31:心が作るもの
夕暮れの帰り道、空は雪乃に背負われて夕焼けの空を見ていた。
子供達はもう帰る時間だと、子供を持つ家族は集まって皆家路を辿っている。広場に残っているのは小さな子のいない家族や、男衆、そして若者達だ。これから酒盛りをしたりするのだという。
明良と結衣と武志が元気よく脇を駆け抜けていったけれど、空はもうすっかりくたびれてぼんやりしていた。今日は朝早かったし、少し驚きすぎて疲れたらしい。
空は温かな雪乃の背でゆらゆらと揺られ、眠そうに目を何度も擦った。そして、ばぁば、と呟いた。
「なぁに、空」
「ねぇばぁば……かみさまって、いるの?」
「いるわよ。空、神様に会った?」
空は弥生に重なったあの女性の姿を思い浮かべた。ふわふわと印象の定まらぬ、けれど美しい人の姿を。しかし良く思い出そうとすればするほどその全体像はぼやけていき、するりと逃げてしまうように感じた。ただ、人では無いと何となく思った事だけが強く心に残っている。
「ううん……わかんない。でも、やよいおねーちゃん、なんかちがうひとだった。そんで、ひかりがぱぁってなって、きらきらしてた」
「あら、見えたの? すごいわねぇ空……あれは見える人と見えない人といるし、見えてもはっきりしない人も多いのよ。やっぱり空は素質があるのかもね」
「なんのそしつ?」
「神様と仲良くする素質よ。あんまり仲良すぎても、弥生ちゃんみたいになるから困るんだけど……」
そう言って雪乃は言葉を濁す。弥生も空を巫女の跡継ぎにくれとか冗談を言っていた。しかし空としてもそれはちょっと嫌だ。あんな風に人前で踊るのも恥ずかしいし、それに精進潔斎したと言っていたのが記憶に残っている。
精進潔斎というのがどんなことをするのか空は漠然としたイメージでしか知らないが、多分三日くらい肉とかの美味しい物が食べられないのだ。それは困る。
弥生にはなりたくないと思うあまり、空の思考が逸れていく。空はふるふると頭を振り、もう一度雪乃に問いかけた。
「あれ、かみさまだったの?」
「そうよ。サノカミ様って言って、この村の田んぼの神様ね。今日のお祭りの最後にああして来て頂いて、豊作にしてもらうのよ」
たんぼのかみさま、と空は繰り返してみる。寝ていると言っていた、龍神様とはまた違うのだろうか。そもそも、神というはどういうものなのだろうと空は不思議に思う。ヤナは己はヤモリの変じたものだと言っていた。けれど田の神にはヤナのような実体は無かったように思えたのだ。
「……かみさまって、なぁに?」
空の投げたその疑問に、雪乃は少し考えてから口を開いた。
「そうねぇ……空は、世界に星が落ちた話はヤナから聞いたのよね?」
「うん。きいた」
「星が振りまいた新しい力……魔素がね、生き物だけじゃなくて生きてないものも変えてしまったって、聞いた?」
「うん」
雪乃はなるべく空にわかりやすいよう言葉を選びながら、この田舎での神というものについてゆっくりと語る。空はそれに真剣に耳を傾けた。
「田舎で生き残った人は皆魔素を吸収し、やがて魔力に変えられるようになったの。そして、その魔力に意志……心を乗せて、魔法を使うようになった……わかるかしら」
「ん、だいじょうぶ」
空は頷く。その動きは雪乃にも伝わり、雪乃も頷いて説明を続けた。
「そしてね、その心はね、皆が信じていたものにも力を与えたの。つまり……田舎の皆がいるって信じていた存在は、星が落ちた後にゆっくりと具現化して、姿を持つようになったんですって」
「んと……みんなが、かみさまはいるっておもってたから、かみさまがいる?」
「そうよ。空は本当に賢い子ねぇ」
「じゃあ、やっぱりかみさまっているんだ……」
「ええ。普段どこにいるのかとか、姿形とか、依り代とか、そういうのはわかる神様とわからない神様といるわね。ああして人が力や気持ちを合わせて呼ぶからその時に姿を得るのか、どこかであの姿で存在しているのか、それはばぁばも知らないわ……わかるのは、私達はみな、心から信じて力を合わせれば色んな事が出来るって事よ」
雪乃は半ば独り言のようにそう語る。
空にはその全てがすぐに理解できたわけでは無いが、最後の言葉は印象深く胸に響いた。
「こころで、いろんなことができる……」
「そう。心で出来るって思えば、何だって出来るの。じぃじが田んぼをひっくり返したようにね」
空は幸生の勇姿を思い出す。とても格好良かったけれど、自分があんな風になれるとはまだ想像もつかなかった、あの姿を。
「ぼくも……できるかなぁ」
「きっと出来るわ。出来ないかもなんて思ったらだめよ。その人によって向き不向きはあるけれど、何でもできるって思ってれば、絶対いつか出来るわ」
空は小さく頷き、負ぶわれたままそっと身をひねって後ろを振り向いた。
大分遠くなった広場は提灯や灯籠に火が灯され、ほのかに明るい。風に乗って太鼓の音や、サーハレ、ヤハレと楽しげに歌う声が微かに届く。あの陽気な歌に、踊りの輪に誘われて、またあの中にサノカミ様が混じっていたりするのだろうか?
