2-10:田亀家の生き物たち
初めての保育所を体験した日から二日後。
空はゴロを始めとした犬たちが山に帰る前に会いたいと、田亀家を訪ねた。
田亀家は南地区の山裾にあり、勇馬の家と近い場所にあった。
村を囲む南側の山には山裾がなだらかな場所があり、木々を切って放牧地のようにしている場所があるのだ。
空は雪乃に連れられて田亀家を訪ね、その広い敷地と立ち並ぶ大きな建物に目を見開いた。
「ここが田亀さんちよ。こんにちはー」
雪乃は空と手をつないだまま入り口の門を潜り、母屋には向かわず家の横の方に向かって大きな声で呼びかけた。
「はいよー」
すると母屋の横にある小屋から声がして、田亀が顔を覗かせた。いつもと同じ、作業用のジャンパーに作業帽という格好だ。
「ああ、米田さん。いらっしゃい!」
「こんにちは田亀さん。お言葉に甘えて犬たちに会いにお邪魔したわ」
「お、じゃあちょうど良かったよ。犬たちはさっき帰ってきたところだから、今一休みしてるはずだ」
田亀はそう言って二人を敷地の奥にある大きな建物に誘った。
平屋のその建物は、勇馬の家で見た鶏小屋とよく似た作りで、動物たちが過ごす場所であるらしい。
近づくとワンワンキャンキャンと犬たちの元気な声が聞こえてきた。
「いぬさん、いるね!」
声を聞いただけで嬉しくなったのか、空の足取りが少し速くなる。
獣舎の入り口は開けっぱなしで、田亀はそこにスタスタと入っていく。空と雪乃もその後を追って広い入り口を潜った。
「うわぁ……」
空は窓からの薄明かりが照らす獣舎の中を見て思わず声を上げた。
何となく、前世のテレビで見た馬小屋のような場所を想像していたのだが、それとはまた違った空間だった。
馬房のようにきちんと同じサイズに区切られた場所があるわけではなく、広さがまちまちな仕切りが通路の両脇に大雑把に配置されている様な作りだ。
通路は広く、天井も高い。真っ正面の一番奥には、小山のようなシルエットのキヨがドンと座っていた。
「空くんは、ゴロと良く話してたっけ? おーい、ゴロ!」
田亀が奥に声を掛けると、中程の仕切りの中から柴犬がぴょんと飛び出す。
ゴロは田亀に連れられた空を見つけてワン、と一声吠えて駆けてきた。
「空だ! 空、久しぶりだなー!」
「ゴロだ! ひさしぶり!」
空が大喜びで駆け寄ると、ゴロの後を追って他の犬たちもぞろぞろと出てくる。
犬たちは尻尾を振って空たちの周りをぐるぐると駆け回った。
「子供だ!」
「空だよ、空!」
「散歩か?」
「遊ぼうぜ!」
喋ることが出来る犬たちが口々にお喋りし、まだ喋れない若い犬たちはキュンキュンと可愛い声で何か言っている。
空は沢山の犬に囲まれ、大喜びでその背や顔を撫でさせてもらった。
「空、今日はどうしたんだー?」
「あんね、みんながそろそろやまにかえっちゃうってきいて、そのまえにあいにきたんだよ!」
そう言うとゴロはきゅっと口角を上げ、笑顔のような表情を作った。
「そっかー、ありがとな! 確かにもう春だしなー!」
「いつかえるの?」
空が聞くと犬たちはお互いの顔を見合わせて首を捻る。
「わかんないな! いつだっけ?」
「長なら知ってる?」
「親分は寝てるぞ-」
犬たちが首を傾げていると、田亀がそれを見て面白そうに笑い声を上げた。
「動物には暦なんて関係ないからなぁ。毎年、冬の終わりはこうしてごろごろしているんだ。そして帰る時が来たらふっと立ち上がって、皆してぞろぞろ出立するのさ」
「そうなの? じゃあきまってないの?」
「風が吹くんだ。俺たちに帰っておいでって呼びかける風が、ある日不意に吹くのさ」
奥からそう言って声が掛かり、空はそちらに顔を向けた。するとそこには一際大きく立派な白い犬が立っていた。
「あ、親分」
「お頭!」
親分とかお頭と呼ばれた犬は、空が想像するところの狼の様な立派な姿をしていた。毛足の長い白い毛並みは美しく、洋犬のように鼻の長い精悍な顔立ちをしている。足も長く逞しく、体高だけでも田亀の腰よりずっと高い。空など襲われたらひとたまりも無いような大きさだ。
しかしその姿はどこか神々しく、不思議と恐怖を感じさせなかった。
「おやぶんさん?」
空がそう言うと親分はわふっと口から息を漏らした。どうやら笑ったらしい。
「んな呼び方はよしとくれよ。俺はハチってんだ」
「ハチ……」
「こいつらは長だの親分だのお頭だの、気分で好きに呼びやがるがな」
