2-105:小さな協力者
「やえさんとは、どうなったの?」
空がそう問うと、アオギリ様はふと黙り込んだ。
その姿に、聞いてはいけないことだったか、と空は焦る。しかしその問いを取り消す前に、アオギリ様はゆっくりと首を横に振った。
「弥栄は……我の嫁になるという約束は、叶わなかった。その年の冬……ようやく村が落ち着いた頃、我は眠りについた。それは抗えぬ、この身が蛇から変じたものであるがゆえの眠りだった。我は村人と共に過ごすうち、いつしかそれを忘れておったのだ」
生き延びるだけで春はゆき過ぎ、村を立て直す為の夏を越え、冬を乗り切るために秋を過ごした。
冬が来たら祝言を挙げようという約束だけを残して、アオギリ様は唐突に眠りについてしまった。
そして春。
再び目が覚めたとき、そこにはもう弥栄はいなかった。
「冬を生き延びた、弥栄の友であった娘が我に教えてくれた。弥栄は冬の間に悪い風邪を引き、呆気なく逝ってしまったのだと。結界は我が寝ていても維持され、村は無事だったというのにな……」
最期までアオギリ様の名を呼び、詫びていたと娘は告げた。
共に生きると約束したのに、貴方を神にしたのは私なのに、と。
「最期に……必ず、必ずまたここに生まれ変わって会いに来るから待っていてくれと、そう言い残して弥栄は逝ってしまったそうだ」
「うぇ……」
あまりに悲しい話に、空は思わず泣きそうになった。しかし話を聞いただけの自分が泣いてはいけないと、ぐっと奥歯に力を入れてどうにかそれを堪える。
けれど何だかとても悲しくて、弥生の姿を思い浮かべ……思い浮かべると、不思議と涙が引っ込んだ。多分、酒を呑んで転がっている姿を思い浮かべたからだろう。
「……おぼんにあえなかったの?」
「その頃はまだ盆に村人が帰ってくることはなかったのだ。あれはもっと村人が増え、村が落ち付いた頃に始まった風習……というか、謎の現象だからな」
(アオギリ様にも謎なのか……)
お盆に死んだご先祖たちが物理的に帰って来るというのは、どうやらアオギリ様にもよくわからない現象らしい。
村人が増え、それぞれ力を付けたからこそ、皆の心から生まれたものなのかもしれない。そんな想像をしながら、空はアオギリ様の顔を見て首を傾げた。
「やえさんは、やよいちゃんなの?」
「うむ……そうだな。それは間違いない。我は弥生が生まれたときに、その魂と確かな繋がりを感じた。それは名を交わし、我を神にした弥栄との間にあったものと同じものだ」
「だから、やよいちゃんがすき?」
その問いにアオギリ様は少し考え、けれど首を横に振った。
「我はな、実は弥栄をそういう意味で好いてはおらんかったのだ。最初はおかしな娘だと思い、そして神使いの荒い娘だと困り、やがてその勢いの良い生き方を眩しいと感じるようになった。多くのものを失っても涙を拭いて立ち上がり、いつしか笑っている強さを……家族や村を真っ直ぐに愛するその心根を、悪くないと思うようになっていたのは確かだ」
けれど、とアオギリ様はどこか遠くを見ながら呟いた。
「共に過ごした時間が短すぎたのだな、きっと。あのまま夫婦になっておれば、我はいずれ弥栄を愛しただろう。だが、それは育つ前に終わった話なのだ。あの頃の我はまだ、人が人を想うような、そんな心を持っていなかった。生まれたての心に、それは育っていなかったのだ」
「じゃあいまは……やよいちゃんは、ちがう?」
「うむ。我は弥生が生まれたときからずっと見てきた。動き出し、歩き出し、言葉を喋り、走って、転んで、泣いて、笑って……弥生には弥栄と違うところが沢山ある。いや、似ているところの方が少ないかもしれぬ。それでいいのだ。我は、弥生が弥生であることを愛しく思うておるのだから」
弥栄と過ごした僅かな時間はもう遠い。
アオギリ様はあれから長い時を守り神として人の間で過ごした。そしてその中で少しずつ色々な心に触れ、その動きを知り、己の中でも育んできた。
やがて生まれた弥生と過ごした時間は、弥栄との時間よりもずっとずっと長い。アオギリ様の心は弥生が育つ度一喜一憂し、共に成長してきた。
その日々の中で生まれた今抱く想いは、確かに弥生だけに向かうものなのだ。
アオギリ様の偽りのない弥生への気持ちを聞き、空は頷き、そしてまた不思議そうに首を傾げた。
「そっか……じゃあ、なんでけっこんしてもらえないんだろう?」
「うぐっ!? また抉るのは止さぬか、空よ……」
「でも、きになるもん。うーん、やっぱり、やよいちゃんにもきいてみないと……」
何事も両方の話を聞かなければ真実は見えてこない。
