123:明良の願い
犬ぞりで遊んでからしばらく荒れた日が続き、久しぶりに晴れ間が訪れた日の事。
空は幸生と一緒に、家の前の道路に出てきていた。昨日から降り続いた雪が二十センチほども積もり、道路の雪かきをしなければならないのだ。空はその見学だ。
幸生は木で出来た大きな雪かき用の道具を持ってきていた。空はその道具を持たせてもらったが、重たくて全く動かなかった。
(これ何て言うんだろ。横に長くて大きい……深めのちりとりに長い柄をつけたみたいな)
前世の記憶にある、スノーダンプというものに前の部分は少し似ている気がする。(実物を使ったことも見たこともないのだが)
ただそれよりも横に大分長いし、後ろの持ち手もいっぽんだけだ。お世辞にも使い勝手が良さそうには見えない。
しかし幸生は使い慣れているせいか気にした様子もなく、それをざくりと積もった雪に刺すように突っ込み、ぐいぐいと押し始めた。
「わぁ……」
雪がみるみる前に向かって押され、山盛りになってゆく。まるでブルドーザーか何かのようだ。
幸生は勢い良く雪を押して歩き、そのまま道の向こう側にずいっと押しやった。家の前から門のすぐ外へ、幸生が通った後だけ雪がなくなり歩きやすそうな道が出来ている。
(じぃじは人間ブルドーザーだった)
空の感心を他所に、幸生は今度はそこを起点に、村の中心の方へと向かって雪を押し始めた。空は散歩も兼ねて幸生のすぐ後ろを歩いてついていった。
幸生は雪が山盛りになったら道路脇に捨て、どんどんと道が開ける代わりに雪の土手が築かれて行く。
空はそのあとをてくてくと追いながら、ふと顔を上げて山の方に視線を向けた。
(……今、何か聞こえた?)
風の音に紛れて、微かだが何か人の声のようなものが聞こえた気がした。
何となく振り向くが、誰の姿も見えない。米田家の門や道の果ての山が静かに佇むだけだ。
気のせいかと思ったが、背中でフクちゃんがもぞりと動く。
「ピピッ!」
可愛い声を立てながらフクちゃんがフードから出てきて、空の肩にちょこんと止まった。
「フクちゃん、どうしたの? さむくない?」
「ホピピピッ」
大丈夫だ、と言うように囀り、フクちゃんは空の頬に体を擦り付けた。
「あはは、くすぐったいよフクちゃん」
空はフクちゃんと戯れている間に、さっき聞いた微かな声のことなどすぐに頭から消えてしまった。
それとほぼ同じ頃、隣の矢田家では明良が一人でぼんやりと庭を見ていた。
明良はここ数日、塞いだ気分を持て余していた。
このところ保育園はずっとお休みだし、天気が悪いからと外に遊びにも出かけていない。
暇を持て余し、持っている玩具で遊んでもすぐに飽きてしまってちっとも面白くない。家にはいつも母の茜や祖母の美枝のどちらかがいるのだが、茜は最近悪阻で体調が悪いせいか、寝ている事が増えてしまった。
祖父の秀明は外の仕事に出ている事が多く、父の芳明は役場に勤めているので昼間はいつも家にはいなかった。だが、それはいつものことなので構わないのだ。
明良の不満や不安の一番の原因は、矢田家の家守である梅の木の精霊、ウメが姿を見せないことにある。
ウメは明良が生まれるずっと前から矢田家を守っていて、明良が生まれてからはその子守をずっとしてくれた。
明良が今より小さかった頃は毎日ずっと一緒にいて、食事の世話から遊びから昼寝まで、いつも面倒を見てくれた。
それなのに、最近ウメはもうちっとも姿を現さなくなってしまった。明良はそれがひどく寂しかった。
窓の外には、梅の木の老木が風に吹かれて立っている。まだ花芽もよく見えず、今年も花が咲くのかどうかわからない。
「ウメちゃん……しんじゃったらどうしよう」
ぽそりと呟くと、足下からニャーと細い声がした。秋からこの家に居候している猫宮だ。
「家守はそんなにすぐには死なぬから、心配するのはお止めよ」
「ねこみやちゃん……でも、ウメちゃん、もうずっとあってないんだ」
「そんな時もあるさね。植物を依り代にするものは寿命は長いが、本体やその周りの環境の影響を強く受けるからね」
一昨年、雪がひどく降った時があった。
この辺りでは冬場は平均して三、四十センチの積雪がある。しかしそれは大抵ゆっくりと降り積もってゆくもので、ドカ雪が降ることは滅多にない。
その滅多にない大雪が降った日、老木で脆くなっていたウメの本体は夜の間に積もった雪の重さに耐えかね、大きな枝を一本折ってしまったのだ。
それ以来ウメは力を落としたらしく表に出てくる事が減り、それは今もまだ回復していなかった。
ウメは明良にとって姉のような、もう一人の母のような存在だ。生まれてからずっと一緒だった彼女がもしいなくなったらと思うと、明良は寂しさと不安でいても立ってもいられない気持ちになるのだ。
「ねこみやちゃん……あのさ、おれとけーやくして、ここにずっとのこってもらうの、だめなんだよね?」
「悪いけどダメだねぇ。アタシはこれでも村長だから、村を放っては置けないさね。それに長く生きてて力もある。坊やじゃまだ力不足だね」
猫宮の言葉に明良は力なく肩を落とした。猫宮はそんな明良の足下に擦り寄り、小さな足の上にのしりと体を乗せた。廊下にずっと立っていて冷えた足に、猫の体温が温かい。