人々の心で、願いであの美しい人が形を成し、それが豊穣へと繋がる。それはどこか原始的で、同時にとても美しい世界の在り方のように空には感じられた。空は今そんな美しい、そして少しだけ恐ろしい世界の入り口にいるのだと思った。
「……ままは、できないっておもったのかな」
空がそう呟くと雪乃はしばし言葉を失った。雪乃の脳裏を、大事な一人娘だった紗雪の姿が過る。ある日突然村を出て行くと言い出すまで、そんなにも悩んでいるだなんて雪乃も幸生も思ってもみなかったのだ。とてもとても大切だったのに。
「そうね……そうかもね。あの子が、自分と周りを比べてひどく悲観していた事に、私達は気づけなかった……強くなれないとあんなに嘆いていただなんて」
「まま、つよくなりたかったの? じぃじやばぁばみたいに?」
「多分ね。私もじぃじもずっと、同じ事が出来なくても大丈夫だって言っていたわ。紗雪は紗雪で得意な事があるって。まだ若いんだし、心配しなくても強くなる、例えなれなくても村にいていいんだって繰り返し教えていたけど……もっと、あの子と一緒にいて、出来ることを探してあげるべきだったのかもしれないわ」
空は紗雪の事を思った。いつも空や家族のために一生懸命だった母。笑顔が明るくて、怒るとちょっと怖くて、でもとても優しかった。田舎落ちしたと泣いていた姿は、見たこと無いくらい悲しそうだった。
「まま……ぼく、ままだいすきだよ」
「私もよ。会いたいわね」
「うん、あいたい……ねぇ、ばぁば、ぼくも、だれかじゃなくて、ぼくでいたいなぁ」
「そうよ、空は空のままでいてね。そうして、自分の好きなことを見つけて、きっと出来るって信じてね」
「うん。ぼくね、おいしいものつかまえるひとになる」
「あら、良いわねぇ。そしたらばぁばがうんと美味しく料理してあげるわね」
「うん!」
そう元気に答えながら、けれど空は本当は少し不安だった。
心が、意志が、自分の力を決めるのだとしたら。出来ると信じられなかったらどうなるのかとつい考えてしまう。
(僕の……僕の前世の記憶が、僕を縛ったら、どうしよう)
不安になってはいけないと思うのに、そんな気持ちが胸の奥にわだかまり、心を冷やす。
子供らしく素直に何でも受け入れて信じることの出来ない自分が心の中にいることを、空だけは知っている。
(こんなのいつか忘れたりするんだろうって思ってたのに、まだ忘れてない。僕、この記憶を捨てたい……)
大したことを憶えている訳でもないのに、田舎の驚きに触れる度に空の前世の記憶がざわざわと騒ぐ。それが時々とても邪魔なのだ。
(僕、このまま大きくなるのかな……そうしたら、捨てられないなら……乗り越えるしかない)
その方法はまだわからないけれど、でもここに馴染む為にはきっと必要な事だろうと思う。
もっと丈夫になって、魔法を習ったり体を鍛えたりする時に、出来ないだなんて言って自分を縛りたくない。空はここにいたい。この美しい場所に。
(無理なら田舎落ちすればいいなんて、僕、もう思えないよ……)
空はそう強く思い、雪乃の背にぎゅっとしがみついた。
「空、眠い? もうすぐおうちよ」
優しい祖父母を捨てた母は、一体己の何に絶望したのだろう。
空は、今は遠い母の気持ちが知りたかった。
次の短いので春は終わりです。