104:煌めく味噌樽
「よし……あっ、うごいちゃだめ!」
よし、と思ったのも束の間、手の中の味噌がもにょもにょと身を捩るように動き出す。
空は逃げるそれを両手で押さえつけ、無理矢理ぎゅっと握りこんで歪な団子を作った。団子にしてからそっと手を開くと、諦めたのか味噌はもう動かない。これならすぐに逃げられる心配はなさそうだと判断して、空はそれを雪乃に見せた。
「ばぁば、これ! またにげちゃうまえに、たるにいれて!」
「はいはい。じゃあこの小さい樽に投げ入れてちょうだい。外にはみ出ないように気をつけて、出来れば角を狙って、バシッとね」
空が見やすいように雪乃が樽を斜めに傾ける。空は言われた通り味噌が角に当たるよう、慎重に狙いを定めて団子を投げ入れた。
ベチッ! と音を立てて味噌団子が樽に叩きつけられ、ぺしゃりと隅に張り付くように広がる。
「やったぁ!」
空はちゃんと上手く投げられたことに喜び、既に作ってあった三つの団子も続けて投げ入れた。
「空、ばぁばはもう大体終わったから、この樽をこうして押さえててあげるわ。どんどん味噌を捕まえて団子にして、投げ入れて良いわよ」
「……うん!」
味噌を捕まえるという言葉への理解を脳が一瞬拒否しかけたが、空はそれを振り切るように元気よく頷く。
そしてもう遠慮せず樽の中でもにょもにょとうごめき揺れる味噌に素早く手を突っ込んだ。
「にげちゃ、だめ! ぼくの、おいしいみそに、なるの!」
もう空は悠長に団子を作る事を完全に放棄した。わしっと味噌を固まりで掴んでは、両手でぎゅっと潰して精一杯空気を抜く。そしてそれをすかさず雪乃が構える樽の中に叩き入れる。
「空ちゃん、手伝おうか?」
「だい、じょう、ぶ!」
美枝の提案を断り、空は段々と避ける動きが素早くなる味噌を必死で追いかけた。千切っては投げ千切っては投げを繰り返すうちに、空の動きもどんどん良くなっている。
片手をひらりと振ってフェイントをかけて避けさせ、そこをもう片方の手ですくい取るなどという小技も使っている。もはやこれは味噌と空の真剣勝負なのだ。
「頑張って、空ちゃん!」
「今の動き良いわよ!」
「隅に追い詰めて!」
いつのまにか自分たちの作業をほぼ終えた女性たちが空を応援してくれる。空はその声援を背に味噌と真剣に戦った。
「これ、で、さいご! えいっ!」
空はとうとう最後に残った僅かな味噌をすくい取り、バシッと勢い良く投げつけた。
タライの隅々まで見回してももう味噌は一欠片も残っていない。
「おわった……?」
「ええ、終わりよ。頑張ったわねぇ、空」
「もう、みそにげない?」
「樽に入れてしまえば大人しくなるわ。多分味噌も、別に本当に逃げ出したいわけじゃなかったのよ」
ぜぇぜぇと息を荒げながら空は雪乃の顔を見た。空の手を何度もすり抜けて抵抗したのに、逃げ出したくなかったとはどういう事なのかわからない。
「きっと空と遊びたかったのよ」
「えええ……そんなぁ」
空はため息を吐いて肩を落とした。
あんなに必死だったのに遊ばれていただけだったなんて。
がっかりする空に、雪乃は塩が入った器を差し出す。
「さ、空。表面をペタペタして平らにしたら、このお塩を全体に満遍なく撒いてね」
「うん……」
最後の仕上げだとがっくりしていた体を起こし、空は台から下りて床に置いてもらった樽の中に手を入れる。
ぺちぺちぺたぺたと表面を丁寧に撫でて叩いて平らにし、それから塩をパラパラと敷き詰めるように全体に撒いた。
「これでいい?」
「ええ、良いわよ。あとは綺麗なさらし布を敷いて、と……」
雪乃は真っ白な布で味噌の表面をぴっちりと覆い、蓋をする。
