ドストエフスキーと現代を生きる哀しみ
ドストエフスキーとカントの重大性について、今になって気がつく事が沢山ある。彼らはいわば認識論的展開をしたのだが、これを骨身のレベルで受け止めるという事がどれほどむずかしいかーー逆に言えば、過去の様々な事をもう「知っている」と考える常識がいかに何も知らなかったか、という事を思い知らされている。あるいは彼らはそれらを概念としては知っていたが、自分の物の見方を根底的に変えてしまうものだと「知る」事ができなかった。「知る」とはおそらく「見る」事であり、「見る」とは「行動する」事なのだろうと思う。この辺り、「知る」から「行動する」までの間をこれから自分は運動していくだろう…。
ドストエフスキーの認識論的変化について明確に語っているのはバフチンだろう。バフチンには本当に沢山の事を教えてもらった。ドストエフスキーの世界というのは、カント的な意味での「事実」の放逐であり、世界のあらゆる物事は常に、自意識という鏡に映し出された像に過ぎない、という事だ。この自意識はプルーストの「語り手」のように単一のものではなく、それぞれの人物に割り振られており、だからこそ、それぞれの搖動する自意識は相互に影響を与え合っている。
これまでにドストエフスキーに影響を受けた作家は沢山いただろうが、認識論レベルで影響を受けた人物はほとんどいないのではないかと思う。構造的に、ドストエフスキーと似ていると感じるのはサリンジャーだが、サリンジャーはドストエフスキーに直接影響は受けていないかもしれない。また、別の意味で構造的に近いのはセルバンテスのドン・キホーテだ。セルバンテスがドストエフスキーに影響を与えた事は明瞭に分かっている。
ドストエフスキーが成した革命とは世界とは「自意識」という鏡に映し出された映像に過ぎないというものだ。よく考えれば、全ての物事は人間の意識、感覚、心理に還元される。誰にも目に見える判明な事実というのは、むしろ様々な自意識が、複合的に感覚的な客体として「想定」しているものであり、それは確固として外側に存在するものではない。今の小説の大半は、世界を「事実」として見る、単純な世界観でできている。そこではだから、テーマや登場人物や雰囲気だけを取ってきて「ドストエフスキーから影響を受けた」と言う事ができる。
「地下室の手記」の主人公というのは、ほとんど規定しがたい人間だ。この人間の自意識は全てに反発しており、一様の定義を許さない。四十過ぎた作家がこのような混乱した小説を描かなければならなかったという事に、僕はドストエフスキーの巨大な才能を感じる。ある種の作家が、こじんまりとしつつもまとまった作品で賞を取ったりする事ができるのは、最初からその世界には明確な限界があるからであり、この限界の内部で技術を磨いていく事ができる、そうする事が無意識的に正しい、と信じられているからだ。ドストエフスキーはこれとは逆に、技術が作られていく際の、限界自体に対して突破しようと試みた。これは過去からの技術の破壊であり、事実の構成としてのリアリズムからの逸脱だ。当然、混乱した作品とならざるを得ないのだが、ドストエフスキーはそういう事をやった。
「地下室の手記」の主人公の自意識はあらゆる事に反発するため、一様の定義を許さない。この人物は凶暴に自分の自意識を主張しようとする。よく、小説においても、あるいはタレントなどに対しても「性格」「キャラクター」という言葉が割り振られたりする。これを現実に当てはめると「天然キャラ」などである。しかしこの世にキャラクターなどというものが果たして存在するのだろうか。僕がある自意識を保有しており、人が僕に対して「この人はこういうキャラクターだ」と決めつけるとき、その人は僕の自意識の限界を強引に設定しているのではないだろうか。フローベールのボヴァリー夫人の描写が正確に成り立つのは、その中の登場人物よりも、それを描くフローベールが一段高い場所に立っているためだ。ボヴァリー夫人の中の人々は生活者であり、彼らは自分を疑わない。彼らが自分を疑い、自分の行為、心理を詳細に分析にかけ、己自身の願望と「あえて」逆の事をしてみる、と言えば、もうフローベールの世界は成り立たなくなるに違いない。しかしドストエフスキーの世界は正にそのようなもので、ドストエフスキーのキャラクターは、自らをある「キャラクター」と決めつける定義に抵抗しようとして、他者と相関する。自意識は常に自由だが、その自由にはどのような形で定義ができるのかという事にドストエフスキーは独特の方法で答えたのだった。
