2-19:ママのお出かけ
「あ、今日はママ、ちょっとそこまでお出かけしてくるわね」
次の日の朝。
朝食の席で、ジャージの上下に身を包んだ紗雪が唐突にそんな事を言いだした。
「え、ママだけ?」
「えー、小雪も行きたい!」
「どこいくの?」
樹たちが口々にそう尋ねると、紗雪は家の裏の方角を指で示した。
「あっちの方のお山にね、ちょっと蛙を狩りに行ってこようと思って」
「カエル!? やだ、やっぱり行かない!」
小雪は蛙も好きではないらしい。しかし蛙という言葉を聞いて、空は抱えていた丼から顔を上げて首を傾げた。昨日そんな事を雪乃が話していたのを思い出したのだ。
「かえる、よしおおにいちゃんにたのまないの?」
空がそう聞くと雪乃が頷く。
「紗雪がね、久しぶりに自分が狩りに行きたいって言うのよ。山に行くのは久しぶりだろうからちょっと心配だけど……」
「昨日の和おじさんたちの手合わせ見てたら、私ってすごく鈍ってるんじゃないかって心配になっちゃったの。だからちょっと確かめて来たくって。ルミちゃんの山なら昔良く行ったし、大丈夫だと思うの。可愛い色の蛙探してくるからね!」
「ルミちゃん……」
空はルミちゃんのことを思い出して雪乃の顔を見上げた。雪乃は何も言わず、にこりと笑うだけだ。
(孫の雨合羽の前には、ルミちゃんからの念押しも無力なんだな、きっと)
紗雪を山に近寄らせないでくれ、というルミちゃんの言葉はそっと聞かなかった事にされたらしい。
「ついでにあやつも狩ってくれば良いのだぞ」
「ルミちゃん? でも一応、ルミちゃんは狩らないって約束だし……それにルミちゃんの皮はちょっと色が濃すぎるかな。子供たちの分だしね」
今日のルミちゃんはその体色によって難を逃れる事が出来たようだ。
「だから皆は、パパとお留守番しててね」
「はーい」
子供たちが口々に返事をしたところで、幸生が不意に立ち上がった。
幸生は廊下に行ってしばらくするとまた戻ってきて、物入れから持ってきたらしき物を紗雪に差しだした。
「紗雪、これを」
「草鞋……私の?」
「ああ。善三が、お前が山に行きたいと言ったら渡してやれと。村で過ごすならお前には必要無いが、もしいるようならと用意してくれた」
「わぁ……嬉しい、後でお礼を言わなくちゃ!」
紗雪は本当に嬉しそうに草鞋を受け取り、それから懐かしむようにじっと見つめた。
「昔も、こうやって父さんが草鞋をくれたわね。足が大きくなる度に、善三さんに頼んでくれて」
「ああ……もう大きさは、変わらんな」
「ふふ、そうね」
もう紗雪の背丈が伸びて服や靴の大きさが変わることはない。都会暮らしで鈍っているとはいっても紗雪はやはり強く、本当はこの草鞋も必要ないものかもしれない。
それでも、幸生たちにとっても、善三にとっても、やはり紗雪は可愛い子供のままなのだ。
草鞋を持って嬉しそうに笑う紗雪もまた、母ではなくどこか子供のような顔をしていた。
「じゃあ行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「ルミを狩ってきても良いのだぞ!」
「行ってらっしゃい」
「ママ、おみやげね!」
「はーい」
皆に見送られ、紗雪は手を振って門を出て、裏山の方に歩いて行った。
背には雪乃から借りた魔法鞄を背負い、ちょっとそこまでハイキングにでも行くかのような軽装だ。
そしてその姿が見えなくなってから、今度は幸生が家からのそりと姿を表した。
「行ってくる」
「はいはい、行ってらっしゃい」
雪乃はくすりと笑って手を振って見送る。幸生は門を出て紗雪と同じ方に歩いて行き、やがて山の方に姿を消した。
「じぃじ、どこいったの?」
「紗雪について行ったのよ。心配なんでしょうね」
雪乃は何でもないことのようにそう言ってくすくすと笑う。
「昔もね、紗雪がルミちゃんを追いかけ回すのを、本当はずっと遠くから見てたのよ。紗雪は結構大雑把だから、そういうのになかなか気付かないのよね」
「幸生はあの図体で気配を殺すのも上手いからの。土魔法が得意だからか、山ではそこら辺の岩や木に簡単に自分の気配を溶け込ませて、本当に自然に隠れるのだぞ」
「地面に穴を掘って隠れるのも得意だしね」
そう言われて思い返せば、稲刈りの時も幸生は一瞬で地面に穴を掘って攻撃を避けていた。脳筋と見せかけて、得意な属性に対しては意外と細かい技も使えるのが、幸生の強みであるらしい。
「じぃじ、すごぉい」
(その技術……いつか僕も憶えたいなぁ)
聞いたら教えてくれるだろうか、と空は考えながら家に戻る。
家の中では先に戻った樹たちがクマちゃんファイターで遊ぼうと準備を始めていた。誘われてヤナもそれを見に行く。遊戯盤に魔力を通してクマを操るというこの格闘ゲームのような玩具は、杉山家の子供たちにも大人気だ。
「そういえばね、昨日じぃじが善三さんに、子供たちのお土産に持たせたいからってあれを注文してたのよ」
「……ぜんぞーさん、おしごとだいじょぶかなぁ」
「そうねぇ……近いうちに、何かお礼を用意しておくわ」
善三は相変わらず幸生にわがままを言われてこき使われているようだ。
空は善三の家の方になむなむと心の中で手を合わせ、暖かな囲炉裏の傍にぺたりと座り込んだ。
途端に、フクちゃんがフードから飛び出し空の膝に乗る。
空はフクちゃんをもきゅもきゅと揉みながら、傍に座った雪乃の顔を見上げた。
「ねぇ、ばぁば」
「なぁに?」
「ままってさ、なんでむらをでたのかなぁ。おやまにいくっていうくらい、ここにいても、ぜんぜんへいきそうなのに」
「……本当にねぇ。一体何でなのかしら。未だに、私たちにもあの時村を出るって決めた理由を教えてくれないのよ」
「そうなんだ……」
子供たちが寝た後や遊んでいる間に、ぽつりぽつりと雪乃は紗雪と色々な話をした。けれどその大半は子供たちのことで、紗雪自身のことは本人の口からなかなか出てこなかった。
聞いた方が良いのか、聞かないでおくべきなのか、雪乃自身もまだ決めかねている。
今の紗雪の笑顔は明るく、空が心配だということ以外に陰は見えない。都会で働き、恋をして結婚し子供を育てる中で、紗雪もきっと変わったのだろう。そう思うと尚更、過去を掘り起こすことに躊躇いがあった。
「……やよいちゃんにも、あいにいかないのかなぁ」
「そうね。それは後で聞いておかないとね……」
それは大事な事だ、と雪乃も頷く。それから雪乃はふと思いつき、囲炉裏の傍で子供たちの様子を見ている隆之の方を振り向いた。
「そういえば、隆之さんは紗雪に何か聞いてない? 田舎を出た理由について」
「え? あ、ええと……」
急に話を振られた隆之はしばらく記憶を探る。紗雪は隆之にも、あまり具体的な理由を話さなかったのだ。しかし全くというわけではなかった。
「そうですね……一度だけ、紗雪が危険地帯の出身だって聞いたときに、なんで出てきたのかって聞いた事があります」
「何か理由は言ってた?」
「その……確か、失恋したから、と」
「ええ?」
「し……しつれん!?」