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岩崎弥太郎物語「海を拓く者」  作者: sukezakun
第一部:地下浪人時代
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第二章 龍馬という光


天保十四年(1843年)春、弥太郎九歳。


股くぐりの屈辱から二年が経っていた。


弥太郎は、相変わらず村で孤立していた。誰も話しかけてこない。すれ違っても、目を逸らされる。


だが、弥太郎は気にしなかった。


彼には、やるべきことがあった。


勉強だ。


朝から晩まで、弥太郎は本を読んだ。母が持っていた古い本を、何度も何度も読み返した。『論語』『孟子』『史記』。


そして、文字を書き、計算をした。


「弥太郎、もう夜じゃき。寝んといかんぞ」


母が、心配そうに声をかけた。


「まだええき。もうちょっとだけ」


弥太郎は、薄暗い行灯の下で、本を読み続けた。


目が痛くなるまで、文字を追い続けた。


(わしには、学問しかないがぜよ)


(これで、這い上がるしかないき)


弥太郎の執念は、凄まじかった。


-----


ある春の日、弥太郎は海を見に行っていた。


井ノ口村から海までは、歩いて半時ほどだった。弥太郎は、よく一人で海に行った。そこには、誰もいない。誰にも馬鹿にされない。ただ、波の音だけが聞こえる。


「この海の向こうには…世界があるがぜよ」


弥太郎は、太平洋を見つめながら呟いた。


母から聞いた話では、この海の向こうには、中国がある。オランダがある。アメリカがある。


広い、広い世界が広がっている。


「わしも、いつかこの海を渡るき」


弥太郎は、小さく誓った。


だが、その時だった。


「おい! そこの奴!」


声がした。振り返ると、数人の少年たちが立っていた。


弥太郎は、すぐに分かった。庄屋の息子・武田新之助と、その取り巻きたちだ。


「岩崎やないか。こんなところで、何をしちょるがぜよ」


新之助は、十四歳になっていた。体も大きくなり、威圧感が増していた。


「…海を見ちょった」


「海? くくく、お前みたいな乞食が、海なんぞ見てどうするがぜよ」


取り巻きたちが、笑った。


「お前、あの股くぐり、覚えちょるか?」


「…」


「あれは面白かったのう。また、やってもらおうかや」


新之助が、弥太郎に近づいてきた。


弥太郎は、後ずさりした。だが、背後には海があった。


「逃げんなや。お前、わしの股をくぐるがぞ」


「…いやじゃ」


弥太郎は、きっぱりと言った。


「なんじゃと?」


「いやじゃっちゅうがぜよ。もう、お前の言うことなんぞ、聞かんき」


弥太郎の目には、強い意志が宿っていた。


新之助は、顔を真っ赤にした。


「この…生意気な!」


新之助が、弥太郎に殴りかかった。


だが、その時。


「おい、やめんかや!」


大きな声が響いた。


見ると、一人の少年が駆けてきた。十歳ぐらいだろうか。日に焼けた顔、大きな目、そして人懐っこい笑顔。背は弥太郎より少し高く、がっしりとした体つきをしていた。


「お前ら、何をしちょるがぜよ!」


少年は、新之助と弥太郎の間に割って入った。


「なんじゃ、お前は」


「わしゃあ、坂本龍馬っちゅうがぜよ!」


龍馬は、堂々と名乗った。その声は、明るく、力強かった。


「坂本…郷士の家の?」


新之助は、少し怯んだ。坂本家は、郷士の中でも有力な家だった。しかも、龍馬の父・八平は、郷士の中でも一目置かれる人物だった。


「そうじゃ。お前ら、こいつをいじめちょったろう?」


「いじめちょらん。ただ、身分の違いを教えちょっただけぜよ」


「身分の違い? そんなもん、関係ないき!」


龍馬の声は、大きく、はっきりしていた。


「人間は、みんな同じぜよ! 身分なんぞで、人を馬鹿にするな!」


「坂本…お前、何を言うちょるがぜよ」


「わしが間違ったこと、言うちょるか?」


龍馬は、一歩も引かなかった。その目には、真っ直ぐな正義感が宿っていた。


新之助は、しばらく龍馬を睨んでいた。だが、郷士の家の息子には、逆らえなかった。特に、坂本家のような有力な家には。


「…ちっ、行くぞ」


新之助と取り巻きたちは、悔しそうに去っていった。


弥太郎は、呆然と立ち尽くしていた。


「大丈夫か?」


龍馬が、弥太郎を振り返った。その笑顔は、太陽のように明るかった。


「…ああ」


「お前、岩崎弥太郎やろう?」


「…なんで、わしの名を」


