40:梅雨の終わり
「蓮が咲いたそうだぞ」
七月も後半にさしかかったある日。
夕飯の席で幸生がふと思い出したようにそう言った。その言葉に雪乃が顔を上げ、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「まぁ良かった。今日咲いたの?」
「ああ」
「ならあと二日で梅雨明けね」
辛くない麻婆ナスみたいな炒め物をご飯にたっぷりかけて黙々と食べていた空は、祖父母のその会話にご飯から顔を上げた。
「つゆあけ?」
「そうよ。もうすぐ夏が来るわよ、空。良かったわね、楽しみにしてたものね」
「なつ、くるの? おはなどこにさいたの? おにわ?」
米田家の庭には小さな池があるのでそこかと思ったが、雪乃は首を横に振った。
「じぃじが言う蓮の花は……春にお祭りで行った広場あったでしょ、あそこの神社に、龍神池っていう池があって、そこに咲くの」
「おいけに、おはな?」
「ええ。龍神池にぽつんと一つだけ特別な花が咲いて、それがこの村の梅雨明けの合図なの。咲いた日から三日後にちょっとしたお祭りをして、その日から夏ね」
田舎は季節の変わり目もはっきりしているのかと空は驚いた。
最近は雨が降る日が少し減ったが、その分降る時はドバッと降る事が多い。流石に合羽を着ても庭にも出られず、空もそう言う日は仕方なく一日家にいる事が多かった。そんな日々からやっと解放されて、また外を散歩できるようになるなら嬉しい。
「なつ、たのしみ!」
暑くなったら川に一緒に行こうと、明良達と約束しているのだ。他にも色々楽しい事をしようと誘われているので、今からとても楽しみだった。
「そうね。お祭りの日は、一緒に神社に行きましょうね。皆見に行くから、きっと楽しいわ」
「うん!」
春の田植え祭りも色々驚かされたが、一応ちゃんと楽しかった。だから今回も楽しいと良いな、と空は期待を膨らませる。
窓の外をちらりと見れば日が長くなったのでまだ薄明るいが、今日はずっと雨降りだった。
「おまつり……みっかご!」
憶えた! と空は呟いて、またどんぶりにスプーンを入れた。
そして三日後の朝。空は雪乃におんぶして貰って外に出た。今日も外は雨なので、雪乃は背中の空まですっぽり入る大きな雨合羽を着ている。
空は自分で歩くと言ったのだが神社までは結構距離がある。空の足ではまだ辛いということで、濡れないように最初から運んで貰うことになったのだ。
「ばぁば……おもくない?」
「重くないわよ。空はまだまだ軽いし、ばぁばはこう見えて力持ちなのよ?」
雪乃が一俵の米俵を軽々運んでいる所を空は見ているので、力持ちなのは知っている。一応聞いてみただけだ。もう三歳なのにこんな風に背負われるのがちょっと恥ずかしくて、重いって言われたら自分で歩くと主張しようと思ったのだがやはり駄目だった。
玄関を出ると軒先で幸生が傘を差して待っていた。幸生はしっかりと雨合羽を着込み、空をおんぶしているとフードをかぶれない雪乃に傘を差し掛けてくれる。
「ありがとう」
「うむ。行くか」
歩き出すとたちまち雨がバラバラと傘を打つ音がして賑やかになる。今日は空も濃いめの灰色で雨の勢いも激しい。本当にこれで梅雨が明けるのか空には疑問だった。
家の敷地を出て村の中心部に向かって歩き出すと、周囲の家々からも田植え祭りの日と同じようにパラパラと人が出てくる。
矢田家の明良や野沢家の武志達の姿も見えたが、雪乃の背からでは手を振ることも出来ない。
「そら、おはよ!」
「おはよー、アキちゃん」
明良は空が持っている雨合羽とよく似た青い合羽を身につけ、子供用の傘を差していた。多分それらもカエル製なのだろう。
「やっとなつだなー! いっぱいあそぼーな!」
