41:夏の始まり
舞台は本殿の裏からも回廊で繋がり、中央部が一段高く、そして大きく池に向かって張り出している。その両脇に大きく広がる下段で見物することが出来るらしい。雪乃は舞台がよく見える空いている場所へと歩み寄った。
「空は初めてだから、良い場所を空けておいて貰ったのよ」
「そうなの? ありがとう!」
雪乃は欄干の手前で足を止めると空をぐっと持ち上げて背負い直してくれた。肩越しにだが舞台がよく見えるようにしてくれたのだろう。空はその肩にしっかりと掴まって身を乗り出すようにして池の様子を眺める。するとその池の真ん中に白っぽい何かがポツリと立っているのが見えた。
「ばぁば、あれなぁに?」
「うん? どれのこと?」
「あれ、おいけのまんなかの!」
激しい雨で視界は煙り、あまり遠くまでは見通せない。けれど池に目をやった雪乃はすぐに頷いた。
「あれは蓮の花よ。夏の合図のお花ね」
あれが、と空はじっと見つめた。確かに蓮の花のようだが周りには葉もなく、ポツリと一本だけ池から伸びて花を咲かせているのは何だか不思議な光景だった。空がそれを見つめていると、不意に辺りがざわめいた。
「あ、空。ほら、始まるわよ」
そう言って雪乃が体をくるりと反転させる。すると本殿とそこから続く回廊が良く見えるようになった。回廊から着物姿の人影が幾つもこちらに向かって歩いてくる。雪乃はその中の白衣に緋袴の女性を見て空に声を掛けた。
「ほら、弥生ちゃんがいるわ。憶えてる?」
「うん。みこのおねえさん……あとはだあれ?」
巫女姿の弥生は三宝に赤い盃を載せて捧げ持ち、先日の酔いどれた姿が嘘のようにしずしずと歩いている。その弥生の前には神主姿の老人が歩き、弥生の後ろには同じく神主姿の二十代くらいの男と、何やら供物らしき物を抱えた男達が続く。
「一番前はここの神主の辰巳さん……一番偉い人ね。弥生ちゃんのお祖父さんよ。弥生ちゃんの後ろの子は弟の大和君。その他は村の世話役のおじさん達ね」
「ふぅん。かんぬしさん、かっこいいね」
神主の辰巳という老人は空がこの村で見た壮年から老年の人の中でもかなり年上のように見えた。皺だらけだが優しそうな風貌で、黒い冠が真っ白な頭の上にきちんと載り、長く白い髭が顎の下まで伸びている。神主の服装について空はよく知らないが、細身の体をゆったりと黒の神主装束で包み、姿勢も足取りもしっかりしていた。
村人達が見つめる前を一行は通り過ぎ、一段高くなっている舞台へと登っていく。
空も物珍しいその姿を眺めていて、ふと彼らが少しも濡れていないことに気がついた。
装束も供物も雨に当たれば困る事になるだろうに、誰も気にした様子もなく雨の中を歩いて行く。濡れれば色が変わって目立つだろう白い巫女服も綺麗なままだ。
周囲を見回してみれば、どうやら雨は彼らの頭上で避けるようにぱかりと割れ、その分がこの両脇に降っているらしい。
(何か魔法的なやつかな……どうりでちょっと雨が激しくなったと思った)
夏の雨なのでさほど冷たくもないせいか、それとも慣れているのか、周りの人も気にする様子はない。空も気にしない事にして、これから何が始まるのかを静かに見守った。
神主一行は舞台に上がると、そこに設えられていた台やその周りに供物を下ろした。塩や米、野菜や果物といった山の幸、昆布やするめなどを紐で縛った海の幸、酒の入った一升瓶などが次々に並ぶ。最後に徳利から盃になみなみと酒が注がれた。
準備が出来ると世話役達が後ろに下がって並び、弥生と大和も辰巳の斜め後ろにそれぞれ下がって頭を下げた。
