2-22:零れた思い
紗雪の足は速かった。
あっという間に神社が遠のき、景色がどんどん流れて行く。空は紗雪の背にしっかりしがみ付いて、東地区の家々がどんどん近くなってくるのを驚きと共に眺めた。走っていてもそれほど揺れないので、そんな余裕があるところもすごい。大した時間もかからず東地区に入ると、家までもすぐだった。
「ただいま!」
紗雪は勢い良く玄関を開け、そのまま居間に走り込む。居間には心配そうな顔の樹と小雪、幸生がいて、廊下の方から、こっちだぞというヤナの声が聞こえた。
「こっちだ、紗雪。雪乃たちの寝室に寝かせておるのだぞ」
「ありがとう、陸の具合は?」
空を背負ったまま紗雪は奥の寝室に走る。寝室に入ると空がいつも寝ている布団が敷かれていて、そこに顔色の悪い陸が寝かされていた。部屋にはヤナの他に雪乃と隆之もいて、心配そうに陸の顔を見ていた。
「りく!」
「おかえりなさい。腹痛と熱があるみたい。どうもね、空のために避けておいたおやつをこっそり食べたらしいの」
「空の……じゃあ、魔素中毒?」
紗雪の言葉に雪乃は頷き、苦しそうな陸のお腹に手を当てた。
「すぐに体内の魔素を少し抜いたから、症状は重くないわ。でもしばらくは具合が悪いかもしれないわね」
紗雪は陸の傍に座り込み、空をそっと背中から下ろす。空は陸の枕元で、布団から出た手をきゅっと握った。
「りく……おなかいたいの?」
陸は苦しそうにうんうんと唸りながら、何故か首を横に振った。
「……へいき、いたくない、もん」
陸はそう言ってごろりと体の向きを変え、空から顔を隠すように布団に潜ってしまった。
空は心配そうに陸を見ていたが、出来る事があるわけではない。
「空、おいで。空はあっちでおやつにするのだぞ」
「うん……」
空はヤナに手を引かれ、後ろ髪を引かれる思いで寝室を後にした。
台所には空の分のおやつが置いてあった。今日は串に刺したみたらし団子だ。
椅子に座って何本も皿に盛られたそれを見ると、一本だけ、三個刺してあるはずのお団子が一個だけになっている串があるのを見つけた。
「これ……りくがたべちゃったの?」
「うむ。子供たちにはちゃんとそれぞれおやつを出したのだが……ヤナたちがその片付けをしていて目を離した隙に、空の分をこっそり食べてしまったらしいのだぞ」
「まそちゅうどくって、どんなの? くるしいの?」
魔素が足りないというのなら空はよく知っているが、魔素が多すぎるというのは全く知らない症状だ。ヤナは空の為にお茶を用意しながら、個人差はあるが、と前置きして教えてくれた。
「体には魔素を溜める器があるのだが……そこに入る量というのも大体決まっているのだぞ。魔素中毒というのは、その器に入る以上の魔素を取り込んでしまったということなのだ」
「それで、おなかいたくなっちゃう?」
「そうだな。過剰な魔素を排出しようと体が反応して、腹が痛くなったり、下したり、吐いたりすることもある。取り込んでしまった分は器への負担を減らすためか、体が勝手に魔力に変えるから、それが熱が出る原因になるらしい」
今の陸はその状態なのだ。もう少し大きかったら自分で魔法を使って余剰分を放出したりも出来るのだが、今の陸にはまだ難しかった。クマちゃんファイターのような魔力を込める玩具も、まだ陸は上手に動かす事が出来ていないのだ。
「この魔砕村は都会よりも遙かに魔素が多いのだぞ。それこそここの空気を吸うだけで、陸の器にはかなりの魔素が溜まっていたはずなのだ。そこに空の食べ物を食べてしまったから、器から溢れたのだろうな」
「そうなんだ……」
「時々こっちから送っていた野菜や果物も、送る前に雪乃が魔素を調整しておったのだぞ。こちらの魔素は穢れがなく綺麗だが、それでも多すぎれば体に良くないのだ」
毎回食事をきちんと取り分け、ヤナが魔素を抜いていたのは意味のある大事な事だった。それを見ていたのにどうして陸は空のおやつを食べたのだろう。串に一つだけ残った団子を囓りながら、空は不思議に思った。
