22:憧れを砕く達人
広場は村中の人が集まっても平気なくらい広い。
空は村の人間が思ったより多い事に少し驚いた。家から外に出たことが数えるほどしかないので、村人どころか近所の人でも知らない人だらけなのだ。こんなに一度に多くの人を見るのは、多分前世ぶりだろう。
背の低い空は普段目にしない沢山の人の波でくらくらしそうだ。思わず雪乃の足にぎゅっと抱きついてしまう。雪乃はそんな空に笑いかけると、優しく抱き上げてくれた。
「人が多いからびっくりした? 四つの集落全部集まったからねぇ」
空は高くなった視界で、広場の中を物珍しく見回した。
集落の人々は何となく東西南北にそれぞれ別れて固まり、ほとんどの人が中心の舞台を見つめている。すると鎮守の森の方から人波が割れ、その向こうから巫女装束の女性が一人歩いてきた。
白衣に緋袴、金糸の刺繍を施した千早を身に纏い、金色の天冠を頭に乗せて右手には神楽鈴を持っている。
如何にも巫女らしいその姿はどこか神々しく、空は初めて生で見た巫女という存在に思わず口をぽかんと開けて見入ってしまった。
村人達が見つめる中、巫女はゆっくりとした足運びで舞台に近づき、そして階段を上った。台に上がった彼女は朱の引かれた切れ長の美しい瞳で、己を見守る村人達をくるりと見回した。そして紅に彩られた形の良い唇が開く。
「あ~あ、朝っぱらから素面でこの人数の前で舞うとか、これなんて罰ゲーム?」
ドッと周囲が湧く。
空はこれ以上開かないくらい目を見開いた。
「弥生ちゃん、昨日は何合飲んだんだ!」
「馬鹿言ってんじゃないわよ、ちゃーんと三日も精進潔斎しましたぁ!」
どこかから飛んだ声に弥生と呼ばれた巫女が威勢良く言い返し、べー、と舌を出す。そこに居るのは美人なのに少々柄の悪そうな普通の女性だ。口を開いた途端さっきの神々しさがどこかに消し飛んでしまった。しかし村の皆は慣れているらしく、誰もが楽しげに笑っている。
「このあと浴びるほど飲んでやるんだから! 覚悟しておきなさいよ!」
びし、と白く細い指がさした広場の端には供物の置かれた台があり、樽や瓶に入れられた酒が山ほど並んでいる。
およそ巫女らしくない彼女の宣言に、村人達はまたドッと笑った。
「さぁ、ちゃっちゃと終わらすわよ。神楽部隊!」
はーい、と声がしてぞろぞろと中学から高校生くらいの子供達が舞台の脇に出てきた。それぞれに手に笛や太鼓、鈴などの楽器を持っている。
子供らが並び終えると、弥生はスタスタと演台の中央に歩み寄り、片膝を立ててしゃがみ込んだ。それと同時に周囲の喧噪も静まり、また視線だけが彼女へと向かう。
静まりかえった空気を大きく吸い、弥生は鈴を持った手をゆっくりと斜め下に伸ばし、しゃん、と一つ鳴らした。そして今度はその手を上に伸ばして、また一つ。
それを合図に太鼓が鳴り響き、細い笛の音がそこに絡む。
白い足袋が一歩踏み出し、細い体がくるりと回る。緩急を付けて鈴の音が響き、神楽が華やかにあとを追う。弥生が動く度、一つに結んだ黒く長い髪が、龍の刺繍が光る千早の袖が、ひらりひらりと同じ動きで舞い踊った。
舞台の上を滑るように足が運ばれ、手は上下左右にゆらりゆらりと複雑に動き、そして時折力強く鈴が振られる。
天冠が春の日を受けてキラキラと煌めき、左手で持った神楽鈴の五色の長い飾り紐が風に遊ぶ。
一心に舞を踊るその姿は、先ほどの宣言などが嘘のように美しく、神々しかった。
「ああやって黙って踊ってれば神々しいわねぇ……」
「何だったっけ? 立てば芍薬、踊れば牡丹? 口を開けばウツボカズラ?」
「千成瓢箪じゃなかった?」
「どっちにしろ中にたっぷりお酒が入りそうねえ」
「弥生ちゃんなら底に穴でも開いてそうだわ」
雪乃と美枝の小声のお喋りを、空は遠い目をしながら聞いていた。聞きたくないのに抱っこされているので耳に入ってしまうのだ。
目は確かに神々しさを感じているのに、耳から入る話がそれを全否定してくる。
(田舎は巫女さんも規格外……僕、覚えた)
やがて一際高く響いた笛の音と大きく打ち鳴らされた太鼓の音を最後に、奉納の舞は終わった。
「空、弥生ちゃんに挨拶しようか」
「おどってたひと?」
「そうよ。まだ会わせてなかったと思って」
舞が終わると弥生はさっさと舞台から下り、神楽を演奏していた子供達も楽器を一度しまうらしくどこかに戻っていってもういない。
雪乃は空を抱いたまま舞台の脇を通って、スタスタと広場の端の供物が並べられた場所へと向かう。
「いたいた、弥生ちゃーん!」
雪乃が呼びかけると、今まさに樽酒のふたを勝手に割ろうとしていた巫女が振り返った。その隙に側で止めていた世話役らしき男がその手から木槌を奪い取った。
「ああっ、私の木槌!」
「まだ駄目だって言ってんだろ! これは優勝者が最初に割るんだ! せめてこっちの瓶にしてくれ! って、このやりとりなんで毎年させるんだ!」