「はい、空。空のお味噌の出来上がりよ」
空はついに戦いに勝利し、自分の味噌を完成させたのだ。
「できた!」
嬉しくて宣言すると、雪乃も周りの女性たちもパチパチと拍手をしてくれた。
「ご苦労様、空! 全部自分で頑張って、えらかったわ!」
「えへへ……ばぁば、いっぱいてつだってくれてありがと!」
「どういたしまして。お家に帰ったら重しを載せて倉にしまいましょうね」
「うん!」
小さな樽は空が抱えてどうにか持ち上げられるくらいの大きさだ。空が毎日食べる分を考えれば、まったく足りないくらいの分量でしかない。
それでも、自分で頑張って味噌を仕込んだという事が、何だかすごく楽しく、そして大切な経験に思えた。
空は蓋をされた樽が何だか急に愛しくなって、思わずきゅっと抱きしめた。素朴な木の味噌樽が何だかキラキラと輝いて見えるような気がしてくる。
「ぼくのみそ……おいしくなーれ!」
出来上がったら一番最初はお味噌汁にして、皆で一緒に食べようと心に決める。
今からその日が待ち遠しくて、空はお腹をぐぅっと鳴らしながら嬉しそうに笑ったのだった。
その日の夜。
「空が味噌を……味噌汁に?」
夕飯が終わると空は疲れたのか、早々に眠たいと言って布団に入った。
夕飯を食べながら幸生やヤナに一生懸命味噌と繰り広げた死闘について話をしていたのだが、食べ終わる頃には電池が切れたようにうとうとと眠りかけていた。
そんな可愛い孫を寝かしつけ、幸生と雪乃、そしてヤナは囲炉裏の傍で少しだけ晩酌だ。
「そうなのよ。自分の味噌が出来たら最初はお味噌汁にしてもらって、それをじぃじやばぁばや、ヤナちゃんと一緒に飲むんだって。楽しみにしてたわ」
それを聞いてヤナがくすくすと笑う。
「空は可愛いのう。皆と喜びを分かち合いたいというその気持ちが、可愛くて良い子なのだぞ」
「本当にね」
幸生など空の可愛さに既にやられてさっきからずっと天を仰いでいる。
出来上がった味噌汁を、空にどうぞと言われて素直に食べられるのかどうか、雪乃は今から少し心配になった。
心配事といえば、もう一つあるのだが。
「空がね、もう一回同じ量のお味噌を自分で作って、東京の家族に送りたいって言うのよね……」
「良いではないか。紗雪たちも喜ぶぞ?」
「喜ぶとは思うんだけど……」
雪乃は帰ってから倉にしまった空の味噌樽を思い出す。
空が全身全霊を込めて美味しくなれと願いながら格闘して仕込んだその樽は、雪乃の目にはどう見ても過剰な魔素をまとってキラキラと煌めいているように見えた。
「紗雪はともかく、隆之さんや他の子供たちには、あの味噌は魔素が強すぎるんじゃないかと思うのよねぇ」
「そんなにか?」
「そんなになのよ。少しだから良いけど、もっと仕込んだ量が多かったら……あのまま何年も寝かせたら、うっかり精霊とか生まれちゃうんじゃないかって言うくらい気合いが入った味噌だったわ……」
ヤナは味噌の精霊というものが生まれる様を想像してみた。
今のところヤナはそんな存在と出会ったことはないが、もしかしたら専業の味噌屋などにはいたりするかもしれない。しかし何となく茶色くて豆くさそうだ。
そんな精霊やら何やらが、自分の縄張りで生まれるのはちょっと嫌だな、と思う。
「……空の味噌は若いうちに食べる事としような」
「そうね、そうしましょう」
こうして空の知らないところで、空の味噌から味噌の精霊が生まれるのは阻止される事が決まった。
ちなみに、雪乃とヤナがそんな相談をしている間、幸生はずっと天を仰いでいた。空の味噌汁が振る舞われる日も、多分幸生は天を仰ぐのだろう。
ピチピチの味噌の精霊は生まれませんでした。