2-123:約束の朝
稲刈り勝負の日はあっという間に訪れた。
あの後も米田家は準備に大忙しだった。
紗雪はすぐに隆之に向けて、数日家に帰れないこととその理由を記した手紙を出しにいった。
子供たちの世話を頼んで申し訳ない、もし何かあったら隆之の実家に手を貸してもらってほしいと手紙には書いたのだが、次の日に届いた返事には隆之と子供たちからの応援が記されていた。
『こちらは心配ないから心置きなく頑張って!』という家族からの言葉に背中を押され、紗雪は嬉しそうにしていた。
幸生は村での準備に参加するべく出掛けていき、雪乃とヤナはやる気に満ちた空とフクちゃんテルちゃんを見て、おにぎりの具や作り置きのおかずをせっせと量産していた。
次の日に訪ねて来た猫西に団子の大量注文も済ませた。
紗雪は善三のところで、装備の調整をしてもらい、良夫や泰造、弥生とも打ち合わせをし……そして日は過ぎ、当日の朝を迎えた。
――ふと気がつくと、空はまた池の畔に立っていた。
青空、白い雲、木々や草の緑に茶色、光を弾く池の色。目に入る色は何色かあるけれど、どれも薄ぼんやりとして何だかはっきりしない印象の景色だ。
季節は春先なのだろうか。まだ木々の葉は少なく、草も茶色く枯れたものとその下で芽吹いたものとが徐々に入れ替わろうとしている頃のように見えた。
空が辺りをぐるりと見回すと、少し離れた場所に一人の少女が立っているのが見えた。
少女はぽつんと立ち尽くしたまま、どこか沈んだ顔で池をじっと見つめている。
そして、ふと顔を上げて踵を返し、歩き出す。
空は何となくその後ろ姿を見て、その後を追って足を踏み出した。
(……これは、きっと夢だ)
踏み出した足はふわふわして、地面の感触が薄い。それでいて体は何だか思うように進まず、もったりとした重い空気の中で泳いでいるような気がする。その思い通りにならない夢によくある感覚に焦れながら、空は懸命に少女の後を追った。
少女の後ろ姿は少しずつ遠ざかるが、時折立ち止まってくれるので重い足取りでも何とか追いかけることが出来た。
進むごとに周りの景色が少しずつ歪み、さらにぼやける。そうかと思うとまた不意にはっきりしたりもするのだ。辻を横切り、田や畑を通り過ぎ。
やがて少女は一つの建物の前で足を止めた。空も追いついたところで足を止め、建物を見上げる。
(倉……これ、うちの端にあるのと、そっくり)
それは米田家にある、この間虫干しをした古い倉とよく似た建物だった。少女はそこで足を止めたまましばらく倉を眺めると、不意に振り返った。
え、と空が思う間もなく、彼女と視線が合う。少女は空をじっと見つめて一つ頷くと、右手を挙げて倉を指さした。
『――伝えて』
少女の唇が微かに動き、密やかな声が届く。
何を? と声を出そうと空は口を開いたけれど、夢の中の不自由さか、音は生まれなかった。
聞かなければと思うのに、もう一度口を開こうとした途端、急に全てが薄れ遠ざかっていく。
(あ、覚めちゃう)
空はそれを悟り、倉のことだけを必死で考えた。
すると何故だか、聞けなかった問いの答えがふと湧いてくる。
(ああ……そっか)
そこに何があるのか、誰に伝えるのか。
空はそれをもう知っている気がした。
「――っ、あ」
パチン、とシャボン玉が弾けるように、空はハッと目を覚ました。
パチパチと瞬きをし、見上げているのが二階の部屋の天井である事に意識が向く。すっかり見慣れた幸生たちの寝室ではない。
そうだ、とその理由を思いだし、空は慌てて体を起こして横を向いた。
空のすぐ横では紗雪がスヤスヤと眠っていた。紗雪と一緒に空は二階で寝ていたのだ。
外からは朝の光が差し込み、遠くから鳥の声が聞こえる。下の階からは味噌汁の匂いが微かにした。
今日は勝負の日であるため、雪乃は紗雪や空をゆっくり寝せておくことにしたらしい。
「……まま、まま」
「ん……空……起きたの?」
「うん。まま、ままもおきて。そんで、ぼくといっしょに、くらまできて」
空は夢の残滓に急かされるように、紗雪をゆさゆさと揺り起こす。
「倉……? うん、ちょっと待って……」
