2-104:アオギリ様の昔話
「昔……我が生まれた頃、この辺りは今と比べれば、まだほとんど何もなかった。谷間の土地を切り拓いて作られた痩せた田畑と、村人たちが住む小さな家と……あとは森と深い草むらと。そんなものがあるばかりだった。この池はその昔も変わらずここにあり、そして池の畔には一匹の蛇が棲み着いていた」
アオギリ様はどこか他人ごとのように、そう語り始めた。
「この池の水源は地下深くの水脈から始まり、そのおかげで冬も凍らず、日照りの夏も枯れることがない。川があったため水源として使われることはあまりなかったが、純朴な村人はこの池の変わらぬ様を見て、きっとここには神が住まうに違いないと考えたらしい。水辺に住まうならきっと龍だ、龍神だなどと、いつしか言い伝えるようになった。しかしまぁ、そんなことは蛇には関係のないことだった」
空はその言葉に釣られるように池に視線を向けた。昔の池はどんなだったろうと想像してみたが、今の村と語られる光景は何だか大分かけ離れているようで、あまり上手くいかなかった。
「あるときその蛇は、池の畔で一人の村娘に出会った。年若い娘は日向ぼっこをしていた大きな蛇を見て大きな声を上げて驚き……そのまま蛇をむんずと掴んで池に投げ飛ばした」
「え?」
何か後半でおかしな展開になったぞ、と空は思わず自分の耳を疑った。顔を上げて横を見れば、アオギリ様は昔を懐かしく、愛おしく思うような表情を浮かべている。
「幸い蛇は泳げたので、溺れることはなかった」
(聞き間違いじゃなかったんだ……)
本当に蛇は池に投げ飛ばされたらしい。なかなかアグレッシブな村娘だったようだ。
「その次の日、蛇を投げ飛ばして逃げ帰った村娘が、再び池に来て頭を下げた。『昨日は投げ飛ばしてすみませんでした、父ちゃんに、そんなでかい蛇なんてきっと龍神様か、あるいはその御使いに違いねぇって言われたんです。ちょっとびっくりしてつい投げちゃったけど、どうか祟らないでください』と村娘は言っていた」
「……へびさん、ことばわかったの?」
「いいや。その頃の蛇には、まだ何も分からなかったな。後から思えば、そう言っていたなとわかったというか……まぁその時は、何だか怖いから蛇は姿を隠していたのだよ」
「ええと……げんきなむすめさん、だったんだね」
「うむ」
村娘はその後もよく池の畔を訪れたらしい。
娘はこの池が気に入っているようで日々の仕事の合間に顔を見せ、ときには弟を背に負ぶってきたり、同じ年頃の別の娘を連れてきたりした。
別の娘とは仲の良い友人らしく、二人で池の縁に座って尽きないお喋りを楽しんだり、石を投げて水切りをしたりと、他愛のないことでいつも笑い合っていた。
そして一人で来るときはぽつりぽつりと独り言のように龍神に語りかけ、たまに池に向かって願い事をした。
雨が降りますように、豊作になりますように、雪が少なくなりますように、無事に冬を越せますように。
季節の移ろいに誰もが当たり前に思う他愛のない願い事は、蛇だけが隠れて聞いていた。けれど蛇はただの蛇だったので、その願いを叶える者はいなかった。
「だが、そんな日々がしばらく続いたある年のこと……突然世界は、その在り方をがらりと変えたのだ」
「……ほし?」
空が呟くと、アオギリ様は静かに頷いた。
「最初、蛇には一体何が起きたのかわからなかった。けれどある日を境に、何かが変わったことを確かに理解した。世界の全てが揺れ動き、バラバラに壊れ、また造り直されたかのようだった。そしてその変化は、この土地をも呑み込もうとしていた」
山では、突然意思を持った植物と狂乱した獣との争いが無数に起きた。それは里にいた人間たちにも襲いかかり、あちこちで多くの命が失われた。
だが何の偶然かこの池の周囲にはあまり強いものは現れず、蛇は幸いにも生き延びることが出来た。けれど蛇は力を付けねば己も長く無いことを理解していた。蛇もまた、そういったことを理解出来るようになっていたのだ。
生きる事を望む本能に従い、他を喰らい強くなるしかないと蛇が決め動き出そうとした頃。
あの娘が、随分と久しぶりに池の畔を訪れた。
「娘は、痩せ衰え傷だらけだった。背には同じように痩せた弟を背負って、もうどこにも行く場がないとこの池の畔に座り込み、そして言ったのだ。『神様、龍神様、どうか村を助けてください』と」
村は半壊状態で、僅かに生き残った人間が寄り集まってかろうじて生を繋いでいた。
しかし娘の家族は弟を除いて皆命を落とした。このままでは弟も自分も長くはない。絶望の中、縋るように池まで来た娘は背負った弟をその場に下ろし、池に向かって訴えた。
