97:村の守護神
空がそんな事を考えながら難しい顔をしていると、ふと遠くから聞き覚えのある声が聞こえた気がした。顔を上げて耳を澄ますと、微かに空の名を呼ぶ声がする。
「……ぁぁぁあっ、空ぁぁぁああぁぁぁ!!」
微かな声はたちまち叫び声になり、むしろ雄叫びに変わった。
「じぃじだ! じぃじー! ぼく、ここだよー!」
空も大きな声で叫び返すと、名を呼ぶ声が途切れ、それから今度は足音が聞こえた。
ズドドドドド、とでも言うようなすごい音がして、曲がった道の先からズザザッと幸生が姿を現す。そのまま幸生は凄まじい勢いと形相でお堂に向けて走ってきた。
「じぃじ!」
「空っ!」
幸生はお堂の前、空のすぐ傍で急ブレーキを掛け、草鞋の底を地に擦り付けながらどうにか足を止めた。
「空、無事か!?」
「うん!」
問われて空が元気よく頷くと、幸生は深い深いため息を吐いてその場にへなへなとしゃがみ込んだ。
空は幸生に近づき、がっくりと項垂れた頭を小さな手で撫でる。
幸生の額には汗が浮き、髪もしっとりと湿っていた。どこから走ってきたのか分からないが、幸生は空を探し回ってくれたらしい。
空はそれを有り難く思い、幸生の太い腕にぎゅっとしがみ付いた。
「ヤナちゃんと、フクちゃんがまもってくれたよ。みんな、すごいがんばったよ」
「空も勇敢だったぞ」
ヤナが笑って幸生の肩を叩く。
幸生はようやく顔を上げ、手を伸ばして空の頭を優しく撫でた。
「……無事で良かった」
「ありがと、じぃじ!」
幸生はもう一度深い息を吐くと、そっと空を抱きかかえて立ち上がった。二人を見ていた圭人に軽く会釈し、それから子供たちの無事を順に確かめる。
「皆無事か……俺が家まで送っていこう」
幸生がそう言うと、ヤナが首を横に振った。
「オコモリ殿が、もうすぐアオギリ様がいらっしゃると言っていたのだぞ。それからにしよう」
「そうか、アオギリ様が……では、そろそろか」
そう言って幸生は空を抱えたまま神社のある方角へ振り向いた。ここからでは遠くに鎮守の森や広場の周囲の建物がいくつか見えるだけだ。
幸生と空がじっとその方向を見ていると、その鎮守の森の上空に不意に光る何かが現れた。
「アオギリ様だ」
幸生が呟くと、子供たちや圭人も立ち上がり傍に歩いて来て、並んで上空を見上げた。
神社と森の遙か高みに浮かんでいたのは、白銀の髪をなびかせたアオギリ様だった。
強い風が吹いているのか長い髪と身に纏った白い衣がバサバサと大きく翻る。今日のアオギリ様はいつもの簡素な鱗模様の紺色の着物ではなかった。色鮮やかな青の着物の上に、白に銀糸で刺繍が施された、狩衣のような美しい衣を纏っている。
空の目からは見えなかったが、視力の良い幸生やヤナには、アオギリ様がいつもの人懐っこい表情をかき消し、厳しい顔で村を見下ろしているのが見えた。
風に遊ぶ髪の間、頭の横から青く透き通る長い角が伸びているのも見える。
幸生もヤナも、滅多にないアオギリ様の姿に思わず息を呑んだ。
こんなに離れていてもその姿は美しく、神々しい。その神としての姿に畏怖を感じないものは、この村には恐らくいないだろう。
村の上空を飛び回るトンボたちも、顕現した龍神に恐れを成したらしい。アオギリ様から逃げだそうと一斉に四方八方に散って、村の外を目指し飛んで行く。
しかしその飛行は村の境で何かに遮られ、トンボたちはそれ以上進めず慌てたように旋回を始めた。
村の境の辺りに不可視の壁が現れ、それに当たって逃げ出すことが敵わないのだ。
ぐるぐると旋回する無数の黒いトンボの姿をアオギリ様は感情を見せぬ目でゆっくりと見回し、独り静かに呟いた。
「そなたらも自然の生み出す命であるが、この村は我の縄張りであるからな。許せとは言わぬ。ただ疾く――」
言葉が途切れ、スッと片手が上がり、美しい二本の角の間にバチバチと光と火花が散る。
『滅せよ』