紗雪は目を擦りながらゆっくりと身を起こした。あくびを一つしてから窓に視線を向け、もうすっかり朝だということに気がついたようだ。
「今何時……? 寝坊しちゃった?」
「まだだいじょぶ! ね、まま、はやく!」
「……うん、うん? ええと、どこに行くって?」
「ふるいくら! はやくはやく!」
やっと覚醒した紗雪を急かし、空は布団を抜け出して階段へと走る。その様子に、紗雪も起き上がって後を付いてきた。
「あら、二人ともおはよう。もう起きたの? もう少し寝てても良かったのに」
階段を下りて台所を覗くと、雪乃とヤナが朝食と今日の弁当の準備をしているところだった。テーブルの上には大量のおにぎりがずらりと並んでいる。しかしまだまだ作る予定のようだ。
「おはよー! ばぁば、ふるいほうのくらのかぎ、ちょっとかして!」
「え? 古い倉の鍵? そこにあるけど……」
雪乃は困惑しつつ空の問いに答え、裏口の側の壁を指さした。そこに作業小屋や倉の鍵がぶら下がっているのだ。
「おはよう、母さん、ヤナちゃん。何かね、空が倉に行きたいって言うのよ。ちょっと見てくるね」
「そうなのか? 空、倉に何かあるのか?」
「わかんない! でも、ままとくらにいくの!」
空は夢のことを説明する時間も惜しいと、裏口に置いてあった雪乃用のサンダルに足を入れた。
紗雪は倉の鍵を手に取ると、幸生用の大きなサンダルを履いて戸を開ける。空は雪乃のサンダルを引きずるようにして外に出て、歩きづらそうにしながらも真っ直ぐ倉を目指す。
空は蔵の前まで行くと、後ろにいる紗雪の方へ振り向き、倉を指さした。
「まま、あけて!」
「はいはい、ちょっと待ってね」
空に急かされて紗雪は倉の鍵を開け、重い扉をよいしょと開いた。
倉の中は先日虫干しをしたときのままだ。真ん中の床に敷物が敷かれ、その上に古書や桐箱が重ねて置かれている。
「えっとえっと……あ、たぶんこれ!」
空はそこに急いで近づくと積まれた物をキョロキョロと見回し、やがて目当ての物を探し出して手に取った。
「なぁに? 桐箱? 細長いから、掛け軸かしら」
「まま、あけて、ひらいてみて!」
随分と年代物の、色の変わった桐箱を紗雪に渡す。紗雪はそっと紐を解き、中に収められていた古ぼけた掛け軸を丁寧に取り出し敷物の上に広げた。
「これは……何かしら。池の絵?」
広げて現れたのは以前空が見つけた、長い台紙に横に貼られた一枚の絵だ。素人が描いたような、決して上手いとは言えない、池とその周りの景色を描いた墨絵。
その絵を見ながら紗雪は首を傾げた。
「まま、このえ、うらがわに、あおいけってかいてあるんだって。まま、このいけのことしらない?」
空は台紙の端を持って少しだけ裏返して見せた。紗雪はそれを空から受け取り、ぺらりと大きく裏返す。そこに書かれた文字を目にし、紗雪はふと動きを止めた。
「青池……青……これは」
紗雪の目が大きく見開かれ、その文字をじっと映した。文字を見つめ、また紙を返して絵を見つめ――紗雪はそれを数度繰り返して、やがて動きを止めた。
素朴な池の絵と、絵と同じくどこか拙い雰囲気のあるその文字が、紗雪の中に存在しなかったはずの遠い記憶を呼び覚ます。
『――の守……ね、ユキ。お願い……どうか、私の代わりに、この名を預かって――』
どこか遠くから、紗雪に向けた声が聞こえてくる。
『……たしは、もう駄目だから……だから、お願い』
それは、冬の終わりのことだった。
生まれたての神が張った、まだ拙い結界。そこに出来た僅かな綻びをすり抜け村に入ってきたのは、魔を得て狂乱した獣だった。
運悪くその側に居合わせた三人のうち、友である幸と幼い弟を守り、彼女は、弥栄はその鋭い牙で深い怪我を負った。
『……アオギリ様には怪我のことは言わないで。私は、病に倒れて逝ったと伝えて。絶対に生まれ変わって会いに来るから、待っててくれって……』
獣は討たれたけれど、深手を負った弥栄はそのまま寝付いてしまった。怪我から入った悪いものと、冬の寒さが弥栄の回復を妨げ、弱らせていく。
『ヤエ……ヤエ、やだよぅ……いかないで』
日に日に弱る親友を前に、ユキに出来ることは大してなかった。