『龍神様、どうか、弟を……村を助けてください! その代わり……その代わりに私は、龍神様のお嫁に参ります。だから、どうか、どうか……!』
そう言って娘は心から祈り、池に自ら身を投げた。
「いけに……」
空は葉の茂る池を見て、声を詰まらせた。この村の歴史の中で、そんな悲しいことがあったなんて思ってもみなかったのだ。
アオギリ様はそんな空の背を優しく撫で、昔の話だ、と呟いた。
「そのあと、どうなったの?」
「うむ……あれは、不思議な出来事だった。娘が池に飛び込むのを、蛇はただ見ていた。この池には龍神が住むと娘は本当に信じていた。以前出会った大きな蛇はきっとその化身に違いないと。娘が池に飛び込んだ途端、その思いが蛇に絡みつき、その在り方を再び大きく塗り替えたのだ」
いくら年経た蛇といえど、蛇は蛇だ。当然ながら龍になったりはしないはずだった。
けれど娘の思いは、信心は強く、そして娘が必死で命を繋ぐ中で得た魔素は、その願いを叶えた。
蛇は気がつけば池の畔に二本の足で立ち、水面を見下ろしていた。娘が立てた波紋の合間に知らぬ姿がゆらゆらと映る。それが己だと気付かぬまま、見慣れぬ二本の手を無意識に動かし池に向け、波打つ水を掴まえた。
ぐっと持ち上げれば、水の中から娘が上がってきた。手元に引き寄せ、水を吐かせれば娘はどうにか息を吹き返した。
『……龍神、様?』
目を開けた娘にそう問われ、戸惑いながらもそれは頷いた。もう己がただの蛇ではなくなってしまったことに気付いていたから。
池の畔に住む蛇は、娘や村人たちが信じた通り、龍になってしまったのだ。
『……名を』
『あ、私……私は弥栄と申します』
『弥栄……では、我に名を付けよ。我はお前が願ったからここにいる。我はお前の、龍神だ』
弥栄は戸惑い、目の前の男を見た。
水面のように青い着物を纏い、曙光の中を漂う霧を集めて梳いたかのような、長い銀の髪をなびかせる男を。
『青……、ぎりの……』
娘は、心に湧いた言葉を、何かに導かれるように紡いだ。その響きが、言霊が、確かにそれをこの世に、村に繋ぎ止めた。
そうして、この村に一柱の神が生まれたのだ。
「か……かっこいいぃ!」
「かっこ……よかったか?」
空は思わずぎゅっと拳を握り込んでそう叫んだ。しかしアオギリ様はその感想に対して首を捻る。
「えー、だって、アオギリさま、それでりゅうじんさまになったんでしょ!? なんかすごい! ものがたりみたい! ふぁんたじーだよ!」
「ふぁんたじー……よくわからぬが、面白かったならまぁ良かろうな」
空が瞳をキラキラさせてそう主張すると、アオギリ様は照れたような笑みを浮かべた。
「そんでそんで? アオギリさまはアオギリさまになって、どうなったの?」
「どうもこうも……別に大した話ではないぞ。我は弥栄の願い通り、村を守ることとなったというだけだ。危険な植物を焼き払い、襲ってくる獣を狩って……その辺は食料として喜ばれたかの。弥栄はすぐに我に慣れると、遠慮を忘れたかのようにあれこれと願って指示してくる、神使いの荒い女子であった……」
アオギリ様はその後、弥栄に願われるまま忙しく働かされる羽目になったらしい。
とはいえ、その頃村は本当に存亡の危機にあった。
一先ずアオギリ様は残った村人を守りやすいよう近くに集めて住まわせ、村を襲いに来た獣を狩って、それを使って村人たちの食糧事情を改善するところから始めていった。
龍神になったとはいえ、アオギリ様自身も生まれたてのようなものだ。己にどんな能力があるのかもまだあまり分かっていなかった。
アオギリ様は弥栄や村人たちと共に寝起きし、働き、彼らの意見を聞きながら少しでも村を守れるように工夫し、自分の力を把握していった。
村人たちはアオギリ様の異形の姿に最初は戸惑い怯えていたが、共に過ごすうちに慣れ、やがて畏れ敬い信じるようになった。
それはアオギリ様の力を徐々に増し……やがて冬を迎えようとする頃、どうにかアオギリ様は村に広範囲の結界を張れるようになったらしい。この村を自分の縄張りと定め、広く守ることが出来るようになったのだ。
そしてその頃には村人たちも大分強くなった。身体能力が高い者が現れたり、魔法を使える者が現れたりと、魔素が馴染んで変化してきたのだ。
生き延びるため、村を残すため、村人全員が一丸となってそのためにあがき続けた結果が、やっと形になろうとしていた。それぞれの得た力は違ってもそれを合わせれば生きていける、この村には龍神の加護がある、と村人は思うようになっていた。