①
私が初めてその店を訪れたのは、霙まじりの小雨がぱらつく寒い日だった。
急に退職した人の替わりに時季外れの転勤でこの町へ来て、暫く経った頃だった。
元々転勤の多い業種だ、勤め始めてはや十五年、今更転勤自体に戸惑いはない。
が。
職場に少し慣れ、町にも少し慣れた頃に私は大抵、精神状態がやや不安定になる。
最初の緊張が解け、新しい職場での仕事が日常になり始めると、ふっ、と我に返るような感じになる。
仕事の合間の、集中が途切れた瞬間などに、ふっ、と辞令ひとつで木の葉のように飛ばされてゆく我が身が虚しく、憂鬱になる。
初めの頃は真面目に悩んだ。
私にはこの業種・この仕事が向いていないのではないかという、誰もが一度は抱える、ありふれた、だけど当の本人にはそれなりに深刻な悩みだ。
しかし日常に押し流されていつの間にか悩みや憂鬱はまぎれ、いつの間にか平穏な、いつものフラットな精神状態に戻っている。
何度かそれを繰り返し、どうやらこれは私の癖らしいと知った。
知ったが、だからと言って憂鬱でなくなるものでもない。
油断しているとちょっとしたことで心が沈み、ため息をついてしまう時期。
ちょうどそんな頃のことだった。
その日は休日で、私は、いつも持ち歩いている革のショルダーバッグにビニール製の買い物バッグを折りたたんで忍ばせ、午前遅くに自宅を出た。
洗濯と、簡単な掃除はすでに済ませていた。
散歩がてら食料品の買い出しでもしようと思ったのだ。
良さそうな食べ物屋さんがあったのなら、お昼はそこで済ませてもいいかなとも思っていた。
この町は、日本のどこにでもある中規模な地方都市の、どうということもない普通の町だ。
今まで住んできた町と大差はない。
私鉄のちょっとした駅まで出れば外食チェーンの店が幾つかあるし、昔ながらの定食屋さんや喫茶店なんかもチラホラある。
そのうちのどれかに、その場その時の気分で入って食事をするのも悪くない。
この時期、心が沈むままに面倒がってコンビニでおにぎりやカップ麺を買って済ませたりすると、余計に心が荒む。
心だけでなく身体も荒む。
ジャンクフードは魔性の食べ物だ。
食べれば食べるほど餓える。
決して本当には満足しない。
満足しないから更に何かおなかへ詰め込みたくなるけど、胃の容積は当然決まっている。
欲しいままに貪っていると、満腹感が来る前におそろしい胸焼けに苦しむ羽目へと陥る。
恥ずかしい話だが、それで胃を壊したことが何度かある。
さすがに最近は、そんな馬鹿なことをしなくなった。
残念ながら私ももう、若くはないのだから。
思うともなくそんなことを思いながら歩いていると、不意に陽が陰った。
立ち止まり空を見上げる。
ぽつぽつ、と顔に冷たいものが当たった。
雨粒よりも小さく、やや乾いた感触。
(霰?)