唱えられた言葉は、ただ一言。
しかしその言霊は一瞬で白銀に輝く雷となって縦横に広がり、周囲の上空の全てを埋め尽くした。
「ひゃあっ!?」
天空を埋めた雷と、それが発する凄まじい音に空は思わず幸生に抱きついた。
ドドォン、と大きな音が村中どころか遠い山々にまで響き渡り、空気がビリビリと震える。子供たちもお互い抱き合い、身をすくめている。
激しい閃光が一瞬で空やその場の皆の視界を奪い、クラクラと目眩がするようだ。
誰もがしばし固く目を瞑り、そしてまた開くともう全てが終わっていた。
雷は消え失せ、見上げる範囲のどこにもトンボの影はない。村を襲ったトンボらは一匹残らず雷に打たれて焼き尽くされ、黒焦げになった体や、僅かな破片がバラバラと地に落ちて行く。
空は呆気にとられて天を見上げた。遠くから、アオギリ様の名を呼び感謝を叫ぶ沢山の声が聞こえる。
「アオギリさま、すっげぇ!」
子供たちの中で一番に叫んだのは、勇馬だった。ピョンピョン跳びはねながらアオギリ様すごいと大喜びだ。明良も武志も結衣も、興奮したようにアオギリ様の名を呼んで手を振る。
空もそれを見て、口元に両手を当てて大きく息を吸った。
「アオギリさまー、ありがとー!!」
聞こえないとは思っても、子供たちは皆口々に感謝の言葉を叫んだ。
宙に浮かんだままのアオギリ様は討ち漏らしがないか確かめるようにくるりと周囲を見回し、それからふと空たちのいる方に視線を落として手を一振りしてから、フッと姿を消した。
「……帰るか」
子供たちの興奮が収まるのを待って、幸生がそう呟く。
ヤナも圭人も頷き、子供たちに帰ろうと告げた。
「あ、ちょっとまって!」
空はそう言って幸生を止め、パタパタとお堂の前に走る。
それを見た子供たちも大人たちも、皆お堂の前に行って並び、手を合わせた。
「オコモリさま、たすけてくれて、ありがとうございました!」
「ありがとうございましたー!」
皆で声を合わせて頭を下げる。
下げた頭をふわりと誰かに撫でられた気がして、空はくすりと笑ってまた顔を上げた。
「オコモリさま、かっこよかったね!」
「すげーつよかったなー!」
「俺、あのシャラシャラ言うやつ使ってみたいな-」
「オレも! オレもやってみたい!」
「オコモリさま、こんどおはなもってくるね!」
結衣の言葉を聞いて、空も今度からもっとちゃんとお参りしようと心を改める。
この村のお地蔵さまは、ただの地域信仰とか心の拠り所なんてものではなく、物理的に救いの手だったのだ。もっと普段から積極的に敬い、いざという時にはぜひ助けていただきたい。
お供えは何が好きだろうかなどと空が考えていると、ヤナが子供たちを促した。
「さ、帰ろう。きっと雪乃も心配しているのだぞ」
「うん! おなかすいた!」
「おれもぺこぺこ!」
「わたしもー!」
「お昼何かなぁ」
「おれたまごやきがいい!」
皆でわいわいと何が食べたいか話しながら、お堂を後にして歩き出す。
歩きながら空がふと振り向くと、お地蔵様は何事もなかったかのようににこやかな笑顔でそこにいた。
「またあえるかな?」
空が呟くと隣を歩いていた明良が笑って頷いた。そしてそっと耳打ちしてくれる。
「ゆうがたになってもあそんでると、オコモリさまがきて、おこられるんだってさ!」
「……あいたくなったら、やってみる?」
「もうちょっと、おっきくなってからな!」
「うん!」
その内緒話を聞いて、幸生が困ったような顔をし、それを見たヤナがくすりと笑う。
「誰かさんもやったな?」
「……忘れろ」
オコモリ様はいつだって村の子供たちの守り神で、ちょっとした憧れで、皆が大好きなおばあちゃんなのだ。
「またね、オコモリさま!」
――手を振って帰っていった空を見送ってお地蔵様もこっそり手を振っていたけれど、それに気付いた人はそこにはいなかった。
秋編、後一話で終わりです。