96:オコモリ様
「……お、おばあさん?」
空は老婆を見て小さく呟いた。
その老婆は紺色の地味な色柄の着物に、裾がすぼまったズボン、腰を覆う少し色褪せた赤いエプロンという格好をしていた。一昔前の人の様な服装だ。
体は小柄で、白い髪は後ろで団子に結い、日に焼けた肌には深い笑い皺が刻まれている。
穏やかで明るい田舎のおばあちゃんという雰囲気の見た目なのだが、その手には何故か金色に輝く長い錫杖が握られていた。
老婆は自分の背より長いその錫杖の石突きをカンと音高く地面に打ち付け、上空で群れるトンボたちをひたと見据える。トンボたちは何かを恐れるように距離を取っていたが、やがて焦れたように老婆に向かって襲いかかった。
「はんっ!」
老婆はそれを鼻で笑うと、錫杖をヒュンと振り抜いた。途端、トンボたちが何かにぶつかったようにドンッと弾かれ、次いでその勢いのまま空中でバラバラに千切れ飛ぶ。
「おれの堂の傍で子供らを襲おうなんざ、百年早いのさ!」
老婆はにこやかに笑いながら錫杖を振るい、トンボたちを次々に細切れにして行く。
「オコモリさま!」
「うわぁん、オコモリさまー!」
顔を上げてその姿を見た子供たちが口々に叫ぶ。
オコモリ様、と呼ばれた聞き覚えのあるその名に、空は老婆を見て、後ろを振り向き空っぽのお堂を見て、それからまた老婆を見た。自分の耳と目を疑い、まさかと思いながら三度見くらいして、そして何となく察して諦め、静かに応援する事にした。
オコモリ様はその間にも錫杖を手に駆け回り、縦横無尽にトンボたちを蹴散らして行く。子供たちを背に守り、その声援を受けて一歩も引かず戦う姿は、どこからどう見ても老婆なのにとても強く勇ましく、美しくさえあった。
「オコモリさま、やっつけちゃって!」
「はいよ、任せときな! ハァッ!」
結衣の声に応えたオコモリ様が気合いと共に高く跳び上がり、錫杖を天に向かって突き出す。するとその先端から強い光が放たれた。広がった光は上空にいたトンボたちの多くに突き刺さり、その体を焼き焦がした。
ドサドサと落ちてくるトンボと共にオコモリ様は身軽に着地し、周囲を見回し、僅かに残ったトンボたちを睨み上げる。
トンボたちはその姿に敵わぬと恐れをなしたのか、しばらく遠巻きにしていたかと思うとやがて皆逃げて行った。
それを見送り、トンボたちが完全にいなくなるのを待ってから、オコモリ様が子供たちの方を振り向いた。
「アンタたち、もういいよ」
その言葉で、ヤナと圭人がホッと息を吐き結界を解いて蔓を消す。
ヤナが結界を解いたのを見て、空はフクちゃんと共に駆けだした。
「オコモリさま……ありがとぉ~!」
結衣が泣きながら真っ先に駆け寄って抱きつく。
明良や武志、勇馬もオコモリ様に駆け寄った。
オコモリ様は優しく結衣の背を撫で、子供たちの頭を順番に撫でて、遅くなってすまなかったねと謝った。
「ヤナちゃん! みんな!」
空が走り寄ると、ヤナが空を抱き上げて抱きしめてくれた。
「空、怪我はないか?」
「ぼく、ぜんぜんへいき! みんなは!?」
空はヤナの顔や体を見回したが、特に怪我はしていないように見える。
ただ、少し疲れた顔をしていた。
「皆無事なのだぞ。だが、さすがに肝を冷やしたな」
ヤナはそう言って空を下ろすと、オコモリ様の方を向いて頭を下げた。
「オコモリ殿、ありがとう。本当に助かった。危なかったのだぞ」
「ありがとうございました、お陰で皆無事でした」
ヤナと圭人が頭を下げ、子供たちも口々に礼を言う。
「いいんだよ。間に合って良かった」
オコモリ様はそう言って首を横に振り、全員を促してお堂に向かわせた。
そしてお堂の前まで来ると、疲れたようにため息を吐く。
「あちこちで一斉にトンボが襲ってきたもんだから、そりゃもう大忙しさね。おれの分体も全員で出張ってたのさ。お陰でここに気付くのが遅くなっちまって……怖い思いさせて、悪かったねぇ」
「ううん、だいじょうぶ!」
滲んだ涙を拭いて笑顔を取り戻した結衣が首を横に振る。
「そこの坊やの声が聞こえて、慌てて駆けつけたんだ」
オコモリ様は空の方を見てそう言った。
「……ぼく?」
「ああ。空だったかい? ありがとうね。坊やの声はよく聞こえたよ」
「おこもりさま……おじぞうさま?」
お堂とオコモリ様を交互に見て、空は問いかけた。
「ああ、そうさ。ここはおれのお堂でね。おれはこの村の子供の守り神なんだよ。何かあったら、ああやって近くで呼んでおくれ。まぁ、普段は大体、寝てるがね」
そう言ってパチリとウインクをするその姿が、ゆらりと揺れて薄れて行く。
「さぁ、子供たち。しばらくここで休んでおゆき。間もなくアオギリ様がいらっしゃる。そうしたら、お家に帰れるよ」
