
ちょうどおなかも空いてきたところだ。
炒めた玉ねぎの甘いにおいと、青葱の瑞々しいにおいが鼻をくすぐる。
添えられたフォークを取り上げ、麺を絡めた。
基本の味付けはペペロンチーノ風だった。
にんにくの代わりに玉ねぎの薄切りを使い、細かく刻まれたベーコンの旨味と、控えめに入れられている輪切り唐辛子の辛みがいいアクセントになっている。
隠し味にレモンが少し入っていそうな風味。
そして。
(葱、美味しい!)
多めにトッピングされた葱がいい。
かすかにひりっとする辛みと苦みの後に一瞬だけ、さわやかな甘みがほのかに口中に広がる。
葱が甘いなんて、私は初めて知った。
「あー、やっぱり葱、美味しいー」
「この時期の葱は甘いな」
カウンターの二人もそう言い合っている。
一口、二口……私はゆっくりと咀嚼する。
なんだろう、すごく懐かしい気がする。
前歯で奥歯で噛まれる度に、口の中でさくさくと乾いた音を立てる小口切りの葱の食感。
あるかなきかのかすかな甘み。
(あ?)
何故か、雪のかたまりをつかむ子供の小さな手が、見えた。
手を伸ばし、雪をつかむ子供は私。
小学校低学年の頃だった。
突然の雪に嬉しくなり、私は外へ出た。
あるかなきかの、さくさくという音がひそやかに響く。
雪のひとひらひとひらが大きくて水気の多い、いわゆるぼたん雪だった。
着ていた赤いジャンパーが瞬くうちに白くなるのは面白かったけれど、頭に重なる雪の気配は鬱陶しかった。
時々首を振ったり手で払ったりしながらも、私はうきうきと家の周りを歩き続けた。
そうこうしているうちに、物干し竿の上へ積もった雪を見つけた。
不思議だった。
あんなに細い、不安定な形のものの上へこんもりと雪が降り積もっているのだから。
おそるおそる、私は手を伸ばす。
きし、とでもいう鈍い音と、てのひらで急に縮こまって水になる雪のかたまり。
半ば溶けたそれを私はやや持て余し、足元へ落とす。
きし、きしと鳴らしながら、私は調子に乗って物干し竿の雪をつかみ続けた。
さすがに手が冷たくなってきた。
濡れて赤くなった手を、一度太ももの辺りでぬぐう。
大きく吐き出した息が白い。
最後のひとつかみを足元へ落とす一瞬前、ふっと魔が差したように私は、手の中の雪を口に含んだ。
急にそうしたくなったのだ。
てのひらで水気の多い氷のようになった雪は、解けかけたアイスキャンディのようだった。
かすかに埃のにおいがしたが、その雪は何故か、ほんのりと甘かった。
(雪は甘いと言って……笑われたっけ?)
甘い訳ないだろう、雪は砂糖でもアイスクリームでもないのだからと一蹴され、思わず涙ぐんだっけ……。
ことり、という音にはっとした。
テーブルの上にはマイセン風の、縁に金を施した華奢なカップとソーサー。
艶やかなコーヒーがそれに満たされ、かすかに湯気が上がっている。
「どうぞ」
マスターの声。思わず見上げると、彼はにこりと笑う。
「うちではブレンドコーヒー、おかわり自由なんですよ」
いつの間にかテーブルの上は片付けられていて、新しいコーヒーだけが載っていた。
私は思わずもう一度、マスターを見上げた。
彼はただ目許を緩めて目礼し、カウンターへ戻った。
おずおずと新しいコーヒーに手を伸ばす。
苦みの後ろにあるほのかな甘み。
そして程の良い渋み。
すうっとのどを通り、香りが鼻に抜ける。
生き返ったような気分で私は、ほうっとひとつ、息をついた。美味しい。
とても美味しいコーヒーだ。
入り口近くのレジへと向かう。
雨も上がったようだ。
いつの間にか『レイちゃん』は店からいなくなっていた。
どうやら私は暫くの間、眠っているのに近いくらいぼんやりとしていたらしい。
お会計を済ませた後、
「はい」
と、レシートにしてはやや大きい、真四角のしっかりとした紙がマスターから渡された。
「初来店のお客様へお渡ししている、ちょっとした記念品なんですよ」
素っ気ない白い紙で出来た使い捨てのコースターのようだが、鉛筆で絵が描かれていた。
黒いお盆に乗った雪うさぎ。
緑の色鉛筆で描かれた笹の葉の耳と、赤の色鉛筆で描かれた南天の実が愛らしい。
簡単な線でさっと描かれているだけなのに、このゆきうさぎが水気の多い雪を押し固めて作られているのがわかる。
今にも端から溶けてゆきそうなあやうい感じが、一瞥しただけで伝わってくる。
隅に小さく、W、とだけサインされている。
絵にしろサインにしろ、素人ではなさそうな手練れの筆致だ。
「お客様の印象をイラストにして、おひとりおひとりにお渡ししているんですよ」
お客様の印象は雪うさぎでした、というマスターの言葉に私はうろたえた。
「ずいぶん……可愛らしい、んですね」
なんだかほほが熱い。