「聞いちょるき! お前、すごい賢いんやろう? 本をいっぱい読んじょるっちゅうて!」


龍馬の声は、やけに明るかった。


「わしゃあ、お前に会いたかったがぜよ!」


「…なんでじゃ」


「友達になりたいきに決まっちょるろう!」


龍馬は、にっと笑った。


弥太郎は、その笑顔を見て、言葉を失った。


友達。自分に、そんなことを言う者がいるのか。


「わしは…地下浪人ぜよ」


「知っちょる」


「お前は、郷士じゃろう。身分が違うき」


「そんなこと、関係ないき!」


龍馬は、弥太郎の肩を叩いた。その手は、温かかった。


「わしゃあ、お前と友達になりたいがぜよ! 身分なんぞ、知ったことか!」


弥太郎は、何も言えなかった。


この男は、何を言っているのか。


郷士が、地下浪人と友達になる? そんなこと、あり得ない。


だが、龍馬の目は、本気だった。嘘をついている目ではなかった。


「…お前、馬鹿か」


「馬鹿かもしれんのう!」


龍馬は、大笑いした。その笑い声は、からからと明るく、まるで雲一つない空のようだった。


「じゃが、わしゃあ、こういう生き方しかできんがぜよ!」


弥太郎は、この男が理解できなかった。


だが、不思議と、嫌な気はしなかった。


「…龍馬」


「なんじゃ?」


「なんで、わしを助けたがぜよ」


「助けたっちゅうか…見ちょったら、腹が立ったがじゃ」


龍馬は、真面目な顔で言った。


「あいつら、お前をいじめちょった。それが、許せんかったき」


「…」


「お前は、悪いことをしちょらん。ただ、生まれが違うだけぜよ。それで馬鹿にされるなんぞ、おかしいき」


龍馬の言葉は、シンプルだった。だが、その真っ直ぐさに、弥太郎は打たれた。


「龍馬…お前は、変わった奴じゃのう」


「そうかもしれんのう!」


龍馬は、また笑った。


「じゃが、変わっちょってもええろう? わしゃあ、わしの道を行くだけぜよ!」


その日から、弥太郎と龍馬の奇妙な友情が始まった。


-----


龍馬は、何度も弥太郎の家を訪ねてきた。


「弥太郎! おるか!」


大きな声で呼びながら、勝手に上がり込んでくる。


「…なんで来るがぜよ」


「お前と話したいきに決まっちょるろう!」


「話すことなんぞ、ない」


「あるき!」


龍馬は、弥太郎が読んでいる本を覗き込んだ。


「なんじゃ、これ。『孟子』? 難しそうやのう」


「お前には読めんろう」


「そうじゃのう。わしゃあ、本を読むがは苦手やき」


龍馬は、あっけらかんと言った。


「じゃが、お前が読んで教えてくれたら、わしも分かるかもしれんき!」


「なんで、わしがお前に…」


「頼むき! わしゃあ、勉強は苦手やけんど、いろんなことを知りたいがぜよ!」


龍馬の目は、本当に真剣だった。


弥太郎は、ため息をついた。


「…孟子は、性善説を唱えたがぜよ」


「性善説?」


「人間は、生まれつき善い心を持っちょるっちゅう考え方じゃ」


「ほう…」


龍馬は、興味深そうに聞いていた。


「じゃが、わしは違うと思うき」


「え?」


「人間は、生まれつき悪いもんじゃ」


弥太郎の目が、鋭くなった。


「人間は、欲望の塊ぜよ。金が欲しい、権力が欲しい、他人を支配したい。そういう欲望で動いちょるがじゃ」


「弥太郎…」


「わしも、そうぜよ。わしは、這い上がりたい。金を稼ぎたい。この村の奴らを、見下ろしたい。それが、わしの本心ぜよ」


弥太郎の言葉は、容赦なかった。


龍馬は、しばらく黙っていた。そして、ぽつりと言った。


「じゃが、弥太郎。お前は、悪い奴やないき」


「…なんでじゃ」


「だって、お前、母ちゃんを大事にしちょるろう? 家族のために、必死に勉強しちょるろう?」


「…」


「それって、善い心があるっちゅうことやないか?」


龍馬の言葉は、シンプルだった。


弥太郎は、何も言えなかった。


この男は、なぜこんなに真っ直ぐなのか。


「龍馬…お前は、本当に馬鹿じゃのう」


「わははは! またそれか!」


龍馬は、大笑いした。


弥太郎も、少しだけ笑った。


この男といると、不思議と心が軽くなる。


-----


だが、龍馬が弥太郎と親しくすることは、周囲から快く思われなかった。


ある日、龍馬は武市半平太に呼び出された。


武市半平太は、郷士の中でも秀才として知られる青年だった。十八歳の武市は、すでに剣術の達人として名を馳せており、土佐の若者たちの中心的存在だった。理知的で、礼儀正しく、多くの若者から慕われていた。端正な顔立ちに、鋭い知性が宿っていた。


