秘密 ~雨に降られて……
参ってしまう……。
私は秘かに音をあげている。
自分でも予想だにしなかった「声」が出る。
喉元の更に深い躰の奥底から……。
時に悲鳴のように。時に甘い吐息のように。
それは秘めやかな出来事─────
私と、今目の前にいるその男との間だけの……。
カタカタとゆるい音をたてながらジェットコースターが登り詰め、そして一気に駆け下りてゆく。
そんな感覚を、何度か味わいながら、私はいつしか眠りに就いていた。
◇◆◇
「────だから瑠梨、誤解だ。それは僕だって。瑠梨? 瑠梨!?」
その人は一つ溜息をつき、静かに携帯を切った。
そして、目覚めた私の方へと体を向けた。
「おはよう。悪かったね、起こしてしまって。よく眠れた?」
「おかげさまで。少々睡眠不足のようだけど」
何くわぬ顔をして私はそう答え、そして尋ねた。
「今の電話の相手、彼女?」
「……ああ。君には悪かったと、思ってる」
その人は少し顔色を翳らせた。
「いいの。私にもいるもの、恋人が」
自分でも不思議なほどすんなりと口に出る。
そしてカルティエの煙草に火を点けた。
普段から煙草は品良く吸っているつもりだが、今は場末の娼婦のような気すらしてくる。
大体、初対面の相手の前で煙草を手にすることからしてどうか、してる。
「彼女と喧嘩でもなさったの?」
「ごくつまらないことがいつの間にやら、すこぶるこじれてね。まったく、女て生き物は不可解だよ」
頷きながら、彼は大真面目にそんなことを呟いた。
「で、君の方は?」
「ん……彼のデートのすっぽかし。仕事だから仕方ないってわかってるけど三回も続くと、ね」
「で、せっかくの週末の夜をホテルのバーでひとりヤケ酒飲ってたわけ?」
「それはあなたも同じことでしょ。で、私に声をかけた。節操もなく!」
「やけにいい女が一人、イミ深顔でグラスをあおってるのにそそられてね。一目見た時から目が離せなかった」
「言ってくれるじゃない」
そして、バーを出た後は、エレベーターに乗っていた。1802号室行き。つまりこの部屋の。
それが昨夜の事の顛末─────
「で、これからどうする? 朝メシ、ルームサービスでもとるかい? もうブランチて時間だが」
「そうね。コンチネンタルでいいわ。適当にお願い。あまり食べたくないの」
「OK」
彼はそう言うと受話器をとり、物慣れた様子でオーダーを告げた。
そうして程なく、私達は朝食を共にした。
依然、お互いの名前も素性も知らぬまま。
彼は会話を交わすでもなく、私と違いアメリカンスタイルの朝食を美味しそうに、あっと言う間に平らげていく。
新鮮なサラダ。バターをたっぷりとのせた薄切りトーストが二枚。5分間ボイルドされたエッグ&ベーコン。そしてトマトジュースにブラックコーヒー。
その情景だけでも私はおなか一杯になりそうだったけれど、フルーツコンポートだけは追加してもよかったかなとぼんやり思いつつ、ゆっくりとミルクをかけたシリアルを食していた。
しかし、
「いやね。外、雨降りだしたみたい……」
グレープフルーツジュースを飲み干した時、窓の外の水滴に気がついた。
空はどんよりと薄暗く厚い雲に覆われている。
梅雨入りかしらと私は眉をひそめた。
すると、
「雨は、嫌い?」
と、彼は初めて興味を朝食から私へと転化した。
「好きな人なんてそうそういないものじゃあない?」
「僕にはLuckyだな。傘を持っていない君をここへもう一泊、足止めする格好の理由が出来た」
そう言うと、彼はコーヒーカップを置いた。
彼の視線と私のまなざしが微妙に交錯し、彼はゆっくりと私を抱き寄せた。
「私のこと、すき……?」
抱き寄せられるまま、彼の瞳を上目遣いで見つめながら私は、軽く問うた。
「すきだよ」
彼はあっさりと答えたが、答えると同時に、ぎゅっと私を抱き締めた。
さも愛しい恋人のように。
「彼女の次に、でしょ?」
しかし、私は次の瞬間そのムードを自ら破る。
「君はモノ判りがいいね。そんなところが益々気に入った」
けれど彼は面白そうに笑い、そしてそのまま私を押し倒した。
そうして、私達は昨夜の過ちを再び繰り返し始める。
過ち─────!?
