38:聞こえていたらしい。
梅雨の合間のジャガイモ掘り(?)も終わり、少しずつ夏の気配が近づいてきた。
雨の日が少し減り、降る日はドバッと多めに降ったりと空模様は安定しない。
村人は雨の日でも田んぼの様子を交代制で毎日見に行き、晴れ間を見ての農作業や収穫をしているらしい。雨で割れたトマトや果物をたまに貰うと、その日のうちに雪乃がサラダにしたりジャムにしたりしてくれる。
「あんずってふしぎ」
「何が不思議なの?」
黄色いジャムをパンケーキにたっぷりと付けて口に運び、空はその甘酸っぱさにうっとりした。
「だって、ばぁばがじゃむにするまえおいしくなかったのに、いまおいしいんだもん」
パンケーキは空が好きだからと紗雪がレシピを伝え、ベーキングパウダーなどを持たせてくれたのでここでも雪乃が時々作ってくれている。上に掛けるのは蜂蜜や雪乃お手製のジャムだが、いつ食べてもとても美味しい。今日はこの前近所の人がお裾分けしてくれた杏で作ったジャムを掛けてもらった。黄色い色が鮮やかで、甘酸っぱくて独特の香りがとても良い。
「そうね、杏は生だとちょっと寝ぼけた味がするわね。火を通すと大分変わるけど、空は好き?」
「おいしいからすき!」
空は元気よくそう答えると、雪乃が切り分けてくれたパンケーキの大きな塊をむぐ、と口に放り込み幸せそうに目を細めた。
「空が好きならうちにも木を植えようかしらね。うちは果樹が少ないから、苗を分けて貰って少し増やそうかしら……あと今度買い物に行ったら多めに小麦粉を買ってこないとね」
「ぱんけーきのもと? じぃじつくってない?」
「この村では作ってないわねぇ。あんまり土地にあってないし、粉にしたりするのも面倒だからお外で買ってくるのよ」
「おそとでかうもの、いろいろあるの?」
空はこの村に来た時に通り過ぎてきた町や村を思い返す。隣の魔狩村なら魔砕村よりも色々な物が売っているし、列車に乗って別の町まで行けば、更に色々売っているらしい。
「色々あるわよ。この村は結構最近までほとんど自給自足だったから、生活に必要なものはあちこちと交換したりして大抵手に入るけど……外から入る物も多くなったし、空もいるし、色々買いたい物が増えたわね」
「おかいもの、ぼくもいってみたいな」
「あら、良いわよ。じゃあ今度魔狩村まで行く時は一緒に行きましょうね。空もだいぶ元気になったし大きくなったから、季節の服を買い足しても良いわね」
その時はまたキヨちゃんを呼びましょうね、と雪乃が言ってくれたので、空はホッとして頷いた。
空は知っている。
この村の人の何割かは、隣村やその向こうまでくらいなら平気で走って行くのだ。
ジョギングするような軽い調子で走り出し、車かバイクくらいの速度で村道を駆け抜けていく。何度か散歩の途中にそんな村人の姿を見かけて、空はその度に目を疑った。
雪乃だって一人で買い物に行く時は走って行くらしい。近所のスーパーに行くような気軽さで峠を越えて帰ってくるのだ。
もちろん全員がそうという訳ではないので、亀のキヨちゃんが引くバスにもちゃんとそれなりの需要があるらしいが。
(そう考えると、バスも無かった頃に家を飛び出して東京まで一人で辿り着いたママは、実はかなりの強者なのでは……?)