恥ずかしいような不本意なような、嬉しいような腹立たしいような、複雑な気分だ。
それなりに荒波も幾つか越え、おねえさんというよりおばさんと呼ばれる方が相応しい女なのだ、私は。
今にも溶けそうな雪うさぎの儚さや可憐さなど、薬にしたくとも無い、筈。
マスターはただ、優しく目許を緩ませた。
「これを機会に、よろしければまたお越しください。お待ちしております」
ありがとうございました、という声を背に、私は店を後にした。
以来、私は『喫茶・のしてんてん』には行っていない。
正確に言うのなら、行けないでいる。
自宅からそれほど遠くない筈なのに何故か、あのレトロでちょっと浮世離れた店が見つけられない。
本気で探せばきっと見つかるのだろうが、なんとなく日常の雑事に流され、まあいいかとも思っていた。
そんなある日だ、社員食堂で昼食を食べた後だった。
自販機で買った不味いブラックコーヒーをすすりながら私は、食堂にあるテレビを見るともなくぼんやり見ながら休憩していた。
季節は移ろい、そろそろ陽射しが春めいてきていた。
薄雲が晴れるようにお馴染みの憂鬱は影をひそめ、今の職場が完全に私の日常になっていた。
ふと思い付き、あれ以来なんとなく財布に入れたまま持ち歩いている例のコースターを取り出し、目を当てた。
財布のカードケースに入れているから折れ曲がったりはしていないが、全体的に薄汚れ、ヨレてくるのは致し方なかろう。
もっときちんと保管した方がいいのかなと思う反面、別に処分してもいいかなとも思う。
(この、雪うさぎの絵のコースターがなかったら)
『喫茶・のしてんてん』は、昔見た夢のひとつのような気がしないでもない。
「あれ?これってもしかして……」
たまたま後ろを通りかかった、隣の課の若手くんが足を止めた。
「その『W』のサイン。うわ、もしかしてホンモノですか?」
「え?」
私が驚いて顔を上げると、彼はやや気まずそうに笑みを作った。
「あ、いえその。別に俺、よく知ってるって訳じゃないんですけどね。俺の学生時代の友達にひとり、マジで絵をやってるヤツがいまして。そいつの好きな絵描きさん……えっと、ナントカって名前だったけど忘れたな、その人の作品なのかなって。そのWのサイン、見覚えがあったもんですから」
「有名な人なの?」
驚いて私が尋ねると、有名とは言えないんじゃないですか、と、無残なまでにさばさばと彼は答えた。
「でも知る人ぞ知る、そこそこ以上に評価されてる絵描きさんだとは思いますよ、現に俺の友達もファンってのか尊敬してるみたいですし。大きい作品と並行して、修業時代からずっと『心の似顔絵』ってのを描き続けてて、でも描いた端からヒトにあげちゃうもんだから現物は少ないって話、そいつから聞いたことがあります。だからそれ、幻の『心の似顔絵』じゃないかなって思ったものですから」
……うわ。びっくり。
本気でびっくり。
素人じゃないとは思っていたけれど。
あのマスター、名のある人だったんだ。
その人の貴重な作品を私、無造作に財布に突っ込んでいたの?
そう思った次に、この絵には一体幾らくらいの価値があるのだろうかなどと、さもしいことをちらっと考えた。
「そうなんだ。この町にはそんなすごい人が住んでいたんだね」
私の言葉に、彼は怪訝そうに眉を寄せた。
「は?いえ、その作家さんはこの町に住んでなんかいませんよ。それにもうとっくに……」
そこへ、おおい、と、彼の上司が彼を呼ぶ声が響いた。
わざわざ食堂まで部下を呼びに来たのだ、急ぎの仕事が出来たのかもしれない。
彼は慌てて、すみません失礼しますと私へ頭を下げ、足早に去った。
狐につままれたような気分で、私はもう一度、手元の絵に目を当てた。
『その作家さんはこの町に住んでなんかいませんよ』
『それにもうとっくに……』
(それにもうとっくに……?)
どう、だと言うのだ?
筆を折ったとか?それとも……。
耳の中で不意に、あの日の『レイちゃん』の口笛が鳴った。
確か有名なアニメ映画の主題歌で……。
「あ!」
小さく叫び、意味もなく私は立ち上がる。
(あれは!)
ひょんなことから異界にまぎれ込んでしまった少女が、両親と自分を守る為に必死で生き抜き、たくましく成長する話。
海外でも高く評価された作品で……。
早足で食堂を抜け、何かに急かされるように社外へ出ようとした寸前、私は思いとどまる。
まだ勤務時間中ではないか。
きびすを返し、窓越しにふと陽を見上げた。
春は、もうすぐそこだ。
2022年 3月5日、たんばりん様より
『マスターが描いたコースターの雪うさぎ』
のイラストをいただきました。
御礼申し上げます。
ありがとうございました、たんばりん様。




