1 婚約は二度としない
薄暗い簡素な牢獄の中、ルチア・パトルックは絶望と静かな終焉に浸っていた。
婚約者を男爵令嬢に奪われ、社交界から追放された。嘗て、豪奢な暮らしに溺れていた公爵令嬢の影はもう無い。
今、目の前にあるのは冷たい足枷と手錠だけ。地階の牢獄で嘲りを受け、下卑た看守の笑い声が耳にこびりつく。
初めは悲しみと怒りから、自分をこんな目に合わせた第1王子ライリッシュと男爵令嬢メリッサ・クラウンへの復讐に燃えていた。
しかし、時が過ぎあんな者達と関わらなければ良かったという後悔の念が込み上げてくる。
ライリッシュの事が好きだった訳ではないし、王妃になりたかった訳でもない。
私にはもっと別の生き方があった筈だ… もっと前に気づいていれば……それももう遅い。
思えば、後悔しか無い。粛々と進む婚約、取り巻き含めノータリン共に使った時間…… 不実な婚約者を詰る暇があったなら剣術でも磨けただろう。悔しさや後悔から唇を噛み締める、もう遅い。悔いたところで今更何ができるというのだ。
過ぎた時間は戻らない。
ルチアは、後悔の念に苛まれながら静かにゆっくりと目を閉じた。遠のく意識の中で、声がする。
ミア?
遠くで、待女ミアの声がする。
幻聴よね、側に居るわけ無いもの。
幼い頃から私に寄り添ってくれたいつも冷静な待女は、ライリッシュに糾弾された日。舞踏会から連れ出される中、ミアが私の無実を訴え泣いていたのを覚えてる。目を泣き腫らしながら…
「お嬢様ぁ!!」
今みたいに、叫んでたっけ。
それにしても、声がリアルだ。
瞑っていた重い瞼を開けると、窓から差し込む太陽の明るさに目が眩んだ。
「…ん? あれ、牢獄じゃない」
目の前には、懐かしい自分の部屋と懐かしい顔があった。
「ミアっ!」
ガバッとベットから起き上がり、抱きついた。
感動の再会と思ったのはどうやら私だけ。
一方的な包容にミアは呆けた顔をしていた。
しかし、すぐ元の鉄面機みたいな無表情に戻り、冷静に体を引き剥がした。
「お嬢様、寝ぼけるのも大概になさいませ。
さぁ、広間に戻りますよ。皆様お待ちです」
どうやら私は、ライリッシュ王子とお見合い中に気を失って倒れたらしい。
そういえば、そんな事あったな、期待感で夜もろくに寝れなかったのだっけ。
当時私は14歳で王子様の出てくる小説にはまっていた、そのため自分が主人公のお姫様になれるなどという下らない妄想に浸っていたのだ。その純粋さから婚約者教育という地獄をも耐え抜いた。
しかし、その努力は無駄であった。18まで頑張った婚約者教育が日の目を見ることは無かった。
私は時間が巻き戻るという奇跡に驚きつつも、今やるべき事は確実に見えていた。
あの女と結ばれるのが分かっている以上、あんな王子と婚約する謂れはない。
広間の扉を開けると、父と王子達が楽しそうに談笑していた。
立ち入れない空気だが、今の私に婚約する気はさらさら無い。
「お父様!」
真直ぐに父を見つめ、声を張り上げる。気づいた父は、表面的笑みが崩れて柔らかい表情に変わる。
「ルチア!心配したよ、急に倒れるから… もう大丈夫なのかい?」
父は娘への溺愛が過ぎるが、当主としての手腕は確かで、そのためパトルック公爵領は豊かである。
故に国からの信頼が厚い。
国王陛下と学友である父は、公務中も娘の自慢話ばかりする為に、今回の婚約の話が上がった訳だ。
「えぇ、ご心配お掛けしましたわ」
にっこりと笑顔を向け、父の不安を取り除く。
安堵の表情と同時に、父の低い声が優しく響く。
「そうか……ところで、ライリッシュ殿下との婚約だが、お前さえ良ければ話を進めようと思うのだが、どうだい?」
この婚約は強制ではない。
公爵家と王家が懇意にしているのは周知の事実なので、大した利益は生まれない。
この婚約は、第1王子ライリッシュの地盤を固める為のもので、第2王子派を多少牽制する目的がある。
しかし、ここで婚約を呑みこめば、あの悪夢が再来する。背筋がゾクッと凍る。
多寡が14歳の私であれば断る術は無いだろう。
しかし、精神年齢25歳の今の私は断ることが出来るのだ!
悪夢よ、去るがいいわ!
「お父様。今回の婚約は、私には過ぎたお話ですわ。殿下の婚約者とは、次に王妃となられる可能性のあるお方。家柄だけで無く丈夫で、気丈でなくてはなりません。縁談の最中に倒れるような軟な私めには、務まるとは思えません」
どうだ、完璧な理由付だろう。
本来婚約を断るのは立場が上の者だ、下位の者が断るのは無礼であり、最悪だと家が潰され首が飛ぶ。
しかし、自分の非を挙げ断りをいれるのは相手を思いやってのこと。
「ルチア……」
父が息を漏らす、娘のためを思い取り付けた婚約が、娘の負担になってしまったと感じたのだろう。
「それに、私は殿下よりもお父様が好きですわ!」
必殺の殺し文句が決まり、父の表情が綻んだ。
「殿下自身が伴侶となる方を見極めることは、人を見る目を養うことに繋がるでしょう。その経験の機会を奪い、我々で決めようといのは野暮な話だったかも知れませんな」
娘に甘すぎる父は、その場を上手くまとめ婚約の話は立ち消えとなった。
当のライリッシュは何も言わず、ただ真っ直ぐに私の顔を見ていた。笑い返すと照れたように顔を伏せた。
この時はライリッシュも私に好意的だったのかもしれない。しかし、所詮はただの好意に過ぎない訳で再び牢獄に入れられたら溜まったもんじゃない。私は自由に生きると決めたのだ。
縁談も終わり、部屋に戻った私は机に向かっていた。過去の出来事を出来得るだけ書き残す為だ。
脆い記憶を残す目的もあるが、これからの計画を立てる目的もある。
婚約は無くなっても、女の争いは無情。巻き込まれる訳にはいかない。
その為、夢は学園に入学してから見つけるのなんて悠長なことは言ってられない。折角掴んだチャンス、結婚なんかに使うつもりも無いわ。
5時間掛け記憶を書き残し、今後の計画も立てた。
流石に疲れる、手足が軽く麻痺し、小刻みに震えている。
「と、とりあえず、明日からだわ」
ベットに横たわりながら、枕に顔を填める。
今までに感じたことのない充実感と期待感に包まれて、ゆっくりと意識を手放した。