そう言ってオコモリ様の姿は空気に溶けるようにゆっくりと消えていった。空はそれをぽかんと見送り、それからお堂を振り向く。
振り返って見たお堂には、まるでずっとそこにいたかのように、いつもと変わらぬお地蔵様が鎮座していた。
お堂の傍の低い石垣に腰を下ろし、大人も子供も持っていた水筒からお茶や水を飲んで一息ついた。走り疲れた体に水分が染み渡り、誰もがホッとした顔をする。
空は竹籠から細い竹で出来た水筒を取り出した。
上部を少しだけ斜めに切った竹の節に穴を開けて、同じく竹で出来た小さなピンのような蓋を押し込んだ昔風の水筒だ。そんな水筒を見たのが初めてで、渡されたときは随分とビックリした一品だ。
もちろんコレも善三作で、何か魔法が掛かっていて見た目よりも中身がたくさん入る上に長持ちするらしい。こんな物に何故そんな高機能を、と空としては不思議に思うのだが、中身がたくさん入っていることが今は有り難い。
「はい、ヤナちゃん」
「ヤナは後でも良いぞ?」
「だめ! いちばんがんばったもん!」
「……じゃあ遠慮無く。ありがとうな」
空がぐいと差し出すとヤナは笑って受け取り、中に入った麦茶をごくごくと美味しそうに飲んだ。
「はぁ、生き返るな」
そう言ってヤナは大きく息を吐き、空に水筒を返してくる。それを受け取って、空は次に自分の手のひらにお茶を少し出した。そしてそれを傍にいる、元の大きさに戻ったフクちゃんにそっと差し出す。
「はい、フクちゃんも」
「ホピッ!」
フクちゃんは嬉しそうにお茶をツンツンと突いて細かく嘴を動かし、上を向いてお茶を飲み込んだ。少し飲んだところでもう良いと言うように顔を上げて首を横に振った。
「もういいの? またほしくなったらいってね?」
最後に空が水筒に口を付ける。中のお茶は少しだけひんやりするくらいのほど良い温度で、空の喉をするすると滑り落ちていくようだった。
ごくごく飲んで、ぷはーと息を吐いて、スッキリした気分で青空を見上げる。
するとどこかからバチバチと火花が散るような音や、何かが爆発するような音、犬が吠えるけたたましい声が響いてきた。
「どうやらあちこちで駆除しておるようだな」
「……みんな、へいき?」
「多分大丈夫なのだぞ。オコモリ様のような存在も、この村には沢山おるからな」
「そっか……」
よかった、と空は呟いた。
振り向いて皆を見ると、武志は黙って水を飲み、結衣はその武志に寄りかかって半ばうとうとしている。勇馬は圭人の膝の上に乗ってぎゅっと抱きついて子供らしく甘え、背中を撫でてもらっていた。
そして明良は水筒を持ったまま、一人ぼんやりしている。
「アキちゃん?」
空はその隣に行って座り、顔を覗き込んだ。
「そら……へいき?」
「うん。アキちゃんは?」
「おれもだいじょぶ……そら、さっき、すごかったな。ドングリ、あたってた」
明良は空がベルトに差している投石器を指さし、微笑んだ。あの状況の中でも、明良は空が頑張っている事を見てくれたらしい。
「ちょっとしかあたってないよ」
「それでもあたってた。おれも、そういうのほしいなぁ」
「つくってもらおうよ」
「うん……」
空の言葉に頷いたが、明良の表情は冴えないままだ。
実際は投石器一つがあっても、空はトンボを前に何の役にも立っていなかった。それを考えれば力としては全く心許ない。
明良がいう「そういうの」とは、この投石器の事ではないのかもしれないと何となく空は気付いた。
「アキちゃんも、つよくなりたい?」
「……うん。おれ、まだなんにもできないや」
「えー、それ、ぼくじゃないかなぁ。アキちゃんたち、かまでたたかってたもん」
一番何も出来ないのはどう考えても自分だ、と空は自分の顔を指さした。けれど明良は首を横に振り、空の肩にいるフクちゃんを見た。
「そらには、フクちゃんがいるじゃん。フクちゃんすごかったよ」
それは確かに一理ある。フクちゃんがいなかったら、空はヤナに運んでもらうしかなかっただろう。
「それ、ぼくがすごいんじゃないよ」
「でも……うーん、ちがうのかな……なんか、むずかしい」
「うん……」
強くなりたい。こんな時にそう思う明良の気持ちが、空にもよく分かった。
けれど、強いとは一体どんなことを言うんだろう?
どんな力を手に入れれば、自分たちは安心して、それに満足するのだろう?
いつか、そんな事もよく考えないといけないのかもしれない。大きくなるまでには何か見つかるといいなぁ、と空はそんな風に思う。
田舎ではお地蔵様も動く……。
お婆さんなのは土地の民話とかそういうアレに関係しています。
と言うのは建前上用意した設定で私が強い老婆が好きなだけです。
つよつよの素敵な婆さんが世にもっと増えますように。