せめてもと弥栄の看病を必死でしたが、弱っていく体を癒やすことも出来ない。
『お願い……どうかこの名を、ユキだけは憶えていて。真の名は多くの人に知られる訳にはいかないけど、失うわけにもいかない……だから、ユキに預ける』
アオギリ様の存在は生まれたてでまだ安定していない。その真名を知る弥栄がいなくなれば、神としての存在が危うい。
守り神として信じ敬われ、その通り名が定着してアオギリ様の存在が安定するまで、代わりにこの名を預かっていてくれと弥栄は言った。
『そんなので大丈夫なの? そういうの、誰かに聞いたの?』
『ううん。ただ、そういうものだってわかっただけ』
不思議ね、と弥栄は儚く笑う。
『でも……私だって、すぐ死んじゃうかもしれないのに……』
守り神を得ても、弥栄はこうして運悪く怪我を負い死に瀕している。自分だって明日をもしれないと言うと、弥栄は首を横に振った。
『私がきっと、ここを守るよ。アオギリ様と一緒に。それでいつか守りが必要なくなったら、また生まれ変わるから』
そんな実現するのか分からない夢物語のようなことを言い、弥栄は微笑む。
『私、わかったのよ。この世界は、願いが作るんだって……そう変わったんだって。だから私は、この村がここにあり続けることを願う。遠い未来まで続いて、豊かで平和になった村で、アオギリ様やユキとまた会うことを願うの』
だからその時まで、私の代わりにこの名を預かって、どこかに隠しておいて。
そう言って弥栄は小さな声で、大切な宝物を託すように、その名をまた呟いた。
『ヤエ……ヤエ……』
『……またね、ユキ』
ぱた、ぱたぱた、と音がして、紗雪はハッと息を呑んだ。
小さな音は、紗雪の目から零れた雫が次々と敷物に落ちる音だった。
涙は紗雪の胸の深い深い場所から水が湧き上がるようにこみ上げ、止めどなく地に落ちてゆく。
「あ、ああ……ああぁぁあ!」
「まま!?」
紗雪はガクリと膝をつき、身を折るように曲げて寝間着の胸元を強く握って呻いた。
自分の今の人生では味わったことのない悲しみが、悔しさが、怒りが胸を打つ。
友を失った悲しみ、村を襲う理不尽への悔しさ、そして無力な己への怒り。
手負いの獣のように歯を食いしばり、肩で息をして、紗雪はどうにかそれをやり過ごそうと堪えた。
これはもう手の届かない過去で、今ではないのだ。
だから呑まれてはいけない、と本能が教えてくれる。そして心配そうに背に触れる小さな手が、紗雪を今へとゆっくり引き戻してくれた。
それと同時に、紗雪は自分が何故あんなにも強さに固執したのか、初めて理解した。
強くなりたいという願いのその奥底にあったもの。それは弱かった己への怒りと、次こそは決して失わない、守ってみせるという深い悔恨と決意だった。
「まま、だいじょぶ? まま……」
不安そうな声が耳に届き、紗雪は大きく深呼吸をするとゆっくりと身を起こした。溢れていた涙は、いつの間にか止まっている。
「大丈夫……大丈夫よ、空」
頬を拭い、手を伸ばして小さな体を抱きしめる。
温かなぬくもりが伝わり、紗雪の心と体を少しずつ解していく。
「……ありがとう、空」
「まま……」
紗雪はそっと空の体を離すと、床に落ちた掛け軸を拾い上げた。
そして掛け軸の下にある軸棒を手に取り、その端に指を掛ける。ぐっと力を入れるとその端を塞いでいた蓋がポロリと外れた。
紗雪は中空になっている軸棒の中に指を入れ、そこから一枚の細長い紙片を取り出す。
そこに何が書かれているのか、紗雪はもう知っていた。
『青池の――』
そう始まる短い書き付けをしっかりと記憶に焼き付け、紗雪はそれをくしゃりと握りつぶす。
「あっ、まま! それ、いいの?」
せっかく見つけたものを何故、と空が心配そうに問うと、紗雪はうん、と頷いた。
「これは、誰にも見られちゃいけないものだからね……大丈夫、この名は私の中にあるから。だから、ちゃんと返せるわ」
紗雪はそう言って立ち上がり、上を向く。
「もう大丈夫。私は……もう自分の願いを間違えない」
そう呟いて笑う紗雪の顔に、もう苦しさも陰もない。その笑みは今朝の青空のように晴れ晴れとしていた。