2-64:おじいちゃん登り
「えいっ、あ、とどっ、ふぎゃ!」
勢い良く伸ばした左手が枝に届いた……と思ったのも束の間、掛けた手がつるりと滑って体がガクリと傾く。
「おっと」
落ちそうになった空の体をヤナは軽々と受け止め、それからひょいと持ち上げて木の枝に乗せた。
「あ、ありがと、ヤナちゃん……」
「うむ。まだ空には難しかったかの?」
「そうねぇ、明良や結衣ちゃんは三歳くらいから平気で登ってたからちょうど良いかと思ったんだけど」
「見たところ、空くんはまだ引っ張る力や蹴る力の使い方が上手くないみたいだよぅ」
ウメがそう言って、木の上にいる明良に視線を向けた。
「明良。ちょっと降りてきて、昔よくやってたぶら下がり遊びして見せてよぅ」
「むかし? うめちゃんにぶらさがったりしたやつ? でももうおれ、おっきいし、うめちゃんちっちゃくなったから、どうかなぁ」
明良は首を一つ傾げ、それでもピョンと木から飛び下りてウメの傍まで行き、両手を上げた。
ウメもそれを受けて拳を握り、両の腕を前に出す。その手首に明良がぐっと掴まると、頷いて手を軽く持ち上げた。
「じゃあいくよぅ、ほーら!」
「あはは、ウメちゃん、ちっちゃくなってもちからもちだ!」
十歳ほどの少女の姿になったウメは相応に背も低くなっているが、それでもまだ明良よりは高いので両手を伸ばせば明良の足が浮く。明良は笑いながらその手にぶら下がり、足を伸ばしたり縮めたりして見せた。
「私は小さい明良とよくこうやって遊んでたんだよぅ。ぶら下がるとか、その状態で上手く体を動かすとか、そういうちょっとした体の動きの訓練になるんだよぅ」
「なるほどの。確かに、空はそういう体を使った遊びはあまりしないのだぞ」
ヤナはその遊びを見て、納得したような表情で頷く。空も木の上で、同じように納得して何度も頷いた。
(そもそも僕、公園も行かなかったからジャングルジムとか滑り台とか、そんなこともやったことない!)
小さな子供が成長するにつれ遊びを通して自然に憶え鍛えていく動きや筋力が、どうやら空にはまだ足りていないようだ。
空は未練がましく木を見上げ、そしてしょんぼりとため息を吐いた。
「ぼくがひとりでのぼれるの、さきになりそう……」
「そうだのう……何かもう少し登りやすそうなものや、ぶら下がりやすそうなもので練習した方が良さそうだの。家に帰ったら雪乃たちにも相談して探してみよう」
「うん!」
そんな訳でとりあえず、今日のところは木登りは諦めて、庭で別の遊びをする事になったのだった。
「なるほどね。確かに空は散歩くらいしかしてなかったわね……」
家に帰ってお昼ご飯を食べながら、空とヤナは矢田家での出来事を雪乃たちに話した。
何度か挑戦してみたが、結局今日は自力で木登りが出来なかった、と肩を落とす空の頭を雪乃が優しく撫でる。
「空がぶら下がれるような棒とか、安全に上れる台とか、何か用意した方がいいかしらね?」
「都会の公園には色々な遊具があるらしいぞ。何か近しい物が手に入らぬか、紗雪に聞いて見るのもよいのだぞ」
ヤナの意見に雪乃は、紗雪に手紙を書いてみると頷いた。しかしそこに待ったを掛けた声があった。
「キノボリナラ、テルニマカセルヨ! テルナラキット、チョウドイイキ、オニワニダセルヨ!」
皆の話を黙って聞いていたテルちゃんがすっくと立ち上がり、小さな手で自分の丸い腹をドンと叩いてそう言った。しかしそれを聞いた全員がぷるぷると首を横に振る。
「いや、テルはだめなのだぞ」
「ナンデー!?」
「テルちゃんだと、ぜったいやりすぎるとおもう!」
「ソンナコトナイヨ! テルニマカセレバ、カッテニソラヲハコブキ、ソダテルヨ!」