「何をそんなに焦るんだい? 心配しなくても、アンタの家族は皆それなりに強いよ? だからゆっくり大きくおなり」
「……うん」
頷きながらも、明良は昨夜聞いた両親の会話を思い出していた。
「具合どうだ?」
「あんまり……食べてもすぐ気分が悪くなっちゃって。熱っぽいし眠いし、散々ね」
「そうか……代わってやれたらいいのになぁ」
布団に寝転がる妻の背中をさすりながら、明良の父である芳明は無念そうに呟いていた。
明良は端に置かれた自分の布団の上で寝たふりをしながら、薄明かりの中でぽつりぽつりと話す両親の言葉を聞いていた。
「お義母さんたちにも負担掛けちゃって申し訳ないわ……やっぱり、私たちだけでもうちの実家に行くのはどうかと思うのよ……」
「うーん……」
「ウメちゃんもずっと寝てるし、ウメちゃんに力を注いでるお義母さんだって疲れてるみたいだし。何かあっても今の私じゃ、明良とお腹の子を守れないわ」
芳明はこの家の息子だが、茜は隣の魔狩村の出身だ。そこに実家があり、明良を産むときも短い間だが里帰りをしていた。
「うちの両親は構わないって言ってたわ……魔狩村なら遠くないし、二、三年あっちにいて、赤ちゃんが大きくなったら戻ってきたっていいじゃない?」
「そうだなぁ」
魔狩村は立派な防壁に囲まれた村だ。近隣の野山に住む生き物も、魔砕村の周辺のものより少し弱い傾向にある。
その村出身の茜は、自分の強さにあまり自信がなかった。地域や学校で戦闘や魔法の訓練はもちろん積んだが、どうしても向き不向きがあるし、防壁に囲まれた環境で育った甘えもある。魔砕村の最強格を目にしては自分の弱さを実感してきた。
それ故に、家守が眠っていて自分の体も思うようではない現状で、この場所に居続ける事に不安があるのだ。
「俺がもっと強かったら、安心しろって言ってやれるんだが……」
芳明もまた、父が得意な水魔法も、母の緑の手も受け継がなかったことに負い目があった。
懸命に力を伸ばそうと色々やってみたが、自分に何が向いているのかもわからないまま、結局役場で仕事をしている。
村の世話役などを積極的に受けて働いているのは、村を守ることには自信がないからだ。
それで十分だと両親も周りの人も言ってくれるが、それでもわだかまりは自分の中に残るし、茜の不安な気持ちもよくわかった。
「もう一回、親父たちと相談してみるか」
「ええ。明良はこの村が好きだから、可哀想だけど……」
この村には保育園と小学校はある。二、三年隣村で暮らすとなれば保育園を移り、小学校も向こうで入学する事になるだろう。
「明良は良い子だから、きっとわかってくれるさ。お兄ちゃんになるの、楽しみにしてくれてたし。生まれてくる子の安全を思えば仕方ないよ」
「そうね。わかってくれるといいんだけど」
母の呟きを聞いて、明良はぎゅっと目を瞑った。
わかるけれど、わかりたくない。新しい兄弟の存在は嬉しいのに、明良の心は嫌だと叫んでいた。
明良はこの村が好きだ。この村の何もかもが。
ここで生きる人も動物も植物も精霊や神様も、皆キラキラしていて明良の心を惹きつける。
危険が多い事はもちろん知っているし、怖い思いをしたことも沢山ある。それでも明良はこの村で育ち、いつか大きく強くなるんだと信じて疑わなかった。
(おれ、やだ……ここじゃないとこ、いきたくない! ここで、おおきくなりたい!)
けれど起き上がって両親にそう叫ぶことが、何故かどうしてもできなかった。
「……おれが、つよかったらな」
いつか思った事を、また明良は小さな声で呟いた。足下にいた猫宮が何か言ったかという風に見上げてきたが、明良はそれっきり黙ってしゃがみ込んでその体を撫でた。
(おれがつよかったら、もっとおおきかったら)
『……ヨク……キク、ナリタ』
(そうしたら、ここでこのまま、くらしていられるのに)
『……コニ、イタイ……エタク、ナイ』
外から聞こえる風の音に、何かおかしな音が混じる。
それに気付いた明良は、窓の外を見て耳を澄ませた。
『……キ、タイ。ツヨ……リ、タイ……サ、ミシイ』
風に混じって聞こえるその音が、耳を澄ますと少しだけ鮮明になる。
それが声だと気付くまで、そう時間は掛からなかった。
『……コニ、キテ……イッショ……イ、キタイ』
その声はしきりに、強くなりたい、生きたい、ここにいたい、さみしい、消えたくない、と訴えているように明良には聞こえた。
「坊や? どうかしたかい?」
「……ううん。なんでもない」
その声が訴える心は、願いは、明良が抱えたものと深く重なって聞こえた。
これは聞いてはいけないものだと、明良は周りの大人に教えられて知っていた。けれど、その声は明良をひどく惹きつける。
(おれも……つよくなりたい。どこにもいきたくない……ここで、おおきくなりたい。ウメちゃんやじいちゃんたちと、ずっといっしょにいたい……さみしいよ)
聞いてはいけないと思いながらも、明良は同じ気持ちを抱えて胸の内で呟いた。
明良は知らなかった。
聞いてはいけない声とその心を重ねた時。
その思いは、村の結界をも超えて繋がるのだという事を。重ねた願いは道を開くのだという事を。
明良が姿を消したのは、その次の日の事だった。
冬編もそろそろ佳境です。