空は弥生側の話も聞いてみようと心を固め、うん、と頷く。そしてアオギリ様の瞳を、真剣な眼差しで見上げた。
「あんね、アオギリさま。ぼくは、アオギリさまのことすきだよ。じぃじやばぁばも、ヤナちゃんも、ほかのむらのひとも、みーんな、きっとすきだとおもう。そんで、やよいちゃんも、ぜったいすきだとおもう!」
「……そうか。そうなら良いのだがのう」
「きっとそうだよ!」
一生懸命言い募る空が何だか可愛くて、アオギリ様は手を伸ばしてその頭を撫でた。
長い年月の間にアオギリ様は信仰を集め、力を蓄え増やしてきた。村を守るために強くなってきたことをアオギリ様は誇りに思っている。
しかしそれゆえに、今己が一つの岐路に立っているということをアオギリ様はまだ誰にも伝えられずにいた。この神社の神主である辰巳やその妻の澄子には悟られている気がするが、それでもまだ口に出したことはない。
アオギリ様は、目の前の幼子に前世からの宿題があったことを知っている。それをどうやってか乗り越え、己の力に変えて今こうして笑っていることも。
「……弥生は多分、空のように少しばかり何かを憶えておるのだろう。だから嫌なのか、それとも何か他の理由があるのか……我は臆病で、未だに聞けておらんのだよ」
弥生にも自分と同じように前世の記憶があるのかもしれないと聞いた空は目を見開いた。そして少し考え、力強く頷いた。
「そっか……じゃあ、ぼくがかわりにきいてあげるね! ズバッと!」
弥生の性格的に、誤魔化さず切り込んだ方が良さそうだと空は判断してぐっと拳を握る。
アオギリ様はそれに苦笑しながらも、頼むと小さく呟いた。
「空には言うておこうかの……実はな、今の我という存在は、そろそろ限界を迎えようとしているのだ」
「げんかい?」
「うむ。そも、我の存在の根底には、弥栄を嫁にもらう代わりに村の守り神になるという約定があった。しかしそれは果たされぬまま、いつか弥栄が生まれ変わって会いに来るまで待つというものへと変化し……そして、弥生が生まれた。しかし……」
アオギリ様はそこで言いよどんだが、空はその先が予想出来た。
「え……けっこんしてもらえないと、あおぎりさま、どうにかなっちゃうの!?」
「そうなのだよ……まぁそれを、弥生に格別の加護を与えて若さを保つことで時間を延ばし、さらに我が眠る時間を延ばすことでどうにかごまかしておる状態だ。だがそれもそろそろ限界が近い。限界が来れば、我は恐らく神として存在することが適わなくなるだろう」
神として存在できなくなるか、約定を違えたとして弥生が神罰を受けるかのどちらかだろうとアオギリ様は呟いた。
「だが、我は弥生にそれを背負わせたくはない……そうなれば我が消えることになるだろうの」
「たいへんじゃない!?」
「うむ、実は大変なのだよ」
そんな状況だというのに、アオギリ様は困ったように笑うだけだった。アオギリ様はそれでも、愛した相手に意に添わぬことをさせたくないのだろう。
空は遅い梅雨明けを思いだし、納得したように頷く。
「それを回避する手立てもあるにはあるが……それをすれば、我の在り方はまた変わることとなる。その後どうなるかは予測が出来ぬゆえ、出来れば避けたいと思うておる」
「なら、やよいちゃんと、はやくけっこんしないとだね!」
空が迷いなくそう言うと、アオギリ様はふふ、と少し笑った。
「不思議だのう……空が言うなら何とかなりそうな気がしてくるぞ?」
「きっとなんとかなるよ!」
空はこの村が好きだ。空を健やかに育んでくれる、この優しい村が。
だからこの村の守り神がここにいたいと望むなら、それを叶える手伝いをしたい。
その途中に何があるのかはまだ知らないが、きっと何とかなる。
空が力強く頷くと、隣で白妙がニャアと鳴いて同じように頷いた。
「ほら、ねこさんも、きっとだいじょぶだって!」
「ホピピホピッ!」
空が手を伸ばして猫を撫でると、フクちゃんが肩を滑り降りてきて張り合うように囀った。
「はは、フクも手伝ってくれると? これは頼もしいのう」
「うん!」
小さな空やフクちゃんに出来ることなどどう考えても限られているが、空は元気良く頷いた。
むしろこの小ささだからこそ、無邪気を装って切り込めることもあるというものだ。
空は自分の強みを活かす術をしっかり身に付けつつあるのだから。
「いまのうちにしかできないこと、ぼく、しってるからだいじょぶ! まかせて!」
「ようわからぬが、何となく頼もしいのはわかったぞ」
アオギリ様は空と話をして少し元気を取り戻したようで、いつものように朗らかな笑顔を見せた。
空はそれにホッとし、今度は弥生を捕まえて話を聞かなければ、と決意を固めたのだった。