79:水たまりの向こう側
秋の稲刈りがあっという間に終わり、村の景色は何だかすっかり寂しくなった。
季節はまだ残暑という気配で、天気が良くカラリと暑い日が続いている。秋晴れの空は高く美しいのだが、空としてはやはり半年間散歩の楽しみにしていた田んぼがハゲになったというのは少し寂しかった。
それでも、体力作りを兼ねた日課の散歩を止めるわけではない。
冬になると外に出る機会が減るから、とヤナにも促され、毎日元気に空は散歩に出ている。
力のコントロールの方は相変わらずあまり上手くはならず、たまに何かを壊してはしょんぼりと落ち込む事を繰り返していた。
今日も空は草鞋を履き、甚平の上にパーカーを着て外に出る準備を整えた。そろそろ甚平は涼しすぎるのだが、善三特製のスーパー草鞋を履いていると特に寒さを感じないので、三日に一回くらいは甚平で出かけている。着物や作務衣ですごす事の多い幸生とお揃いな感じがして、空はその格好がお気に入りなのだ。
「空、今日はどこまで行く?」
「うーんと……たんぼ?」
「空は田んぼが好きだな。飽きぬのか?」
「たんぼのわきの、あきのおはなみるの!」
最近田んぼの用水路沿いの低い土手やあぜ道に、真っ赤な彼岸花が出てきたのだ。見慣れぬその花は秋の田舎に良く似合い、眺めても飽きない。
空の言葉にヤナも頷き、二人は連れだって家の門を出ようとした――ところで、玄関が開き、雪乃が顔を出した。
「空、忘れ物! 今日はお日様が眩しいから、帽子を被っていって!」
その言葉にヤナが先に足を止めて振り向く。今日は二人はまだ手を繋いでいなかった。いつも門を出る直前に繋ぐのだ。
空は雪乃の声に反応が遅れ、動き出していた体がそのまま一歩、外に出る。ほんの一歩だが、しかしその一歩はどこにも触れずに空を切った。
「え?」
空はパチリと瞬いて、自分の足が水たまりにスッと入ったのを見た。
さっきまで確かにそこになかったはずの水たまりを、それと認識する前に空の体がゆらりと傾き、世界がぐるりと回る。
「空っ!?」
「え? あっ、空!?」
雪乃の声で異変を察知したヤナが振り向き、手を伸ばす。
しかしあとほんの少しというところでその手は宙を掻き、空を捕まえる事は叶わなかった。
とぷん、と微かな水音を残して、空の体がかき消える。あとに残ったのは、手を伸ばしたまま何もない地面を見つめるヤナと、慌ててどこかに向かった雪乃の姿だけだった。
水たまりに落ちるとどうなるのか。
空はヤナにその怖さを教えてもらってから、何度か想像してみたことがある。
けれど実際に落ちてみると、その想像のどれもと違う、と空はどこか冷静な、半ば止まったような思考の端でそう思った。
水たまりの中は水の中という感じはしなかった。ビックリして思わず息を止めたけれど、それが続かなくなっても別に水が口に入ってきたりはしなかった。息も苦しくはない。
体は浮かず緩やかにどこかに向かって落ちている。その速度が思いのほかゆっくりなので、何だか不思議であまり怖くない。
周囲は明るく、けれど白っぽいもやのようなものに覆われて、はっきりとした何かが見えるというわけではなかった。まるで生温い雲の中をゆっくりと落ちていくような、そんな感じがした。
ただ、どこからか自分を窺うような沢山の気配や、極微かな、くすくす、きゃっきゃと笑いはしゃぐ声が聞こえる気がする。
気のせいかと思うような微かな声は少しばかり不気味だが、遠すぎて害をなす物かどうかの判別も難しい。それゆえか、あまり恐怖は感じなかった。
空がそんなに怖いと感じていないのは、首元に小さく温かく、けれど頼もしい相棒がいるからというのもある。
空が水たまりに落ちた瞬間、いつもの通り肩の上にいたフクちゃんは置いて行かれまいと空のパーカーのフードにしっかりと噛みつき、一緒に水たまりを潜って着いてきてくれた。
少しだけ体を大きくして空の首元により添い、その温かさで安心感を与えてくれている。
空はフクちゃんに片手で触れ、どこへともなくゆっくりと落ちていく自分と、その周りにしっかりと視線を回して確かめる。
(どこに行くんだろう……ヤナちゃんは、確かこういうのは人じゃない誰かのいたずらだって言ってた……)
すぐに迎えが行くから大丈夫だとも言ってくれた。それを信じて、空は少しばかりの怖さと心細さでせり上がってきそうな涙をぐっと堪えて、膝を抱えるように体を小さく丸めた。
どのくらいそうして耐えていたのか、長いような短いような時間の後、周囲の景色が不意に変化した。
周りのもやがチカチカと光り、段々と明るくなる。
「まぶし……」
「ホピッ!」
臨戦態勢のフクちゃんがふわりと体を膨らませ、武者震いのように体を震わせる。
次の瞬間、空は唐突にポンとどこかに放り出されたのを感じた。
「ひゃっ!?」
トン、とお尻と足が同時に地面に着く。身を縮めていた空はビックリして更に縮こまったが、それ以上の衝撃は来ない。
「……?」
肩にいるフクちゃんを確かめながら、空は恐る恐る目を開けた。
辺りはさっき居た場所よりもずっと薄暗い。空気はひやりと涼しく、さわさわと風や葉ずれのような音がする。
「ここ……もり? ど、どこ?」
「ピ……」
空は頭上にそびえる高い木々と、その隙間からさす木漏れ日というには少しばかり少ない光を見上げ、困惑した。
足下を見るがそこには地面しかなく、周りを見ても草や低木しかない。
立ち上がろうとするとふらりと体が傾き、空は近くにあった木に手をついて転ぶのを免れた。
立ち上がってみると、地面は随分と斜めで、ここが平地ではないことは一目瞭然だった。
「ここ……やま? やまって……ふぇ」
見知らぬ場所に放り出され、そこが深い森であり、恐らく山だという事実に空の心が不安で塗りつぶされそうになる。
「ピッ、ピピッ!」
励ますようにフクちゃんが高く鳴いて、空に体を擦り付けた。
「フクちゃん……」
途方に暮れながらも、相棒の励ましを受けて涙を堪える。空はしばらく考え、それからヤナの教えてくれたことを良く思い出そうと頭の中で繰り返し、そして顔を上げた。
「ヤナちゃん、ばぁば、じぃじ……たすけてー!」
とりあえず、名前を呼べ、という教えに従って……空は大きな声で助けを求めることにした。
空の声は静かな森にゆっくりと広がっていった。
色んなお餅の食べ方ありがとうございました~!
全部美味しそうでお腹空きました……。
皆さんお勧めの食べ方、今度色々試してみます!
あと若干不穏な始まりですが、いつも通りなので全然大丈夫です。