話を進めよう。「地下室の手記」というのは、主人公の一人称の告白小説になっている。これは主人公の自意識を主張するには好都合だったが、この方式では描けないものがある。それは「他者」と「無意識」の二つだ。一人称の告白の場合、全ての物事は語り手の意識に吸収される。そこで語る事ができないのは、語り手の立場から見えない他者の内面と、語り手自身の無意識だ。語り手に対する他者の内面をいくら作品内で語ろうとしてもそれは単に語り手の推測に過ぎないという事になるだろう。これは現実的に考えれば簡単で、「僕」はいくら頑張ってもあなたの心の内を覗く事ができないという事だ。洞察する事はできるが、それはあくまでも洞察に留まる。
同様に、語り手は、自らの無意識も描けない。語り手が語るのは自らの意識であり、語りそれ自体であって、仮に無意識を描こうとすれば、それは意識に上ってきた、過去に無意識だったものであって、それは意識に上った段階で無意識ではない。ドストエフスキーが「罪と罰」で三人称に移行したのは一つには、主人公の無意識を描くためだった。
ドストエフスキーは「罪と罰」という作品で、三人称に移行した。これによって主人公の無意識と、主人公以外の自意識を描ける事となった。実はこの両者は同じものでなのではないかと僕は考えている。「カラマーゾフの兄弟」のラストで、イワンは自らの無意識と葛藤する事になっている。この時、イワンのかくれた言葉に対して悪意ある言及を行うのがスメルジャコフであり、これを天使のように言及するのがアリョーシャだ。アリョーシャとスメルジャコフは対をなしている。その後、イワンは自らが生み出した幻覚の悪魔と会話するが、これはイワンの中のかくれた言葉が具現化したものと見る事ができる。つまり、自己にとっての無意識とは、自己にとっての他者に他ならない。また、他者は、自己の意識と無意識を総体として受け取る存在である。僕達に他者が必要なのは、僕は僕の存在の一部分しか知覚できないからだ。これを存在まるごととして受け取るのは、「他者」だ。しかし、もちろんこれは普通の「他者」ではない。イワンに対して、アリョーシャやスメルジャコフという強烈に加工された、徹底的な内部考察力を持った他者であるからこそ、イワンに対する「他者性」として機能する。普通の意味での他者はほとんど他者ではないし、同一の信仰や同一のイデーに心酔している人間はむしろ、「地下室の手記」の主人公が自分で自分に対するほどの他者性も持っていない。
人間とは自意識そのものであり、それ故にそれは無限に広がり、定義する事はできない。それぞれの人間が自分の自由を持ち、他者が自分に対してあてはめようとする定義に反抗する。「白痴」では、ナスターシャ、ムイシュキン、ロゴージンの三角関係が展開されるが、これは極端に言えば、狂人三人の、自意識の劇だ。この中で地に足をつけている人物は一人もおらず、彼らはラスコーリニコフのようにその可能性も示されていない。アグラーヤという女性が白痴には出てくるが、この人物だけが地に足を付け、ムイシュキンを正しく愛する事ができる。わかりやすく言えば、結婚して「良い奥さん」になりそうなのはアグラーヤだけだ。だが、現代人はみな、ナスターシャやムイシュキンやロゴージンの方に似ている。
話がずれてきたので、「罪と罰」を基本ラインに据えてみよう。「罪と罰」は主人公ラスコーリニコフが殺人をする話だ。この殺人は、ラスコーリニコフの徹頭徹尾、意識的な加工である。ラスコーリニコフが、殺人という行為を行ったのは、彼自身が自分の内面的、自意識の地獄から抜け出るためだった、と考える事ができる。この行為は、それが行われる事によって、他人に対してラスコーリニコフの意識が見える事になった。この事は重要だと僕は考える。
