2-112:倉の虫干し
弥生が米田家に駆け込んできた、次の日。
村は変わらず穏やかだが、一部が少しだけ忙しくなった。
雪乃はさっそく村のあちこちに出掛けている。村の中でも特に古くからある家を訪ねては、こっそりと事情を話して回っているらしい。
村の人間は皆アオギリ様や弥生の味方なので、特に大きな騒ぎにはなっていない。
ただ事情を把握した各家は、季節が良いからと言い訳して一斉に倉の虫干しを始めたようだ。もちろん米田家でも幸生とヤナが、敷地の端にある古い倉で虫干しをせっせと行っている。
「くしゅん!」
空も微力ながらその手伝いをしては、埃っぽさに負けて定期的にクシャミを繰り返していた。
「うーん……やはりうちにはあまり書物の類いは多くないのだぞ」
「うむ。手習いの見本や日記、農作業の記録がせいぜいだな……」
倉の二階から少しばかり出てきた和綴じの本を広げ、ヤナと幸生はそっと開いては首を捻る。
空もクシャミをしながらも一冊手に取り、そっと開いてみた。
「……」
そしてそのままそっと閉じる。昔の人が書いた崩し字が全く読めなかったのだ。ぐにゃぐにゃと崩され一繋がりになった文字は難解で、それが上手いのか下手なのかも空には判別が付かない。現代語なら前世の知識で読めるのに、と空はちょっと悔しく思う。
「空、そっちは何の本なのだぞ?」
「ぜんぜんわかんない!」
ぷるぷると首を横に振り、空は手にした本をヤナに渡す。ヤナはそれを開いて少し眺め、これも日記かなと呟いた。
「んー……『春遅し、田植えも遅れる見込み。肉の調達を頼まれ、父と奥山へ』か。これだけでは何代目かはわからぬが、日記というよりはちょっとした覚え書きかの」
ヤナはパラパラとそれをめくり、横に避けておいた。
「後でゆっくり確かめるのだぞ。さてさて、これはなかなか骨が折れるの」
「うむ……他の家でもいいから、何か分かると良いのだが」
求めているものはアオギリ様の真名の手がかりだ。神社に関する話や祭りの覚え書きなど、そういう話題を探しながらヤナは古い書物をより分け、分けた物は幸生が下に運んでいく。
空は中身が全く読めないので完全に戦力外だが、字が書かれた物が入っていないかと古い箱を開けたり、出てきたものの埃を払ったりと、せめて出来そうなことを探して手伝いをした。
大きな木箱や長持の蓋を持ち上げることは難しいので、小さめの箱を選んでいくつか開けてみる。
「こっちは……しょっきかな? うーん、もっとほそながいのがいいかも」
試しに開けた箱には、布に包まれた物が入っている。大きさや形からお皿のセットのようだと予測して、空はまた箱を閉じた。
細長い箱には巻物が入っているかも、と空はそういう物を探してみた。巻物といっても大抵は掛け軸かそれに近いもののようだが、それにも一応文字が書かれていることがある。
「けほっ、けほっ!」
他の物の上にあった細長い箱を二本まとめて手に取ると、積もった埃で思わず咳が零れる。それに気付いたヤナが歩いてきて、手にした箱ごと空をヒョイと持ち上げた。
「空、一度下に降りるのだぞ。ここは埃っぽくて体に良くないからの。確かめるのは下でやろう。気になるものがあれば運んでやるのだぞ」
「あ、じゃあこれもってく! そっちのも!」
空は手にしたままの細長い箱を二つと、それを取った場所にまだ残っている同じような箱一つを運んでほしいとお願いした。
「うむ、じゃあ空は幸生が運んでくれ」
ヤナは頷くと空の体を後ろにいた幸生に渡し、空が持っていた箱と置いたままの箱を手に取って階段へと向かった。
倉の階段は細く急なので危ないのだ。幸生は頭をぶつけないように身を縮めながら、空を抱えて慎重に階段を下りた。
「のぼるのはできるけど、おりるのちょっとこわいね……」
「一人で下りてはだめなのだぞ。登るときも念のため、ヤナや幸生と一緒にな」
「うん!」
幸生にしっかりとしがみ付いて運ばれ、空は倉の一階に下ろしてもらう。