「雪乃が余分な魔素を抜いたから腹を下すのは止まったようなのだが、魔力になってしまった分は外からは上手く抜けぬのだ。それが落ち着くまで熱が出るだろうな」
「りく……だいじょぶかなぁ」
「そう心配しなくて良いのだぞ。熱が上がりすぎないよう、雪乃がちゃんと見ているからの」
ヤナの言葉に頷いたものの、空は心配そうに肩を落としながらもそもそとみたらし団子を食べた。
空にとっては美味しい食べ物が、陸にとってはそうでないということが何だか少し悲しかった。
その日、夕飯の席に陸は並ばなかった。
夕飯は食べず、紗雪と雪乃が交代で様子を見ているがまだ熱があるらしい。
そのまま寝る時間になったが、結局陸はその晩雪乃に付き添われて下の部屋で眠る事になった。
一人減っただけなのに、空は広くなった布団を何となく寂しく感じながら紗雪に寄り添って眠りについた。
次の日も、陸はまだ布団から出られなかった。
熱は少し下がったのだが、まだ平熱よりは少し高い。大事をとってもう一日寝ていてね、と雪乃に言われ、陸は残念そうに頷いた。
残念なのは空も一緒だ。陸と遊べる日が一日減ってしまった。
空は朝食が終わると陸の様子を見に、そっと寝室へと向かった。
「……りく?」
「あ、そら!」
そっと障子を開けて覗き込むと、陸は雪乃に水をもらって飲んでいたところだった。空の顔を見て目を輝かせる。
思ったより元気そうなその姿に空は安堵し、部屋に入って陸のそばに腰を下ろした。フクちゃんも一緒に付いてきて、陸の布団の上をぽすぽす歩いて行く。陸は嬉しそうにその小さな体を捕まえ、空がよくそうしているようにもみもみと優しく揉んだ。
「空、ちょっと食器を片付けてくるから、ここにいてくれる?」
「うん」
陸が食べた朝食を片付けてくる、と雪乃は部屋を出て行った。
「ねぇりく、もうおなかいたくない?」
「うん! へいき!」
陸は元気にそう答えたが、熱のせいかその頬は少しばかり赤い。手を伸ばして陸の額に触れると、やはりまだ少し熱い気がした。
「……ね、りく。なんでぼくのおやつ、たべちゃったの?」
空がそう聞くと陸は途端に表情を曇らせて黙り込んだ。
「ぼくのは、りくにはたべられないって、ヤナちゃんもばぁばもいってたでしょ。だめなんだよ」
「……だって、たべたかったんだもん」
陸は頬を膨らませて小さな声でそう答えた。
「たべたくても、おなかこわしたらだめだよ。ねつもでて……」
熱が出た時の辛さを空はよく知っている。そんな空に対して陸は保育園に行っていてもあまり風邪も引かないような健康な子供だった。
「りくがねつだしたら、そとであそべないし。ぼく、かなしいよ」
空の言葉を聞きながら、陸はギュッと唇を引き結んで俯いた。
手の中のフクちゃんを握ってしまいそうで、そっと手を開く。フクちゃんは戸惑ったように陸の膝の上をうろつき、ホピピ、と鳴きながら心配そうに二人を見上げた。
「もうたべちゃだめだよ。ぼくの……」
「……んで」
「え?」
「なんでだめなの!? ぼくだって、そらとおんなじのたべたいよ!」
陸は突然大きな声でそう叫んだ。
「えっ、でも、だから」
「ぼくとそら、おんなじだもん! ぼくだってたべれる! ぼくだって、ここにいられる!」
「りく……」
「ぼくだっておなじのたべて、つよくなって! そんで、そんで、そらといっしょに、ほいくえんだってがっこうだって、いっしょ、に……」
不意に陸の目からぼろりと涙が零れた。
まだ上手く言葉に出来ない沢山の思いが溢れたように、陸の目から次々と大粒の涙が零れる。
陸はそれをぐいぐいと乱暴にパジャマの袖で拭うと、ガバッと布団を持ち上げてその中にすっぽりと身を隠した。
「あっちいって!」
「りく……りく」
「あっちいってってば!」
陸はギュッと布団を押さえて丸くなり、空を拒否して丸まった。
空はしばらく戸惑ったようにそれを見ていたが、ぽんぽんとその背を叩くとフクちゃんを拾い上げて立ち上がった。
「……またあとでくるね」
そう言って部屋を出る背に声は掛からず、布団の中からは押し殺したような泣き声が微かに漏れ聞こえていた。