「う、うん」
ざばざばと雨が降っている中で夏が来ると言われても空にはあまりピンとこない。でも少し離れた所で手を振っている結衣や武志も嬉しそうなところをみると、やはり何かあるのだろうと空はちょっと覚悟した。
雨音を聞きながら村道を歩き、ようやく村の中心にある広場に着くと、そこにはもう結構な人数の人が集まっていた。
皆思い思いに傘をさしたり雨合羽に身を包んだりして雨を避けながら、広場のあちこちに集まって談笑している。空を背負った雪乃は足を止めず、広場の北側にある鳥居へと向かった。
「ばぁば、じんじゃいくの?」
「そうよ。空は初めてね。今日は子供連れの家族が神社の奥に行くのよ」
どうやらそういう決まりがあるらしく、空が振り向くと明良や武志らのような小さな子供がいる家族が後ろを歩いて繋がっている。小学校高学年や、中学生以上の子供しかいない家族は広場で待っているらしい。
(何だか不思議な風習……怖いことがないといいなぁ)
そう思うとちょっと緊張してきて、空は雪乃の服をぎゅっと掴んだ。
神社を囲む鎮守の森は外から見てもこんもりと大きかったが、中に入るとその広さも結構なものだった。ブナや椎の大きな木が何本も立ち並び鬱蒼と茂っている。常緑樹も多くあり、どの木も皆太く大きい。
鳥居を潜ると途端に空気がひんやりとして、空は思わず深呼吸をしたくなった。すぅっと息を深く吸い込むと、胸の奥がぽかぽか温かくなってくる。村の空気はどこもそうだが、この神社の内側の空気は更にそれが強いような気がした。
「くうき、ひんやりしてあったかい」
「ふふ、空にはそう感じるのね。気持ちいい?」
「うん。ぽかぽかする」
体が温かくなって、雪乃の背に揺られて気持ち良い事もあって眠くなりそうだ。
空はプルプルと頭を振って、近づいてくる神社へと目を凝らした。
鳥居から続く参道は大木の林の間を真っ直ぐ貫き、林の切れ目に二つ目の鳥居が見える。
そしてその鳥居の向こうにはなかなか大きく立派な神社が建っていた。参道から真正面にある大きな茅葺き屋根の建物が本殿と拝殿のようだ。それと繋がるようにして他にもいくつかの建物が横に連なる。
雪乃らはまず拝殿に向かい、そこで空を一度下ろすと皆でお参りを済ませた。
空もやり方を教えて貰い、見よう見まねで手を合わせて目を瞑る。
(初めまして、空です! よろしくお願いします!)
空はとりあえず心の中で元気よく挨拶しておいた。
「さ、空もう一回負ぶさってくれる? そろそろお池で神事が始まるからね」
「あい」
そう言って雪乃に促され、空はまたその背に乗っかる。
外側から雨合羽を着込むと、雪乃は幸生の傘に導かれるようにまた歩き出した。
「どこいくの?」
境内の左側に玉砂利が敷かれた細い道があり、米田家を始めとした他の幾つかの家族も参拝を済ませてからそこへ向かっている。
「神社の向こうにお池があって、小さな子がいる家族は側で見て良いことになってるのよ」
「おいけ……」
「ほら、見えてきたわよ。あれが龍神様のお池ね」
大きく曲がった道の先で木々が途切れ、その向こうに鈍い銀色に光る水面が見える。池は丁度本殿の裏側にあるらしい。
「わぁ……」
道の終わりは大きな池と、その池の上に張り出した舞台とで作られた美しい場所だった。
林を丸く切り取るかのような池と、池の中に立てられた朱塗りの柱に支えられた白木の舞台。欄干も同じ朱で彩られ、その色が木々の緑に染まった水面に美しく映える。
雨で水面が波立っている為はっきり映っている訳ではないのが残念だ。今日が晴天だったならさぞ幻想的な風景だっただろうと、空は雨を少し恨めしく思った。
更新が遅れました。
やっと梅雨明け話です。