一階には食器や道具が色々置いてあったが、今は少し片付けられていた。その片付けた場所に敷物が広げられ、その上に二階から下ろした書物や箱が並んでいる。
「このほそいはこ、あけてみていい?」
「埃を払ってからな」
幸生はそう言うと、空が選んだ箱に積もった埃を手ぬぐいで綺麗にして渡してくれた。空はさっそくその箱を開けてみる。中には予想通り、掛け軸のような物がしまわれていた。
空は辿々しい手つきでそれを箱から取り出し、敷物の端に置いて紐を解き、丁寧に開いてゆく。
「かけじく……しらないおやまがかかれてるね」
最初のものは縦長の掛け軸で、山水画が描かれていた。
「それは多分、大分昔にどこかから貰った物なのだぞ。米田家の人間は大体が強かったから、たまに手を貸してくれと遠方から呼ばれてこういう物を礼に貰ってくることがあったのだ」
「ふぅん」
左下に雅号が書かれ、落款が押されているが何処の誰の作かなどさっぱりわからない。箱書きもあるが同様だ。
次の箱に入っていた掛け軸は美人画で、こちらも特に手がかりになるようなことは書かれていなさそうだった。
掛け軸はやっぱりハズレか、と思いながら空はそれをそっと巻きなおそうとし……上手く行かずに幸生に巻いてもらった。
「これもかけじくぅ……」
最後の一箱も、同じような掛け軸を巻いた物のようだ。これはさきほどの物より随分と古ぼけていた。期待せずに取り出し、そっと転がして開く。しかしなかなか絵が出てこない。
「あれ?」
おかしいな、と思いながらさらに転がすとようやく絵が見えた。どうやら表装は縦長だが、貼られている絵は横長で小さめのものだったようだ。
「これは……いけ?」
現れたのは水辺を描いた風景画だった。
蓮の花が僅かに咲いた小さな池と、それを囲む木々と草。
薄墨の濃淡だけで描かれたもので、絵自体はあまり上手いようには思えない。左下には署名があるが、当然ながら空には読めなかった。
「……?」
「どうした、空」
名のある作家の絵ではなさそうなそれを眺め、首を傾げる空に幸生が声を掛ける。
空はしばらく考え、その掛け軸をそっと持ち上げて幸生に向けた。
「ね、じぃじ。これ、じんじゃのおいけみたいじゃない?」
「神社の池? ふむ……そう言われれば、似てなくもないが」
神社が描かれているわけでもないし、現在の池の風景とは違う部分も多い。しかし空は何となくその絵の景色を、アオギリ様が毎年眠るあの池だと感じた。
「うむ……わからん」
「ちがうかなぁ?」
首を傾げる幸生と一緒に首を傾げながら、空はふと持ち上げた掛け軸の裏に何か文字が書かれていることに気がついた。
「じぃじ、これもって。そんで、ひっくりかえして!」
「む? こうか?」
幸生は空から掛け軸を受け取ると、そっと裏返して置き直す。空は裏側に小さく書かれたうねうねした文字を見つめ、ヤナを呼んだ。
「ヤナちゃん! ね、ここ、これよんで! なんてかいてあるの?」
「うん? どれどれ……んー、青池、かの?」
「あおいけ……これ、アオギリさまのおいけのなまえ?」
空がそう聞くと、ヤナと幸生はお互いに顔を見合わせた。
「アオギリ様の池はそんな名だったか? 龍神池と呼ばれておった気がするが」
「うむ、龍神池だな」
「りゅうじんいけ……じゃあちがうのかぁ」
裏側に書かれていたのはそれだけだ。もう一度掛け軸を表に返して三人で眺めたが、やはり空にはアオギリ様の池が描かれているように見えた。
「署名は……かすれて読みづらいが、幸、かの。それとも『ゆき』か『さち』か。素人っぽい絵だが、この家の者が描いたのかの……そんな者が先祖にいたか?」
「わからん。どこかに家系図もあった気がするが……」
幸生が敷物に置かれた書物を眺め、それから二階の方を見る。
「探して出てくるかわからんのう……やれやれなのだぞ」
結局その日は、それ以上気になるものは特に見つからず、捜し物はまた後日に持ち越しとなったのだった。