思わず公と付けたくなったが、それはどうにか堪えてその名を呼ぶ。
田亀がハチの頭を撫でると、ハチはふふんと嬉しそうに鼻を鳴らしてその手に頭をすり寄せた。
「たがめさんと、けーやくしてるの?」
「いや、俺とはしてないんだ。ハチは俺のご先祖と契約していて、力を付けて長生きして犬神にまで昇格した犬なのさ」
「おう。そのよしみで、今でも冬はここに厄介になってるのさ。寅治も良い魔獣使いだが、俺の主人はアイツだけだからな」
「いぬがみ……」
寅治というのは田亀の名前らしい。田亀はそれで納得しているようで、気にせずハチの頭を撫でている。契約していなくても仲が良さそうだと、空はその姿を見て感じた。
すると空のフードの中からホピピ、と小さな声が聞こえ、フクちゃんがスタッと出てきて空の肩に乗った。フクちゃんは犬たちの姿にライバル心を抱いているらしい。
ふわりと羽を膨らませて自己主張するフクちゃんの姿を目に留め、珍しいなとハチが呟いた。
「小さいが守りが付いてるのか。綺麗な、良い姿だな」
「ホピッ!? ピルルルルル!」
褒められたのが嬉しかったのか、フクちゃんが機嫌の良さそうな声を上げる。
田亀もハチもその姿を見てくすりと笑った。
「ぼくのしゅごちょーの、フクちゃんだよ!」
空がフクちゃんを手に移してそう紹介すると、ハチが鼻先を近づけてフン、と匂いを嗅いだ。
「精霊の匂いがするな。元は身化石か」
「わかるの?」
「そりゃあな。相手が何から成ったものかを知っておくのは、山では大事な事だ。由来が違えばその命の在り方も生き方も……色々違うからな」
狩り方も違うのだ、とはハチは言わなかったが、雪乃も田亀もそれに気付いて黙って聞いていた。
空は手に載っているフクちゃんに顔を近づけ、スン、と匂いを嗅いでみる。
けれどわずかに穀物のような匂いがするだけで、精霊の匂いというのはよくわからなかった。
「におい、わかんない……ふしぎ。むらのひとってみんな、みただけでフクちゃんのことも、ぼくのことも、わかっちゃうみたい。ぼく、なんにもわかんないよ」
空がそう言うと、ハチは器用に口角をギュッと上げて、はっきりとした笑みを作った。
「まだ小さいんだ、そんなもんさ。わかってないって事がわかってるなら上等だ」
「そんなもんなの?」
「ああ。そんなもんだと思ってゆっくり育ちな。その鳥みたいに、お前の傍にいるものを大事にするといい」
「フクちゃんは空から離れてどこかに帰る事も無いしね」
「うん……ぼく、フクちゃんもテルちゃんも、だいじだよ」
空はそう言って頷いてフクちゃんを肩の上に戻し、テルちゃんが眠る首に提げたお守り袋にそっと手を当てた。
「ハチたちは元は普通に犬だから、確かにその子とは大分違うなぁ。皆、犬としての本能に従い、群れを作って生きている。旅立ちの日取りもその本能が決めるんだよ」
田亀はハチを撫でながら、空がさっき抱いた疑問に答えてくれた。
この村の大人たちは、子供が理解しているかどうかは気にせず色々なことをきちんと説明してくれる。
解っても解らなくても誤魔化したりはせず教えてくれる事を、空は有り難く思いながら頷いた。
「いつかって、まだわからないの?」
「わからねぇなぁ。何か呼ばれた気がするっていう日がその日なのさ。山の準備が出来たら、山が呼んでくれるんだろうよ」
「そうなんだ……なんか、かっこいいね!」
空がそう言うとハチはくふんと鼻を鳴らした。
「かっこいいかどうかは知らねぇが、そういう予感はお前さんも大事にしな。人間はすぐそういうのを忘れちまうが、いざって時、それがオレらを生かすんだ」
「うん!」
空は自分が明良を助けに行った日の事を思い出して頷いた。あの日明良を助けたものは、間違いなく空が感じた予感だった。
この魔境で生きるには、きっとそういう本能のようなものも大事なのだろうと納得できる。
空はゴロの首元をもう一度撫でさせてもらいながら、凜々しいハチの姿を眺め、それから肩の上の小さなフクちゃんをちらりと見た。
(フクちゃんもテルちゃんも、僕が望んだ通りの可愛くて怖くない姿だけど……もうちょっとぐわっと強そうな方が良かったのかなぁ)
かっこいいとか強そうとかよりも先に、怖くない、を選択してしまったのは多分空自身なのだろうと思う。
