2-111:隠していたもの
空は弥生の顔を見上げた。
今日の弥生は昨日と同じ、ずっと何かを堪えるような、辛いことがあるような顔をしている。空はそっと手を伸ばし、膝の上に置かれた弥生の手に触れた。温度を失ったかのような、冷たい手をしていた。
「やよいちゃんは、ずっとまえはやえさんだったんだよね?」
「うん……多分ね」
「おぼえてること、いっぱいあるの?」
「ううん。あんまりない……薄ぼんやりしてて、わかんないことが多いわ。ただ、アオギリ様と過ごした短い時間を断片的に憶えてる感じ」
その薄ぼんやりした感覚は空もよく知るところだった。空は名前や来歴といった前世の詳細までは憶えていない。
空の場合は、前世の常識だった知識がそれに似たものに触れたときに不意に浮かび上がったり、強い憧れや好き嫌いなどが、ぼんやりとした染みのように心に残っていたりする感じだ。
弥生はそれらを思い出すように、遠い目で呟いた。
「物心が付いた頃から、そういうぼんやりとした昔の記憶はあったのよ。アオギリ様の顔を見ると、やっとまた会えたっていう喜びとか、約束を守れなかったっていう後悔が湧いてきて、小さい頃は気持ちを持て余した時期もあったわ」
「そういうの、やだった?」
その問いに弥生は考える間もなく、はっきりと首を横に振った。
「嫌じゃなかった。嫌だったのは、憶えてるって、私が弥栄だっていつまで経っても自信を持って言えない自分。でもそのぼんやりとした記憶は年を取るごとに少しずつはっきりしていったから、アオギリ様の名前もそのうちきっと思い出すって思ってたの。そうしたらきっと、胸を張って約束を守れるって……」
だがその予想は裏切られてしまった。
弥栄がアオギリ様を神と生した年齢になっても、それを過ぎても、弥生は自分が付けたはずのその名前だけを思い出さなかったという。
「だからずっと探してたの……家に記録がないかとか、どうにか思い出そうとしてみたりとか。でも、どうしても見つからなくて……今更わからないって、言えなくて」
「それがみつからないと、けっこんできないの?」
アオギリ様との会話を思い出しながら聞くと、弥生は一つ頷いた。
「真名が見つからないと無理なの……多分正しく縁が繋がらない。けどこのままでも私とアオギリ様の契約は破綻して、私が死ぬか、アオギリ様が力を失い最悪消える……だから、外の神様がアオギリ様にお見合いをって言うのは、わかるの……すごい嫌だけど」
契約の破綻とお見合いに何の関係があるのか空には分からない。しかしヤナは理解したようで、ため息を一つ吐いて首を横に振った。
「アオギリ様はこの周辺一帯に影響を与える力ある神だからの……それを失わせる訳にはいかぬと他の神々は考えたのだろう。確かに、弥生と同じような巫女の素質や魔力が強い娘なら、アオギリ様に新たな名を与え縁を結び直すことも出来るやもしれぬ。だが名が変わればアオギリ様の在り方自体が変化する可能性がある」
「この村の神で居続けてくださるかどうかも、わからなくなりそうね」
雪乃がそう言うと、弥生はまた頷き、口を開いた。
「アオギリ様もそれは嫌だって。けど私を死なせるのも嫌で……それくらいなら、いっそ今のうちに外から新たな神を呼び込むほうが良いかもしれない、だなんて……」
「そういえば、ここに来てくれる新たな柱を頼んだって、アオギリ様が言っていたわね……あれはそういう話だったのね」
アオギリ様は自分が消えてもこの村が残るよう、外から新しい神を招くこと考えているらしい。どちらにしてもそれなりに大変なことになりそうだと、雪乃もヤナも難しい顔で考え込む。
「それってやよいちゃんが、なにかあたらしいなまえをつけるんじゃ、だめなの?」
「それも考えたけど……正しい名と私はどこかで繋がってるからか、いくら考えても、新しい名前を思いつかないのよ」
「むぅ……むずかしいんだね」
空は不思議に思いつつも、腕に抱えたテルちゃんをふと見下ろした。今からテルちゃんやフクちゃんの名を変えられるだろうか、と考えてみたが、そう言われてみれば簡単ではない気がすると何となく感じた。
人ならざるものと人との間には、思ったより複雑な、色々な法則や制約があるようだ。
「どうしたらいいか悩んだけど、名が失われていることが広まるのも良くない気がして誰にも相談出来なくて……せめて紗雪に相談しようと思ってたら急にいなくなっちゃうし、結局ずるずるこの年まで……」
弥生は消え入るような声でそう呟き、しょんぼりと肩を落とした。空がいつも見ていた、明るく勝ち気そうな姿は見る影もない。
何だか別の人みたいだと空は思ったが、雪乃は優しい表情でそんな弥生の背を優しく撫でた。
「家族には言った方が良かったと思うけど……それにしても弥生ちゃんは相変わらず、紗雪以外に親しくしてる友達がいないのね?」
「うぐっ!」
雪乃は優しい表情でなかなかきついことを言う。