――空は、ふと気がつくと青空を眺めていた。
天気が良く、風が爽やかで、柔らかな日差しが心地良い。
『――、――、ねぇ、青池に寄って行かない?』
『いいよー、――も、連れてくればよかったな』
甲高い笑い声がどこか遠くから聞こえてくる。
年若い、少女たちの声だ。
空はぼんやりとそれを耳に留め、声のした方を振り向いた。
少女が二人、草の間に出来た細い道を歩いてくる。彼女たちは歩きながら時折顔を寄せてお喋りをし、何が楽しいのかきゃらきゃらと鈴を転がすような笑い声が上がる。
空はそれを遠くからただ眺めていた。今空がいるのは池の縁だ。少女たちが歩いてくるのとは反対側に岩があり、空はそれに寄り添い立っていた。
よく晴れた青空は池の水面を青く濃く染めている。時折吹く風がその青を揺らし、キラキラと反射した光が少し眩しい。
じっとそこに立っていると、やがて少女たちは池の畔までやって来た。
『良い天気だねぇ』
『ねー』
草むらに腰を下ろし、二人はしばしぼんやりと池を眺めていた。しかしすぐにそれに飽きたのか、きょろきょろと周囲を見回し始めた。
『草相撲しよ!』
『いいよ! 負けないもんね!』
二人は茎が丈夫な草を吟味してむしると、それを絡み合わせて両方に引っ張る。
この村の子供がよくやる、他愛のない遊びだ。
何が楽しいのかはよくわからないが、少女たちは決着が付く度に悲鳴のような声を上げ、笑い、そしてまた遊ぶ。
『私の勝ち!』
『あー、また負けた! ヤエ、強すぎ!』
『さっきはユキが勝ったじゃない!』
『むー、じゃあもう一回!』
聞こえた名に、空はいつの間にかぼんやりと薄れ掛けていた意識を取り戻し、二人に視線を向けた。
二人の少女は遠目で見るとよく似ていた。髪を一つにくくった少女と、下ろしたままの少女。飾り気もなく、空から見ると随分と簡素で古めかしい着物を纏っている。
じっと見ていると、空にはそれが弥生と紗雪に少しだけ似ているように感じられた。年齢は大分違うし遠目でははっきりしないが、二人の持つ雰囲気のようなものが何となく似て見える。
二人は対岸にいる空には気付かず、しばらく遊ぶと飽きたように草を放り出し、そろそろ帰ろうと二人並んで背を向けた。
行ってしまう、と空は思ったが、引き留める為の声も出ず、体も動かない。
楽しげに走って行く二人の背をただ見送り、空は池を見る。
池は今日も何も変わらず、ただ静かに水を湛え、青い空を映し出していた。
「空、空ー、朝だぞ!」
「……んん」
「ホピピホピッ!」
頬をツンツン、と優しくつつかれ、空はもそもそと身じろぎして目を開けた。
見えているのはいつもの寝室の天井だ。
顔を横に傾けると、視界ににゅっと白いものが割り込む。
「フクちゃん……おはよ」
「ホピピッ!」
ふかっとしたものが頬に当たって擽ったい。
空は手を伸ばしてフクちゃんを優しく掴むと、自分の胸の上にひょいと載せた。丸いフクちゃんを両手でもみもみすると、少しずつ意識がはっきりしてくる。
「ホピ?」
いつもより寝起きの悪い空にフクちゃんが不思議そうに首を傾げた。
「ん……なんか、ふしぎなゆめ、みたきがする……」
空はその背を撫でながら、ぼそりと呟いた。
知らない少女たちが遊び、そして去って行くのをただ見ていただけの夢だ。夢の中の空は何故か声も出ず、手も動かせなかった。顔は動かせたけれど、視線も随分低くて何だかおかしな感覚だった。
「あれはなんか……んー……」
夢が見せたものと、残る違和感と。それが示すものを掬い取りたいのに、空が覚醒するごとにさらさらとそれらが逃げて行く。
空はそれを捕まえるためもう一度眠りに入ろうと目を閉じ――
「空ー! ご飯だぞ!」
「ごはん!」
――その単語に負けてカッと覚醒し。
結局、その夢はもう捕まえることは出来なかったのだった。
連続更新は一先ずここまで。
次は20日に更新予定です。