つまりはーー小説というものに「事件」が必要なのは、それが小説内で解かれる為だ。ラスコーリニコフは殺人という行為を行ったが故に、ラスコーリニコフという自意識の内面が外界に、一つの事物として目に見えるものとなった。つまりは、他者の意識に、ラスコーリニコフの意識は殺人という行為・事件を通じて可視化される。だからこそ、殺人以降のラスコーリニコフは「世界」の中で他者と相関する事を余儀なくされる。実際、人を殺すまでのラスコーリニコフは全て、内面的な自意識の告白で済む。しかしそれ以降は、それだけでは済まない。他者と己との関係を意識せねばならない。(これは作家にとっても同じだった) この事が始まる為には、「殺人」という誤った事件が必要だったのだ。
ドストエフスキーの小説において「事件」とはおそらく、人間の自意識を外在化し、他者との関係を築く為に必要な物だった。ドストエフスキーの小説は大枠で見れば何らかの「事件」が起こり、それを「解決」する方向へ導かれる。しかしそれはあくまでも大枠での話で、この大枠の内部で、それぞれの自意識は「事件」を中心に関係する。いわば、何らかの事件を媒介としてそれぞれの自意識は自分のギリギリの内面的言語や、絶対的な行為をなさなければならない。見方を変えれば、ドストエフスキーは、それぞれの自意識の限界を露呈させる為に、わざと「事件」を起こした。ラスコーリニコフにとって得た金はどうでもよく、最初考えていた思想もむしろどうでもよかった。彼は世界に、世間に出て行きたかった。しかし自分の内面的自意識に閉じ込められて出て行く事ができず、どうしようもなくて殺人を行った。…そんな風に見る事もできる。
ドストエフスキーの作品においては、イデーが描写の対象となっている。確かにバフチンの言う通り、この登場人物のイデーに、批評家はドストエフスキー自身のイデーを見つけようとするか、または批評家自身のイデーを発見しようと務めてしまっている。しかしドストエフスキーそれを「描いた人」である。描く人間は描かれたものとは違う存在だから、ドストエフスキーはそれらのイデーをまるで、過去における物質のように描写したのだった。ドストエフスキーはこれらを「描写」したのだが、人は未だにこれらの「内部」にいる。人は未だに、自分の正当性とイデーを他者との関連の中で主張しており、その思考方法を知らずにドストエフスキーにも当てはめてしまっている。しかし、そうしたイデーそれ自体が劇の構成要素そのものだというのがドストエフスキー自身の「イデー」だった。今はそんな風に見えている。
後、付け足したいのは、ラスコーリニコフとは、自分自身のパロディだという事だ。彼が何度も漏らす台詞は「自分はこうなる事を知っていた。前から知っていた」というものだ。ラスコーリニコフは、自分がどうなるかを知っていた。彼の聡明は彼自身の行く先を「最初から」知っていた。しかしそれは無意識的なもので、意識はそれとは違うものを求めていた。普通の小説においては、当たり前だが、主人公は物語の結末を知らされてはいない。物語を統御しているのは、作者であり、主人公や登場人物は何も知らない事になっている。しかしラスコーリニコフは作者としての機能も兼ねており、彼は自分がどこへ行くかを知っている。彼の生きる哀しみとは全てを知っており、自分が何であり、どこへ行くかもわかっているにも関わらずそうしなければならない、という事だ。ラスコーリニコフは自白するが、本当は自白したくない。にも関わらず彼は「自白しなければならない」「ソーニャと会わなければならない」という事を「知って」いる。彼は最初から、物語内における時間それ自体を空間的に把握しており、それにも関わらず彼はそれをもう一度時間的に生き直すのである。ここにラスコーリニコフの悲しみがある。この事は僕は、現代人の生きる哀しみと繋がっていると考える。つまり、現代人もまた、全てがアーカイブ化され、あらゆる事に対して結論が出ているにも関わらず、その「生」をもう一度生きなければならない。この事にある哀しみが生まれてくる。そしておそらくはこの世でアーカイブ化されていないのはその哀しみだけなのだ。