「毎年なんだからそろそろ巫女労い用の樽を最初から用意しておきなさいよ!」
世話役と弥生が言い争っている間に、側に居た男達がこそこそと樽を避難させていく。空はそのコントのような流れを目を丸くして見ていた。酒を寄こせ、こっちにしろ、それじゃ嫌だ、と争いはなかなか終わらない。
「や・よ・い・ちゃん? ちょっと私のお話聞いてくれる?」
にこやかな笑顔のまま、雪乃からひやりと冷気が流れる。
弥生は勝ち取った大吟醸の一升瓶を片手にバッと振り返ると、若干引きつった笑顔で、はい、と小さく答えた。
「紹介するわね、東京から来たうちの孫。空よ。三歳なの」
「そらです、こんにちは!」
抱っこされたまま元気に挨拶すると、弥生はにっこりと笑って空のほっぺたをちょんと突いた。胸にはしっかりと一升瓶を抱えたままだ。
「え〜、紗雪そっくり! かーわいーい! お姉さんは龍花弥生よ、よろしくね空くん! あ、ねぇ、空くんは巫女とか興味なーい?」
「紗雪と同じ年の娘が何言ってるのほほほ」
「いたたたた、いやいやそう言う意味じゃないって! 私だって三歳は対象外ですよ、雪乃さん!」
雪乃に耳をぐいっと引っ張られ、弥生が慌てて弁明する。空はと言えば、弥生が紗雪と同じ年だという事に結構ビックリしていた。弥生はどう見ても二十歳そこそこくらいの女性に見えていたからだ。母である紗雪の方が随分大人びて落ち着いている。
「いくら私の老化が遅くたって、さすがにあと十五年は待てないから!」
結婚や子供の有無でそんなに違うのかと空が不思議に思っていたら、弥生がすぐに答えを教えてくれた。どうやら何か田舎的マジックで若いらしい。
「じゃあもうちょっと言い方って言うものがあるでしょう? 空が変な性癖に目覚めたらどうするのもう」
「えー、年上の綺麗な巫女さんにムラムラするのは男として普通だと思うわ……いた、いたたた! ごめんなさいもう言いません!」
(僕、大きくなっても絶対ムラムラしないと思う……)
口には出さなかったが、弥生の存在は空の中の巫女という対象への憧れを綺麗に打ち砕いてくれた。
「巫女ですよ、巫女候補! ほら、跡継ぎがいないから私がいつまでも出張る羽目になるわけじゃない? 見たとこ空くん、大分魔力多く育ちそうだしどうかなって思って」
弥生は雪乃に問いただされ、さっきの発言の意味をそう弁明した。雪乃はため息を吐いて首を横に振る。
「空は男の子よ。巫女にはなりません」
「えー、大丈夫ですよ! 覡っていう手もあるし。それに都会ではほら、女の子の格好した可愛い男の子とか流行ってるらしいし! あ、ごめんなさい耳引っ張らないで!」
(それこの世界でもあるの? 人の好みとか欲とかそういうのは、世界が変わっても変わらないのかな……)
空は前世含めそういう趣味がなかったので詳しくはわからないが、知識としては少しばかり見聞きしたことがあるようだ。しかし自分がそうなりたいとは思わないので、祖母を見習ってふるふると首を横に振った。
「ぼくね、あんなきれーに、おどれないよ?」
「えっ、綺麗だった? やだー、うれしー! でも踊りなんて何でも良いのよ、要は気合いよ!」
弥生は頬に手を当ててくねくねしたかと思ったら、ガッツリと拳を強く握った。それを見て雪乃は頭痛を堪えるように額に手を当てている。
「本当に、なんで貴女がこの村一の巫女なのか……一人しかいないからねそうね」
「そうですよ、だから空くん下さい~! 私が立派な巫女に育てて見せますから!」
「絶対いやよ」
「ぼくもやー。ばぁばとじぃじといっしょがいいよ? そんで、ばぁばにまほーならうの」
「あああ、可愛い羨ましいぃ、私も早く結婚したい!」
「すれば良いじゃないの。なんで渋ってるの」
「龍じゃなくて人と結婚したいんですー! あーあ、どっかに普通の男落ちてないかなぁ」
「そんなもんそこら辺にいくらでも落ちてるじゃない。貴女の目が曇ってるだけでしょう」
どうやら弥生には何か謎のファンタジー的未婚事情があるらしい事はわかった。空は慎ましく聞かなかったことにして、側を通っていった蝶々を追って目を逸らした。そもそも中身が残念すぎる酒好きの巫女という存在に需要があるのか空は知らないし、特に知りたくもなかった。
「とにかく、夏になったら龍神様のとこにこの子連れて挨拶行くから、よろしくねって言いに来たのに……貴女と話してると脱線するわねぇ、昔から」
「話が弾んでいいじゃないですかー。あ、そうだ。コケモリ様も新しい村の子連れて顔見せに来いって伝言してましたよ。空くんのことなんじゃないですか?」
「あら、もう? 空はまだ体が万全じゃないからもう少し後にしたいんだけど……ちょっとそう伝えておいてちょうだい。早くても夏くらいね」
「はーい、一応伝えておきますけど、なるべく早く行って下さいね。ほっとくと鬼伝してくるから」
ひらひらと高いところを飛んでいる蝶々の羽は綺麗な青だ。この前のミケ石の子かな、そうだったら嬉しいな、と空は思う。