ちがうわ。利隆が悪いのよ。いくら激務の広告代理店勤務だからっていって、仕事が佳境にはいるとプライベートの携帯は電源OFF。平気でデートをすっぽかす。商社の腰掛けOLの私はそれはきっちり9to5だけど、そうそう暇じゃあないのよ。私だってプライドてものがあるわ。
そして……利隆への愛情が──────
もう一ヶ月と二十日逢ってない。どうにかなりそうよ。どうしていいかわからなくて……。私だってコドモじゃない。一人でバーで飲んだっておかしくない歳よ。男が声をかけてきたって仕方ないじゃない。淋しかったのよ。
利隆……。
逢いたい─────……
完璧に混乱した思考のまま、私は昨夜と同じ顔だけしか識らない見知らぬ男に抱かれている。
心と躰はアンバランスな実に微妙な反応を示す。
そのままその日が終日過ぎてゆく。
外の雨はやみそうにもなく……
◇◆◇
また一夜が明けた。
カーテンをかざすと外はまだうっすらと闇が広がっていた。
窓からは眠っている都会のビルが目に映る。
しかし18階から眼下を見下ろせば、いくつもの走っている車のランプが流れている。
街は動き始めているようだ。
私はそっとベッドから抜け出すと、バスルームへと向かった。
42度の熱いシャワーを浴びて、改めて目が醒める心地がする。
まだ時間は早い。
バスタブに今度は37度のぬるいお湯を張り、体を沈めた。
体がほぐれ、思考が明晰に回転し始めるのがわかる。
お湯はいい気持ちだった。気分とは裏腹に。
「利隆……ごめん────」
バスタブの中で膝を抱えながら、思わずしらず呟きが漏れる。気分は最悪だった。
こんな形で裏切るつもりなんて、考えたこともなかったのに……。
利隆とはもう一年半になる。
その間、業界人の割に珍しく利隆は目立った浮気なんてする男じゃなかったし、私だって利隆以外の男に惹かれたことなんてなかった。
利隆は私にとって三人目の男だったけど、初めての男より、それまで恋してきた誰よりもかけがえのない存在だった。
そう、私達は、利隆の仕事に邪魔されながらも比較的穏やかで、そして、幸せなカップルだったのに……。
バスからあがるとすぐに服を身につけ、手早くメイクを施した。
再びカーテンをそっと開けてみると陽は昇り、薄日が射していた。
昨日一日降り続いた雨は、昨夜の内にあがってしまったらしい。
私はライティングデスクに座り、ホテルの便箋を一枚とペンを執った。
『 さようなら。雨もあがったので帰ります。
6月8日(日)AM7:05
雨のキライな女より 』
そんなメッセージを卓上の目に付く位置へと置いた。
彼はまだぐっすりと眠っている。
それを見届けてからドアへと向かったが、しかし、一度だけ私は振り返った。
ばいばい。二夜限りの雨の好きな人。彼女と仲直りできるように祈ってるわ。
さようなら─────
そして、私はその部屋を後にした。
◇◆◇
そうして私は、朝食もとらずにまっすぐ帰宅した。
部屋に入ると、携帯を取り出す。
一瞬、緊張しながら私は恐る恐る、この二日間切っていた携帯の電源をONにした。
しかし。
携帯には、一件の留守電も着信履歴もメールすらなかった。
「な、何!何よっ!? 電話もメールもすっぽかしてえ!!」
私は腹立ち紛れに持っていた携帯を思わず、床へと叩きつけるところだったが、さすがに理性で踏みとどまった。
先日、買い換えたばかりの新型のスマホを、こんな理由でお釈迦にするのは馬鹿馬鹿しすぎる。
しかし。
その事実が私の興奮を一挙に冷ます。
一昨夜、そして昨日終日、雨降りだったにもかかわらず、私は部屋にいなかったのだ。……そう、夜中さえも。
この二日間、利隆が連絡をしてこなかったからこそいいようなものの、そうでなければ、辻褄を合わせることが出来ただろうか。
利隆は、まさか私が他の男と夜を共にしているなど、露も思ってはいないだろう。
電話もメールもなかったのは仕事がトラぶったのか、それともなにか利隆の身にあったかもしれない。
切なさと後悔とがないまぜになり、無性に利隆に逢いたかった。
抱いて欲しかった。