ダウンコートの胸元に、小さな白い物が落ちてくる。
ややあってそれは溶け、小さな丸い染みになる。
(霰だ……)
ベランダに干してきた洗濯物のことが頭をよぎったが、戻るのにはいささか面倒な距離をすでに歩いてきていた。
(まあ……、いいか)
ベランダにはひさしがある。
風向き次第ではまるで役に立たないだろうが、雨ではないのだからそう神経質になることもないだろう。
思ったが、急激に気持ちが沈んだ。
パリッと乾いたパジャマとシーツで眠るのを楽しみに、今日は普段以上に頑張って洗濯をしたのに。
天候が崩れるなんて朝の天気予報でも言ってなかったのに。
休みの日には当然、洗濯以外にもやりたいことが色々ある。
霰になるのならそっちを優先したのに。
ぶつけようのないもやもやが次々と浮かんでくる。
思わずため息が出た。
その時だ。
後ろから突然、小鳥のさえずりに似た口笛が聞こえてきたのだ。
私は思わず振り向いた。
口笛を吹いていたのは、私より十歳くらいは上ではないかと思われる中年女性だった。
カフェオレを思わせる柔らかな色合いのベレー帽、ノルディック柄のフリースジャケットにコーデュロイのパンツ。
足元は帽子に似た色合いの、登山靴を思わせるごつい編み上げ。
垢抜けているとは言いかねるが、暖かそうな装いだった。
『まるっ』とか『ころっ』などのオノマトペが似合いそうな小柄な人で、なんとなく私は、太ったどんぐりの実に短く切った竹ひごを刺して作った人形、を連想した。
くりっとした目の愛嬌ある顔立ちで、中年ではあろうが実際の年齢はよくわからない女性だった。
ひょっとすると私と同じくらいなのかもしれないし、案外五十代とか六十代なのかもしれない。
彼女は私の視線などお構いなしに、聞き覚えのあるメロディーを高らかに口笛で鳴らしながら、元気に腕を振って足早に通り過ぎていった。
吹いている曲は有名な古いアニメ映画の主題歌だと思う、タイトルはど忘れしてしまったが。
(か、変わった人……)
日本人離れしたマイペースさだ。
角を曲がり、瞬くうちに私の視界から彼女は消えた。
思わず私は後を追っていた。
道なりに彼女は進む。
スキップでもしそうな楽し気な早足だ。
口笛は相変わらず響いている。
素人の耳にも綺麗な、輪郭の際立った音だ。
小学生の時、音楽の時間に鑑賞させられた『口笛吹きと犬』のピッコロの音を私は連想した。
やがて彼女は、飴色に輝く木の扉の前で立ち止まった。喫茶店らしい。扉を押すと、カランコロンと乾いた音がした。ドアベル。なんともレトロだ。
「どーも、マスター」
思ったよりも低くて落ち着いた、だけどよく響く声で挨拶をすると、彼女は店の中へとすべりこんでいった。
私は立ち止まり、彼女が入っていった店を見渡した。
通りに面して飴色の木の扉。やはり飴色がかったガラスがはまった窓が、通りに面してある。
窓枠は今どき珍しい木製だ。
窓のはめられたガラスも古い時代のものなのか、それともレトロ調に加工したものなのか、光の屈折具合が少しゆがんでいる。
が、逆にそれがあたたかみのある感じで悪くない。
そのレトロな窓の下、イーゼルへ横長にキャンバスが立てかけられ、
『welcome! 喫茶・のしてんてん』
と墨汁と筆で書かれてあった。
達筆とは言えないし、『喫茶』の部分が大きく『のしてんてん』の部分が窮屈そうで、お世辞にもバランスがいいとは言えなかったが、言うに言えぬ味のある字だった。
『のしてんてん』という言葉の意味はわからないが、それも含めてなんだか可愛らしい看板だなと私は思った。
(でもこれ……看板、でいいんだよね?)
ふと思う。
どう言えばいいのだろう?
たたずまいが素人くさいと言うのか、学園祭の模擬店みたいと言うのか。
本気で商売しているのだろうかと、こちらの方が心配になる。
『welcome!』だし『喫茶』なのだから、商売しているのには違いなかろうが。
「……あのう」
カラコロ鳴る音と共に声をかけられ、私は少なからずぎょっとした。
帽子とジャケットを脱いだ件の彼女の顔がドアから出ていた。
ジャケットの下はもこもこした感じのセーターだった。
「あの。おせっかいと言いますか大きなお世話と言いますか……、なんですけど。雨、結構降ってきましたよ?」
お急ぎでないんなら、入って雨宿りなさったら?と彼女は言う。
言われてハッと気付くと、霰はいつの間にか霙まじりの小雨になっていて、髪とダウンコートが少し湿っていた。
「あ、はあ……です、ね」
曖昧に返事をし、私は一瞬考える。
どのみち雨具は持っていない。
どこかで雨をやり過ごすしかないだろう。
これでいよいよ洗濯物は諦めなくてはなるまいが、今更じたばたしても仕方がなかろう。
私は彼女へ、笑みを作ってちょっとうなずき、思い切って『のしてんてん』なる喫茶店へ入った。