「だって、仕方ないじゃないですか! 皆私のこと何でか遠巻きにするし! それにアオギリ様には知られたくなくて……家族に言ったら伝わりそうだったから」
「それはそうね……紗雪は確かに言わないでしょうけど。そういえば弥生ちゃんも紗雪も、昔から何となく女の子たちと馴染みが悪かったわねぇ」
弥生は昔から同年代の女子の中で何となく浮いていたらしい。紗雪も別の意味で浮いていたようで、だから二人は仲良くなったようだ。
「そうなの? なんでかなぁ」
空が首を傾げると、ヤナと雪乃は顔を見合わせため息を吐いた。
「まぁ、弥生の場合、それは弥生のせいばかりでもないのだぞ。原因の根本はアオギリ様にあるからのう」
「アオギリ様はあの見た目だし、優しいでしょう? だから村の女の子たちの初恋は、大体アオギリ様なのよねぇ」
二人の話によると、アオギリ様は村の女子にとっては初恋キラーだったらしい。少し大きくなればその初恋は実らないと皆悟って諦めるのだが、弥生が生まれたことで話が変わってしまったようだ。
「何せ、生まれた時からアオギリ様に特別扱いされている女の子でしょう? 弥生ちゃんと同年代とか、その前後の女の子たちからはどうしたってやっかみを受けるってもんだわ」
「それは……やよいちゃんのせいじゃないけど、そうなっちゃうね」
女の子たちのそういう気持ちが空に全て分かるわけではないが、他と違うということがもたらす結果はある程度想像出来る。
「うう……理不尽じゃない!?」
「そうね。弥生ちゃんはそう感じちゃうわよねぇ」
「そういう気持ちを抱かず、態度を変えなかったのが紗雪なのだぞ。紗雪はあの頃から、幸生のように強くなることしか頭になかったからの……」
「ままは、ちょっととくしゅなれい、ってやつだったんだね」
初恋とか嫉妬心とかとは無縁で、さっぱりしている紗雪の姿がすぐに想像できて、空は深く納得した。
「紗雪は逆に強くなることばっかり考えていて、しかも能力が幸生さん寄りで物理的なほうに偏っていたから、やっぱりちょっと浮いていたみたいだし……弥生ちゃんが仲良くしてくれてありがたかったわ」
「私は……紗雪といるのが、楽しかっただけだから」
弥生はそう言って首を横に振った。
他の子供と自分の区別もよく付いていないような幼い日々を過ぎ、気がつけば弥生は女の子たちに遠巻きにされていた。変わらなかったのは紗雪だけだ。
紗雪がその性質故に遠巻きにされたときは、弥生が側にいた。
ある程度の年齢を過ぎれば同年代の女の子たちは憧れを卒業し、また親しくなることも増えた。
けれど弥生にとって何のわだかまりもなく友と呼べるのは、昔からずっと紗雪だけだ。
抱えた悩みを打ち明けたいと思ったのも、離れていくことを許せないと思ったのも。
岐路に立っている今、会いたいと本当に願うのも。
「ああ、すっかり話が逸れちゃったわね。そうねぇ……とりあえず、この村で古くから続く家に声を掛けてみようかしら。もしかしたら、昔の記録を残している家があるかもしれないわ。相談相手も最小限にしてこっそりね」
「そうだの。もしかしたらアオギリ様に関する記録があるかもしれん。米田家もそれなりに古いはずだが……倉の奥辺りをヤナも調べてみるのだぞ」
弥生と紗雪の話はひとまず置いて、雪乃とヤナはそう提案して頷き合った。魔砕村には昔から続く家が何軒もある。そういう家なら何か記録が残っているかもしれない。
雪乃はそう決めると、弥生の手を取り、両手で温めるように優しく包んだ。
「弥生ちゃん。あのね、この村の人たちは、皆アオギリ様に感謝しているわ。この村があるのは、アオギリ様のおかげだもの。そして、この村を守る神様方を長い年月祀ってきた龍花家の人たちにも感謝してるの。だから、困ったことがあるならもっと頼っていいのよ。貴女がアオギリ様の側にいたいと望むなら、私たちは出来ることなら何だって手を貸すわ」
「雪乃おばちゃん……」
「弥生ちゃんがアオギリ様の契約者の生まれ変わりだとか、そういうことは関係ないのよ。この村の巫女としてずっと努力して頑張ってきたのは弥生ちゃんだもの。私たちには余所の神様も余所の巫女もいらないの」
「そうだぞ、弥生。我ら人ならざる者たちも、アオギリ様や龍花家の者だから信用して従うのだ。お前はもっと自信を持って良いのだぞ」
酒が好きで口が悪くても、祭神の求婚を理由も言わず断り続けていても、村の者たちは弥生のことを信頼してずっと見守ってきた。多少の小言は言うが、それでも巫女として弥生は信頼されている。
「弥生ちゃんの記憶の手がかりになりそうなことを、私たちも探すから。だから、とりあえずお見合いはきっぱり断ってね。それから、折を見てアオギリ様にも正直に話しなさい」
「うん……そうね、そうしてみる」
「やよいちゃん、ままにも、あいにきてもらう?」
空がそう問うと、弥生は少し迷ったが首を横に振った。
「まだ大丈夫。私、もうちょっと頑張ってみるね」
すっかり落ち着きを取り戻した弥生はそう言ってやっと微笑み、また来ると言って帰って行ったのだった。