利隆に……。
その時。
まさしくその瞬間に、着信音が鳴ったのだ。
出ようか出るまいか迷ったのも一瞬のこと。私は電話に出た。
「あ、灯里。俺」
それは、実に久しぶりに聞く利隆の声だった。
すぐには、言葉が出ない。
なんと言っていいかわからない。
「灯里、悪かった。今、大きなプレゼンかかえてるって言ってただろ。色々あって、どうしても連絡できなかったんだ。済まなかった。ごめん」
私の沈黙を不機嫌と解釈したらしい利隆は、謝罪に終始した。
私の背徳など疑う余地すらなく……。
「明日の月曜、アフター5、空いてるか? 確実に逢える。今日は同僚との打ち上げなんだ。プレゼン大成功してさ。だから、明日いつもの『ベンジャミーナ』で。夕メシは36階でドンペリあけて、祝杯あげようぜ」
利隆は、一転してすこぶる上機嫌な声を出した。
よほど仕事がうまくいったんだろう。
いつもそうだ。仕事の成果を、まるで子供が母親に百点のテストを見せる時のような気色満面で必ず私に報告し、そしてデートの約束を取り付ける。
だから仕事で放って置かれても、結局私も許してしまう。
「ドンペリもいいけど、本当に逢えるの?」
「泊まりもOK」
「どうやら本当に仕事、終わったようね」
「そうゆうこと。それじゃ、明日の18時半。逢えるの楽しみにしてる」
そうして電話は切れた。
私の溜息だけを残して。
◇◆◇
6月9日月曜日午後17時15分。
ロッカー室は、ベビーピンクの制服から色とりどりの鮮やかな私服へと着替えている女子社員でひしめき合っている。
「あら、春日さん。そのブルーのスカーフ使い素敵ね。エルメス?」
「ご名答」
「メイクもやけに念入りじゃない。ルージュの紅が効いてるわ。もしかしてワケ有り?」
「ん、まあね」
「言うわねえ!」
そのごく近い場に居た数人から歓声があがる。
同僚達のヒヤカシの声に押されるようにして、私は「お先に」とロッカールームを出た。
半ば苦笑しつつ。
げに恐ろしきは女の嫉妬などと思いながら。
◇◆◇
電車で一駅のそのホテルへは当然、早過ぎるくらい早く着いてしまった。
正面入り口から右手に位置する喫茶室『ベンジャミーナ』は、その名の通り、背の高いベンジャミンの植木がテーブルの合間合間に涼しげな木陰を作っている。
ストリートに面した一面のウインドウからは明るい陽が射し込み、行き交う人々が見える。
ここでは、何故か私は飽きることがない。
いつまででも時を過ごせる。
それを知っているから利隆は、万一の場合を考えて大抵ここを指定するのだ。
二、三人がけ用の丸い円卓の一つに座ると、島田理生の文庫本を取り出してから、テーブルの上の呼鈴を押した。
深いエンジ色のワンピースを着た上品なウェイトレスが、お水と共にオーダーを取りに来る。
間もなくして、アイスコーヒーのグラスが目の前へと置かれた。
スマホへ目を遣ると、約束の時間まであと23分。
漫然とページを捲っていた手を止め、パタンと本を閉じた。
どうにも思考が集中しない。
ミルクだけを入れたアイスコーヒーはこくがあり、程良い酸味が効いている。
化粧ポーチからコンパクトを取り出すと、私はメイクの状態を確かめた。
チークの色が濃すぎたかしら。
ううん、このくらいで丁度いいはず。
アイシャドーもいい感じに入っているわ。
小さな鏡に熱心に見入りながら、その時、ふと私は閃くものを感じた。
今夜の私はもしかして、いつもよりそう、どこか、綺麗……?!
だとしたら──────
あの夜の、あの雨の好きな男との秘密のせいね……。
そう、ひみつ。
決して利隆に知られてはいけない。
それは強い予感めいた想いだった。
利隆のしらない他の男との秘め事が、私をもっと輝かせてくれる──────
だから、秘密ね。
あの男とだけの。
もう二度と逢うことのない……。
「灯里」
振り向くと利隆が、いた。
その一瞬、ズキンと胸が痛んだ。
しかし、この痛みと共に、今夜は利隆と一夜を共にする。それが私へ科せられた罰かもしれない。
私は満面の笑みで席を立ち、利隆の腕をとる。