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 店内は意外と明るかった。


 入り口を入ってすぐ正面に、上の方がステンドグラス風になっている大きな出窓があり、それが明かり取りになっている。

 そばにはレジスター。

 入って左手奥側に年季の入った渋い雰囲気のカウンター、手前寄りの通りに面した窓側に、磨かれた琥珀を思わせる木の椅子とテーブルの席。

 いっそ借り物めいているほど、古い時代の喫茶店の趣きだ。

 私の世代だとこんなのは、映像でしか見たことがない。


 いらっしゃいませ、と言うやや高めの穏やかな声は、カウンターの向こうにいる細身で華奢な男性だった。

 目許に柔らかな皺があり、鼻の下に白い物の多い髭をたくわえているから、それ相応の年配なのだろう。

 赤いバンダナで頭を覆い、厚手の生地の黒いエプロンをきちんと身に着けている。

 なんとなく喫茶店のマスターというよりも、ラーメン屋の親父さんという感じがしなくもない。

 接客はあまり上手くない、ラーメン一筋の職人みたいな親父さん、という感じだ。


 私は曖昧に笑ってマスターのいらっしゃいませに答え、軽く目をそらせて入り口近くのテーブル席に着く。

 水とおしぼりを銀色のお盆に乗せ、マスターがこちらへ来た。


「どうぞ」


 まず最初に差し出されたのが安物くさい白いタオルだったので、面食らった。

 紺で自治会の名称が印字されているから、地区の行事でのもらい物なのだろう。


「急な雨で濡れたでしょう。良かったら使ってください」


「あ、ありがとうございます」


 口ごもるようにお礼を言って受け取り、髪とコートを軽く拭いた。


「メニューはそちらに……」


 言いかけるマスターへ


「ああ。コーヒーをお願いします」


 と、私は注文した。

 マスターは柔らかく笑む。


「うちではコーヒーは、ブレンド、アメリカン、エスプレッソ、今月のおすすめなんかを用意しておりますけど、どれになさいますか?」


「えっと、ではブレンドを」


 注文しながら私は、コーヒーおたくのおじさんが定年後に始めた、半分趣味の喫茶店なのかなと思った。


 当たらずとも遠からず、かもしれない。

 カウンターの向こうで、マスターはコーヒーを淹れ始めた。

 慎重で丁寧な手つきだ、いい意味でも悪い意味でも。

 意地悪く言うのならややもたついた印象を受ける。

 職業的な洗練、もしくは悪慣れしたやっつけ感が、作業のひとつひとつにない。


「マスター、今日のお昼ごはんはもう済みましたか?」


 カウンター席に座った彼女が、グラスの水に口をつけてきく。

 私は脱いだコートについた雨水を借りたタオルではたくようにしてぬぐいながら、聞くともなくカウンターでの話を聞いていた。

 コートの表地は撥水加工がなされているので、幸いそれほど濡れてはいなかった。


「いや……」


 半分上の空の調子でマスターは答える。

 彼女はあきれたように眉をしかめ、ため息まじりにこう続けた。


「もしかしてまた、面倒がってちゃんとしたごはん、食べてないんですか?」


「別にそういうつもりでもないんだけどね、自分の為だけに作るってのが、ちょっとナンなだけで。食パンの耳ってのも結構うまいもんだよ、意外と飽きないし」


 お茶でも点てているような神妙な顔で湯を注ぎながら、マスターは答えた。

 どうやら彼は普段、まかない代わりに食パンの耳をかじって飢えをごまかしているらしい。

 彼女は、しょうがないわねと言いたげに薄く苦笑いをし、言った。


「なんなら私、まかない作りますよ。どうです?」


「そりゃ有り難いな」


 ようやく顔を上げ、マスターは笑う。


「レイちゃんも食べていきなさい、労働奉仕の報酬だ。チャチャっと作れてあっさりしてて、それなりに腹持ちするものを頼むよ」


「マスター……難しいこと言いますね。わがままなんだから」


 文句を言いつつも、『レイちゃん』と呼ばれた女性はなんとなく嬉しそうだ。

 腕まくりでもしそうな感じで、失礼しますよと断ると、勝手知った感じでカウンターをくぐる。


「あるもの見させていただきますよ。うー、まあ予想通りのものしかないか……」


 しゃがんで、カウンターの下にあるらしい冷蔵庫やストッカーを開け閉めしている気配がする。


「あれ?この葱どうしたんですか、珍しい」


「ああ。それは今朝方ジンさんがコーヒーを飲むついでに持ってきてくれたんだよ。家庭菜園でたくさん採れたんだそうだ」


「いいですねえ、めちゃくちゃ美味しそう。よし、これを生かして……」


 方針が決まったらしい。

 彼女は、さっさっさ、と何かを取り出して作業台に載せ、大きめの鍋に水を張り火にかけた。

 袖をめくり、隅の手洗い場で丁寧に手を洗う。

 手洗い場から戻ると包丁を取り上げ、さくさくとんとんと小気味のいい音を立てて何かを刻み始めた。


 頃合いを見て彼女は、鍋へ乾麺らしいものを入れる。

 パスタだろう。

 合間に器の用意や、使い終わった道具類を洗ったりしつつパスタの茹で加減を見る。

 やがて鍋の隣のコンロで刻んだものを炒め始めた。

 香ばしいにおいが立つ。


 私は正直、ちょっと驚いた。

 『ころっ』『まるっ』の体形に似合わぬ、素人目にも無駄のないシャープな彼女の動き。

 こう言っては何だが、マスターよりよほど手慣れている。


 手を動かしながら二人は、いかにもなれ合った雰囲気で一見客の私にはわからないことを楽しげに話していた。

 不思議な人たちだ。

 ただの常連客と店主にしては近すぎるが、別に恋人とか身内とかいう感じでもない。

 互いの連れ合いや家族の近況らしい話もしているが、そこに変な慮りや緊張は感じられない。

 強いて例えるなら、ごく仲のいい先輩と後輩とでもいうところだろうか?


「お待たせしました」


 マスターがブレンドコーヒーを運んできた。

 コーヒーカップとソーサーは、素人陶芸家の作品めいた無骨なものだった。

 マスターの手作りなのかもしれない。

 やっぱり、おたくのおじさんが趣味でやっているお店なんだなと私は思った。

 しかし、ざらっとした表面の薄茶色のカップの中のコーヒーは真っ黒で艶めいていて、いい香りだった。


 カップを取り上げ、口に含む。

 苦みの後ろにあるほのかな甘みが、自覚以上に冷えていた身体に沁みる。

 渋みも程よく、いやな癖がない。すうっとのどを通ってゆく。

 うーん。おたく恐るべし。

 予想以上の、ややうろたえるくらい美味しいコーヒーではないか。

 そんなことを思いながらほうっと息をついた時、突然、白いカフェオレボールに盛られたパスタがサーブされた。

 トッピングの青葱が美しい。


「よろしければどうぞ。まかないですけど、彼女はありあわせ料理の天才ですから旨いと思います」


「は?」

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