列車の線路がこの辺まで延びたのは結構最近だって言ってたから、その頃は多分もっと駅も遠かったはずだ。公共交通機関があるところまで何日かけて行ったのかはわからないが結構な距離があったのではないかと思うし、危険な生き物もいただろう。
次に家族に会えた時には絶対聞いてみようと、空は密かに思っていた。
「そーらー、あそぼー!」
空が十時のおやつだったパンケーキを食べ終えた頃、玄関から元気な声がした。
「あーい!」
大きな声で返事をして空も元気よく駆け出す。玄関に行ってみると、明良と結衣が並んで立っていた。
「そら、おはよ!」
「おはよー、そらちゃん!」
「おはよー、アキちゃん、ユイちゃん!」
遊びに来てくれた二人に嬉しくてニコニコしていると、雪乃も玄関にやって来た。
「おはよう、今日は保育所お休み?」
「おはよー、おばちゃん! きょうはせんせいたち、えんのくさかりだって」
「なんかへんなのがはえたんだって!」
「この季節は雑草が良く伸びるからねぇ。きっと噛みつく草でも生えてきたのね」
二人の言葉に、何でも無いことのように雪乃はそう言って頷いた。空はそれを聞きながら、家の庭以外を歩く時は草鞋を履くのを忘れないようにしようと心に刻んだ。
「なにしてあそぶの?」
「んー、どうしよう。あめはふらなそうだけど」
「そらちゃん、なにしてたの?」
空はおやつを食べ終えたところで、丁度これから庭にでも出ようかと思っていたところだった。
「あんねー、おさんぽで、おにわにいくとこだったよ!」
そういえば今日はまだヤナとも顔を合わせていない。空がそう思って隣を見上げると、雪乃が頷いた。
「今日はヤナはお庭でじぃじの畑を手伝ってるのよ。皆で行って、一緒にお手伝いするのはどう?」
「おじちゃん、はたけでなにしてるの?」
「キュウリやトマトができはじめたから、様子を見て収穫したりしてるはずよ」
「あ、わたしトマトとりたい!」
結衣がそう言うと、明良も嬉しそうに頷いた。
「キュウリとかトマト、たのしいよな! そら、にわいっててつだいしよ!」
「うん!」
何が楽しいのかは良くわからなかったが、取りあえず明良の誘いに空も頷いて長靴に手を伸ばした。
裏庭に行くと、ヤナと幸生が植えられた作物の間を籠を持って歩き回っているところだった。
「おはよー、おじちゃん、ヤナちゃん!」
「おはよーござまーす!」
「おう……おはよう」
「おはよう、いらっしゃい二人とも。今日はお休みなのか?」
「うん、あそびきた!」
「ねーヤナちゃん、トマトとってる? わたしもやりたいの!」
「お、そうかそうか。トマトは丁度採り頃のが結構あるぞ」
結衣の言葉にヤナはすぐ横に植えてある背の高い植物に視線をやった。空も釣られてそちらを見たが、緑の葉が見えるばかりで赤い色は見当たらない。高く伸びた背を支えるように支柱が立てられ、その支柱や枝もよく見えないくらいに緑の葉が生い茂っている。
空は近くまで行くと葉と葉の間を覗き込み、そこにぶらさがる幾つもの緑色の大きな実を見つけた。
「ヤナちゃん、まだあかくないよ?」
「ん? ああ、トマトは褒めないと赤くならないぞ」
「……ほめ?」
「そうだよー、トマトはてれやさんなんだよ!」
結衣はそう言うと空の隣に来て、葉っぱをペラリとめくり上げてそこにあった一際大きなトマトに声を掛けた。
「トマトさん、すっごくおおきくなったね! つやつやしてかわいーね!」
確かに褒め言葉だ。空が目を丸くして見守っていると、結衣の褒め言葉を受けたトマトが本当にじわじわと色を変え始めた。
「わたしトマトだーいすき! かたちがかわいいし、はっぱもきれいだよね!」
続く言葉に、大きなトマトだけでなくその周りのトマトもじわじわと赤くなり始めた。
「空、優しく撫でてやると早く色づくぞ」
「う、うん……」
ヤナに促され、空も目の前のトマトに向き合って、そっと手を伸ばしてみる。
半分ほど色づいたトマトを小さな手で恐る恐る何度か撫でた。すると確かに少し色づく速度が上がった気がする。