「龍馬、お前に話がある」


武市の声は、いつもより厳しかった。


「なんじゃ、半平太」


龍馬は、気楽に答えた。


「お前、岩崎弥太郎と親しいそうじゃのう」


龍馬の表情が、わずかに硬くなった。


「ああ、そうぜよ。弥太郎は、わしの友達じゃき」


「…龍馬」


武市は、ため息をついた。


「お前、分かっちょるがか。あれは、地下浪人ぜよ」


「分かっちょるき」


「分かっちょって、なんで付き合うがぜよ」


武市の声には、苛立ちが混じっていた。


「わしらは郷士じゃ。地下浪人とは、身分が違う。お前が岩崎と付き合うことで、坂本家の評判が落ちるがぜよ」


「評判なんぞ、知らんき」


龍馬は、きっぱりと言った。


「弥太郎は、わしの友達じゃ。それだけぜよ」


「龍馬…」


武市は、眉をひそめた。


「お前は、分かっちょらん。この土佐では、身分がすべてじゃ。地下浪人と郷士が友達になるなんぞ、あってはならんことぜよ」


「なんであってはならんがぜよ!」


龍馬の声が、大きくなった。


「弥太郎は、頭もええし、真面目じゃ。わしより、よっぽど立派ぜよ」


「それは認める」


武市は、冷静に答えた。


「岩崎が優秀なことは、わしも知っちょる。じゃが、それと身分は別じゃ」


「身分なんぞ、くだらんき!」


「龍馬! その言葉は、慎め!」


武市の声が、鋭くなった。その目は、いつもの温厚さを失い、厳格な光を放っていた。


「身分制度を否定するがは、藩を否定することじゃ。お前、それが分かっちょるがか」


「…」


龍馬は、黙り込んだ。


武市は、深く息を吐いた。


「龍馬、わしはお前のことを思うて言うちょるがぜよ。お前は、坂本家の跡取りじゃ。もっと、立場を考えて行動せないかん」


「じゃが、半平太…」


「岩崎とは、距離を置け。それが、お前のためじゃ」


武市の言葉は、命令のようだった。


龍馬は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと顔を上げた。


「半平太、すまんのう」


「分かってくれたか」


「いや、わしゃあ、それはできんき」


龍馬の目は、真剣だった。


「弥太郎は、わしの友達じゃ。友達を見捨てるなんぞ、わしにはできん」


「龍馬…」


「身分がどうとか、評判がどうとか、わしゃあ知らんき。友達は友達ぜよ」


龍馬の声には、揺るぎない決意があった。


武市は、長い間龍馬を見つめていた。そして、小さく首を振った。


「お前は…本当に頑固じゃのう」


「そうかもしれんのう」


龍馬は、にっと笑った。


「じゃが、わしゃあ、こういう生き方しかできんがぜよ」


武市は、ため息をついた。


「分かった。じゃが、龍馬。お前の行動が、いつか問題になる日が来るかもしれん」


「その時は、その時ぜよ」


「…お前には、かなわんのう」


武市は、苦笑した。


龍馬という男は、どうしようもなく真っ直ぐだった。理屈では動かない。心で動く男だった。


それが、武市には理解できなかったが、同時に羨ましくもあった。


-----


翌日、龍馬は弥太郎に会いに行った。


「弥太郎!」


「…また来たがか」


弥太郎は、本を読んでいた。


「お前、半平太に怒られたろう」


「…なんで知っちょるがぜよ」


「分かるき。お前が、わしと付き合うことで、周りから何を言われちょるか」


弥太郎の声は、いつもより低かった。


「お前、わしと友達でおることで、損しちょるがぜよ」


「損なんぞ、しちょらん」


龍馬は、きっぱりと言った。


「嘘をつくな。郷士の家の跡取りが、地下浪人と友達とか、おかしいき」


「おかしゅうないき」


龍馬の声は、力強かった。


「わしゃあ、お前と友達でおることを、誇りに思うちょるき」


「…馬鹿か」


「馬鹿でええき」


龍馬は、弥太郎の肩を叩いた。


「お前は、わしの一番の友達じゃ。それは、誰が何を言うても変わらんき」


弥太郎は、何も言えなかった。胸の奥が、熱くなった。


(こいつは…本当に…)


「龍馬…お前は、本当に馬鹿じゃのう」


「わはははは! またそれか!」


龍馬は、大笑いした。


弥太郎も、少しだけ笑った。


この男といると、自分でも信じられないほど、心が軽くなる。


暗闇の中で、一筋の光が差し込んだような気がした。


龍馬という男は、弥太郎にとって、希望だった。


いつも鬱陶しいと思っているのに、いなくなったら寂しい。


そんな、不思議な存在だった。


そして、弥太郎は心の中で思った。


(わしは、金と権力を求める。這い上がるために、何でもする)


(じゃが、この男だけは…この男だけは、裏切らんき)


それが、弥太郎なりの友情だった。


-----


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