いつか空にもこんな風にかっこいい仲間が出来るのか、それとも空自身がかっこよく育つのか……そんなことを想像してみたけれど、残念ながらまだあまり上手く形にはならなかった。
その後、空は田亀と犬たちに案内され、獣舎にいる他の動物を紹介してもらった。
「これが、おかっぱ羊。良い毛糸がとれるんだ」
「あ、しってる! ぼくのまふらーになったの!」
初めて見た羊は想像以上に見事なおかっぱだった。
頭の上から伸びる毛は前髪の様に垂れ下がり、目の少し上でパツンと切り揃えたようになっている。耳を覆って垂れた毛も首のあたりで綺麗に揃っていた。
体も長く真っ直ぐな毛に綺麗に覆われ、下は足首のあたりで計って切ったように同じ長さだった。
その綺麗に揃った白いストレートの毛の合間から黒い顔と手足がちょこんと出ていて、何だか可笑しくも可愛らしかった。
「これって、たがめさんがきったの?」
「いや、何でか絶対このくらいの長さで毛が揃って、それっきり伸びなくなるのさ……」
それは田亀にも謎であるらしい。
羊の隣は少し広い囲いがあり、大きな牛が四頭いて思い思いに寛いでいた。
「こっちは美食牛。食べる物にはめちゃくちゃうるさいが、良い乳を出す」
「……おいしいぎゅうにゅう、すきだなぁ」
どことなく気難しそうな顔をした牛は、何故か全て白とピンクの斑模様だった。
見慣れなさすぎて空の脳内は大混乱だが、可愛いと言えなくもない、と無理矢理納得して見ないフリをしておいた。
「これは縞狐。隠密行動が得意で、俺が山に狩りに行くときの相棒だな」
「しましま……ええと、しましまも、かわいいね」
狐はちょうど体をくるりと丸めて眠っていた。黄色と白の縞柄の靴下を丸めて地面に置いてあるようなその姿に、空は目をぱちくりさせた。田亀がコタ、と呼びかけるが狐は起きず、代わりに縞々の尻尾が三本、ふわりと上を向いた。
「しっぽ、いっぱいある!?」
「ああ、いっぱいあるな。強くなると増えるんだぞ」
「そ、そうなんだ……」
やはり魔砕村の動物は、模様も生態も空の知っているものとは違うらしい。
何だか変な生き物ばかりだが、一見普通に見える犬や猫だって喋るのがこの村なのだ。
空は自分の中に残る前世の常識を振り切る様に、何度も頭を横に振った。
「空くんは随分とキヨやゴロが気に入っているみたいだけど、やっぱりこういう動物とか興味あるかい?」
不意に、田亀が空にそんな事を問いかけた。空はその問いに首を傾げて考えた。
興味があるかと聞かれれば確かにある。空は前世を含めて動物は憧れるだけで飼ったことがなかった。だから見ているだけで楽しいのだ。
しかし、空には既にフクちゃんやテルちゃんがいる。
「あるけど……フクちゃんたちがいるから、だいじょうぶ!」
「ホピピピピッ!」
空の言葉にフクちゃんが嬉しそうに囀る。
田亀はそんな姿をどこか眩しそうな、懐かしむような視線で見つめた。
空はそんな田亀を見上げていたが、ふとその背にゆらりと何か白いものが見え、目を見張る。
しかしよく見ようと視線を向けると、途端にふっと消えてしまった。
「……?」
空は目を軽く擦り、もう一度田亀の背を見る。
しかしそこにはやはり何もなく、気のせいだったかと思い直した。
「じゃあ、またね、ゴロ!」
「空、またな! また秋が来たら遊びに行くからな!」
「うん!」
空はゴロやハチ、他の犬たちと別れの挨拶を交わし、手を振って田亀家を後にした。
パタパタと何度も手を振って雪乃と一緒に門を潜る。
少し歩いてから最後にもう一度振り返ると、門の向こうで走り回る犬たちと、それを宥める田亀の姿が見えた。
その時不意に強い風がひゅうと吹き、田亀が被っているいつもの作業帽がふわりと浮いて飛ばされかけ、それを田亀がひょいと跳び上がってつかまえた。
「えっ!?」
空は今見たものが信じられず、思わず振り向いたまま立ち止まって声を上げた。
「空、どうかした?」
手を引く雪乃が問いかけたが、空は止まったままだ。
その視線の先では田亀が掴んだ帽子を何事もなかったかのようにまた被り直し、そして獣舎の方へ去って行った。
「空?」
「あ、うん……ええと、いまね、たがめさんのぼうしがふわって、そんで、みみが……」
「耳?」
「ううん、みまちがいかも……」
空は首を横に振って、また歩き出す。
おじさんの頭に三角の犬耳がついていた気がするなんて……そんな夢のない話を、空はまだちょっと認めたくなかった。
正直に申しますと犬が書きたかっただけの回です。