「空を勝手に運ばないでちょうだいな。それにうちの庭に大きな木を生やされても困っちゃうわ」
「うむ、ダメだ。畑の邪魔になっては困る。空の為の場所を用意するのは吝かでないが、まず準備がいるしな」
「ソンナー!」
皆に一斉にダメだしをされ、テルちゃんが打ちひしがれてゴロゴロと床を転がる。傍にいたフクちゃんがそんなテルちゃんをツンツンとつついてさらに転がした。
「場所を作ってからなら、空用の木が一本くらいあってもいいけれど……空はどう?」
「ぼくねー、きのぼりはアキちゃんちでいっしょにしたいな! ひとりでしてもつまんないもん。あとね、ぼくのためのきなら、なんかおいしいみがなるやつがいい!」
遊びも大事だが、食べ物の方がもっと大事だ。木を植えられる場所をどうせ整えるなら、何か果物のなる木を植えてほしい、と空は思う。
「空は本当にぶれないのだぞ。なら、やはり遊具を用意するのが良いかの」
「……いや」
ヤナがそう言うと、不意に幸生が首を横に振って立ち上がった。
「じぃじ?」
「遊具はいらん」
幸生はそう告げて食卓を離れ、居間の方に空を手招く。空や皆がぞろぞろと付いていくと、幸生は居間の真ん中で足を大きく開いて仁王立ちになり、それから膝をぐっと曲げて体を深く沈ませた。
同時に腕を開いてそれも九十度ほどに曲げて見せた。
「俺が木になればいい。空、登っていいぞ」
「き……じぃじが、き。え、のぼっていいの!?」
「ああ。登りづらかったら調整してやるから、やってみろ」
膝と腕を大きく開き、九十度ほどに曲げた幸生は確かに木に見えなくもない。
空が目を輝かせて近づくと幸生が片方の腕をぐっと下げてくれた。空は大喜びで、その腕に両手でしっかりしがみ付く。
「ぶら下がって、膝に足をかけてみろ」
「うん!」
幸生が少し腕を持ち上げると、空の足が浮く。空はその浮いた足を幸生の膝に掛け、両手に力を込めて体を引き上げた。
「上手いぞ。そのまま、登ってこい」
「んしょ……じぃじ、おもくない?」
「米俵の四分の一くらいだな。空があと十人いても軽い」
幸生はそう言って微かに口の端を上げた。空は自分が登ってもびくともしない大木に嬉しくなる。
膝に載せた足を腿の方に進め、腕を伝って肩を目指す。肩まで行ったら、よいしょと勢いを付けて体を持ち上げ、その首元にしがみ付いた。
「もっと上に行けるぞ、頑張れ。背中や腹を蹴っても痛くないから気にするな」
「うん! んしょっ!」
幸生に励まされさらに上を目指して、空は一生懸命自分の体を持ち上げた。
そしてついに、幸生の肩に登り切り、自分で肩車をすることができた。
「のぼれた! じぃじ、のぼれたよ!」
「うむ。なかなかやるな、空」
幸生は空を褒め、体を起こしてその場でぐるりと回ってみせる。空はそんな幸生にしがみ付いて、ぐるぐる回る視界にキャッキャと喜んだ。
「なるほどの。空には遊具や木登りより、まずこちらの方が良さそうだの」
「ええ。幸生さんも嬉しそうだし、良かったわ」
「ホピホピッ!」
フクちゃんが同意するかのように一声囀り、パタパタと飛び立って幸生の頭に上手に着地する。実はフクちゃんも見晴らしの良い幸生の頭の上が結構気に入っているのだ。
「これから、暇があったら俺が付き合ってやる。高さを変えれば難しさも変わるし、飽きないだろう」
「ありがとうじぃじ! ぼく、じぃじのぼりがんばる!」
どんな木よりもジャングルジムよりも、優しくて頼もしくて楽しい。そんな大きな木にしがみつき、空は満面の笑みを浮かべた。
雪乃たち家族もそれを見て同じように笑う。
「モー! テルダッテ、イイカンジノキ、ツクレルノニ!」
若干一名(?)だけが、ちょっぴり不満そうにピコピコ揺れていたのだった。