「と、とまとさん、すべすべで、つやつやだね! ぼくも、とまとさんおいしいからすごくすきだな」
空が小さくそう呟くと、撫でていたトマトが一瞬でヘタの根元まで赤くなった。
「わっ」
「お、良いぞ空。どれ、下から持っていてくれ」
ヤナがハサミを持った手を伸ばし、パチリと枝を切ってくれる。空の小さな両手に真っ赤になったトマトが落ちてきてずしりとした重みが掛かった。顔の前に持ってきて何となく匂いを嗅ぐと、青臭いような香りがする。大きくて真っ赤でつやつやで、とても美味しそうだ。
「空、あっちの籠においてくると良いぞ。まだ沢山採り頃のはあるから褒めてやってくれ。幸生は口下手でトマトの収穫はヤナ一人だったから助かるのだ」
「ヤナちゃん、これまっかになったよー!」
「おれのとこのも!」
「はいはい」
結衣と明良のトマトを切ってやりにいくヤナを見送り、空は大きなトマトを落としてしまわないように大事に持ってそろそろと籠へと向かう。
「んしょ」
籠まで辿り着き、そうっとトマトを置いてホッと息を吐く。以前ヤナが、トマトは可愛いと言っていた。その時は空には何の話かちっともわからなかったのだが、こうして収穫してみると確かに可愛く思えてくる。動かず大人しくしていてくれる事も空にとっては高評価だ。
「とまとさん、てれやなのかぁ……」
これ以上赤くなれないというくらい赤くなったトマトを見ていると何だか楽しくなって、空の顔にも笑顔が浮かぶ。
空は立ち上がって急いでトマトの畝の所に戻ると、葉っぱの間を覗き込んで大きくなっているトマトを探した。
「とまとさんとまとさん……あっ、これかわいいかたち。なんかはーとみたいだね? すべすべでぴかぴかで、みどりのへたがおほしさまみたいで、すごくにあってるね! ぼく、あまいとまとさん、すごくすきだなぁ」
形の可愛いトマトを優しく撫で、笑顔で一生懸命褒める。ニコニコ見つめているとトマトはさっきよりも更に素早く赤く染まった。空の笑顔に釣られたのか、その周囲のトマトも何故か次々赤くなっていく。
「お、空なかなかやるな。こんなに次々赤くして、幸生の孫とは思えぬな!」
「じぃじ、とまとにがてなの?」
「苦手どころか……幸生は口下手だからな、褒め言葉どころか黙ってじっと見つめるだけなのだ。そうするとトマトは困って、しまいに青くなる。そうなると酸っぱすぎたり苦かったりで、もうとても食べられたものじゃないのだぞ」
空が幸生の方を見ると、幸生は地面を這う蔓植物の下に筵を敷いたり、いらない芽を摘んだりとせっせと別の作業をしている。空はその姿を眺め、それからトマトにまた視線を向けた。
「とまとさん、あんね、じぃじ、こわくないよ。とってもやさしいよ」
トマトは空の言葉に応えないが、なんとなく色が少しだけ緑色にもどったような気がする。
「じぃじも、とまとさんきっとすきだとおもう……じぃじも、とまとさんといっしょでてれやなんだよ! あ、でもとまとさんがこわいなら、ぼくがじぃじのぶんまでいっぱいほめるね。だから、じぃじ、きらわないで?」
トマトは困惑したように赤の中にうっすらと緑を混ぜたかと思うとまた赤くして、と明滅していたが、空に撫でられてやがてまた赤く戻って落ち着いた。それを見ていたヤナが大きな声で笑う。
「あははは、幸生が照れ屋か! 確かにそうだなぁ。だがトマトも困ってるぞ、空。ほら切るぞ」
空が慌てて手を出してトマトを支えると、ヤナがパチンと茎を切ってくれた。
「とまとさん、わかってくれたかなぁ」
「さてなぁ。まぁ、土を作り、苗を植え、支柱を立てたりわき芽を間引いたりと、普段まめに世話をしているのは幸生だからの。トマトもそれはちゃんとわかってるだろうさ」
「うん!」
可愛いハート型みたいなトマトを空は大事に運びながら、ふと幸生の方を見る。幸生は何故か仁王立ちで天を仰いで動きを止めていた。
あとで食べたそのトマトはとても甘酸っぱく、他のトマトより複雑な旨味があるようだった。