辰巳は笏を構え、頭を深く下げる。それに合わせて村人も揃って頭を下げた。それを何度か繰り返し、それから厳かに祝詞が響き始めた。
「タカマノハラニカムヅマリマスカムロギカムロミノミコトモチテ――」
(呪文みたい)
何を言っているのか空にはさっぱりわからない。わからないが何だか周りの人は大人から子供まで全てが神妙な顔つきで静まって、雨の音まで少し遠ざかったように思える。
空もまた黙ってその祝詞に耳を澄ませた。けれど耳を澄ませるまでもなく、雨の音に負けない力強い声が朗々と響いて空気を揺らす。祝詞は辺りの林に反響して広がり、空には何だか世界がゆらゆらと揺れているように感じられた。体の奥に染み渡るような不思議な声は、けれど決して不快な音ではなかった。
しばらくするとその長いような短いような不思議な祝詞が終わり、辰巳と共にまた村人も頭を下げる。そしてまた静まりかえった舞台で、弥生がゆっくりと動き出した。
三宝に載った盃を恭しく手に取り、弥生は舞台の端へと歩み寄る。そして静かにその盃を池へと傾けた。
中の御神酒がパシャパシャと軽い水音を立てて池へと注がれる。周りの人も空も、それがもたらす何かをじっと待った。
「……」
御神酒を注ぎ終わった弥生が水面を見つめて佇む。一分、二分――何も起こらず五分ほど経った時、弥生は突然くるりと振り向いた。
ずかずかと供物の台に大股で近づいた弥生は、手にした盃をドンと勢いよく台の上に置き、その下に置かれていた一升瓶をガシッと掴んだ。
「弥生、待てっ」
辰巳が止める声を振り切り、弥生はそのまま舞台の端へと駆け戻り、その欄干に草履をはいた足を掛け大きく振りかぶった。
「毎年毎年、何でいっつも寝坊するのよ、この駄蛇! いい加減に起きろーっ!」
ブン、と風を切る音と共に一升瓶が高らかに宙を舞う。そしてその瓶は美しい放物線を描いて池の真ん中の蓮の横に、盛大に水しぶきを上げて突き刺さった。
空はポカンと口を開けた。そしてその直後に思わず身を縮めた。静かだった空気が急に雰囲気を変えてざわめいた気がしたのだ。
ゆらりと何か大きなものがどこかで動いた、と空が感じた次の瞬間――
「ぴっ!?」
――水面がドォンと大きな音を立てて爆発し、おかしな声を上げて空は硬直した。大量の水しぶきが観客達に襲いかかり、あちこちで悲鳴が上がる。空の前にはしっかりと幸生が雨傘を構えて立ち塞がり、わずかに水しぶきが飛んできただけで済んだが、もう空はそれどころじゃなかった。
(何あれ!? 池から、柱が……!)
雨傘と幸生の背の横のわずかな隙間から、何か異様なものが見える。
目の前の池から太い太い柱のようなものが立ち上り、天へと真っ直ぐ伸びていく。直径がどのくらいか見当もつかないほど太いそれが何かの胴体だと、しばし遅れて空はそれに気づいた。その巨体を飾る青い鱗が水飛沫や光を弾き美しく煌めく。思わず上を見上げたが、大きすぎて何が何だかよくわからない。
その良くわからない太く長く大きなものは、真っ直ぐ天に昇りやがて空を覆う分厚い雲にぶつかった。
オオオォォオン……と天高く雄叫びが響く。
空気がビリビリと揺れ、そしてその雄叫びに押しのけられるように雲に丸く穴があき、天からはしごが掛かるように日が差してくる。
幸生が傘を下ろし、空は呆気にとられてよく見えるようになった天を見上げた。もうそこに青い鱗は見つからない。しかし雲にあいた穴はどんどんと大きく広がって、気づけば雨は止んでいた。
押しのけられた雲の向こうから現れたのは真っ青な夏空と、そして目映い夏の日差しだった。